清洲会議で羽柴秀吉に抱かれていた幼子を覚えているか?その子供が今回の主人公「三法師」です。3歳で織田家の家督を継承した三法師ですが、数奇な運命を辿ったとも言える。三法師が陽の目を浴びたのはこの時だけで、その後はあまり注目されることがなかったんです。

そんな三法師は、どのような人生を送ったのか、清洲会議以降の三法師に興味があるライター、すのうと一緒に学習していこう。

ライター/すのう

大河ドラマにはまり、特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。秀吉に上手く利用された三法師のその後の人生を、ライターすのうが解説していく。

織田信忠の嫡男として誕生した三法師

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By 不明 - 東京大学史料編纂所, パブリック・ドメイン, Link

天正8年(1580年)、織田信忠の嫡男として誕生した三法師。三法師とは幼名であり、元服後は豊臣秀吉の「秀」織田信長の「信」を貰い、織田秀信と名乗ります。三法師のイメージが強く、織田秀信と聞いても「誰?」と思われる方が多いかもしれませんね。ここでは良く知られている幼名の三法師で、統一させていただきます。この機会に織田秀信の名前も覚えておきましょう。

三法師は、信長の嫡孫(ちゃくそん)でもあったことから、行く行くは家督を相続する立場にあったのです。当時3歳だった三法師は、本能寺の変が起きた時、岐阜城にいたことで難を逃れました。父と祖父を同時に失った三法師。この先周囲の大人たちに翻弄される人生を歩むことになります。

清洲会議にて、織田家の後継者となった三法師

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By 投稿者がファイル作成 - ブレイズマン (talk) 07:54, 4 October 2010 (UTC), パブリック・ドメイン, Link

三法師は、織田信忠の嫡男として誕生。母の徳寿院は、塩川長満(しおかわながみつ)の娘、森可成(もりよしなり)の娘、武田信玄の娘の松姫と言う様々な説が存在しています。天正10年(1582年)本能寺の変が起きた時は、岐阜城に滞在していましたが、後に保護され清洲城へと難を逃れました。その後、織田家の後継者を決める清洲会議にて、羽柴秀吉により、織田家の跡目として推挙された三法師。柴田勝家は、織田信長の三男、信孝を推薦します。結果、織田家の後継者は秀吉が推挙した三法師に決定。

信孝が後見人となり、僅か3歳で家督を継承した三法師は、近江・坂田郡(現在の滋賀県米原市)に3万石の直轄領を要します。代官(主君の代わりに実務をするもの)には堀秀政が就任しました。その後、安土城に入る予定でしたが、後見人である信孝は、三法師を岐阜城から出そうとしません。そこに目を付けた秀吉は、岐阜城を包囲し攻撃。信孝は三法師を秀吉に開放し、自ら降伏します。その後、織田信雄(おだのぶかつ/織田信長の次男)を後見人とし、三法師は安土城の仮屋式に移りました。

13歳で岐阜城の城持ち大名になる

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織田家の当主に据えられた三法師は天正12年(1584年)、秀吉と織田信雄が小牧長久手の戦いで対立すると、丹羽長秀の居城である坂本城に移され、その後は秀吉の元へ落ち着きます。しかし同年11月、秀吉と信雄の和睦が成立し、小牧長久手の戦いが閉幕。秀吉は織田家の後継者を正式に信雄と決め、再び坂本城に戻されることになりました。天正16年(1588年)、岐阜城に入城した三法師は9歳で元服。名を三郎秀信と改名し 、従四位下・侍従の位を与えられます。

天正18年(1590年)、小田原征伐では11歳で堀秀政の指揮下に置いて、鉄砲隊として左構えの大将として参加したと言われていますがその辺りの確証は、はっきりしていません。13歳の時、豊臣秀勝(とよとみひでかつ/秀吉の甥)が亡くなると、秀勝の居城であった岐阜城を譲りうけ、13万石を加増され、城持ち大名となります。清洲会議で都合良く利用されたように思われる三法師ですが、僅か13歳で大名に出世しました。この処遇を見ると、秀吉から優遇されていたのが分かりますね。秀吉にしてみても主君であった信長の嫡孫ですから、無下に扱うことはできなかったのでしょう。

文禄の役にも出陣、以後は地道に活躍

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文禄元年(1593年)、当初三法師は文禄の易に出兵する予定ではありませんでしたが、前岐阜城主であった豊臣秀勝が、済州島で病死したため三法師の家老、百々 綱家(どど つないえ)が秀勝の率いた8千の兵を引き継ぐ形となり、三法師も急遽渡航することになります。朝鮮出兵では、慣れない土地での生活で体調を崩してしまう武将も多く、多数の死者を出していますが、三法師は無事帰国することができました。

その後、従三位・岐阜中納言に出世。和田孫太夫(和田信盛の父/または叔父)の娘を正室に迎えています。鏡島湊(長良川の船運湊)を建設したり、祖父・信長も行なっていた鵜飼いの保護は岐阜城主が継承しており、三法師も携わっていたようです。

※ 鵜飼とは、鵜を巧みに操って川にいる魚を獲る漁法のこと。
現在では、岐阜県の長良川・愛媛県の肱川(ひじかわ)・大分県の三隈川で行われる鵜飼いが、日本三大鵜飼いとされています。

\次のページで「キリシタン大名でもあった三法師」を解説!/

キリシタン大名でもあった三法師

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文禄3年(1594年)正月、新公家衆の一人として、また翌年、1595年には関白となった豊臣秀次に付き添い参内(皇居に参上すること)しています。この頃には、羽柴姓も下賜されていたようで、かなりの高待遇ぶりが伺えますね。そして、文禄4年(1595年)、弟の織田秀則とともにキリスト教に入信した三法師、洗礼名はパウロ。ルイスフロイス(ポルトガルの宣教師)は、「生まれもって位が高く、大きな期待がかけられる」と三法師を賞賛しています。

しかし、当時は秀吉がバテレン追放令を発していたこともあり、公に活動することは控えていました。キリシタンであったことも隠していたと言われています。慶長3年(1598年)、秀吉が亡くなると積極的に信仰を開始。翌年には、岐阜城下に教会や司祭館・養生所などを建設し、尾張・美濃は信者が加増していきました。三法師の家臣たちも大半が信者であったと、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(イタリア人のカトリック教会の司祭)によって報告されています。一方で、寺社の建立や寺院の保護なども行い、三法師が岐阜城主となっていた時代には争いや一揆などはほとんど起こりませんでした。

関ヶ原の戦いでは、西軍に付く

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慶長5年(1600年)7月1日、三法師は徳川家康の会津征伐に従軍する予定でしたが、軍装の準備が間に合わず遅れをとってしまいます。後に石田三成が蟄居していた佐和山城から挙兵。関ヶ原の戦いへと移行します。三法師は三成から戦勝した暁には「美濃・尾張の2か国を与える」と誘われ、あっさりと西軍に味方することを決めてしまいました。三法師が西軍に付いたことで、美濃の諸大名の大半が西軍に味方。筆頭家老の百々綱家や木造長政(こづくり ながまさ)・飯沼長資(いいぬまながすけ)は、徳川に付くよう三法師を説得しますが聞き入れてもらえませんでした。

8月21日、美濃に迫る東軍の池田輝政・浅野幸長・山内一豊らが率いる軍勢1万8千が木曽川を渡り岐阜城に接近。三法師はこれに応戦するため、羽栗郡米野村(現在の岐阜県羽島郡笠松町)に綱家・長資隊を置き、各務郡新加納村(現在の岐阜県各務原市/かかみがはらし)などにも軍政を配置するなどして、9千の兵を分散させる作戦を取りました。8月22日、米野村で激突した両軍でしたが、兵を分散していた西軍は僅か3千の兵で応戦。三法師も自ら出陣し、指揮を取りますが東軍1万8千の多勢には敵わず、長資は戦死。三法師・綱家は岐阜城へ撤退します。こうして関ヶ原の戦いの前哨戦・米野の戦いは東軍が勝利しました。

岐阜城の戦いでも敗北

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By 不明 - 鳥取県立美術館所蔵品。Tottori prefectural art museum,Japan, パブリック・ドメイン, Link

池田輝政と福島正則の軍は岐阜城の南、荒田川に陣を敷きます。慶長5年(1600年)8月23日、岐阜城に籠城する三法師は、大垣城と犬山城に援軍を要請。しかし犬山城に籠城していた石川 貞清(いしかわ さだきよ)は東軍の井伊直政と内通しており、援軍が送られてくることはありませんでした。大垣城からの援軍は岐阜城に向かっていましたが、途中で藤堂高虎・黒田長政隊に攻撃され敗走してしまいます。

こうして岐阜城を包囲した東軍は、本丸以外を全て堕としました。三法師も抵抗を続けていましたが、圧倒的な兵力の差に兵は数十人にまで追い込まれ、負けを覚悟した三法師は自害を決意。しかし、池田輝政や家臣の木造長政らに説得され、降伏します。こうして、岐阜城は僅か1日で落城。米野の戦いに続き、関ヶ原の前哨戦、岐阜城の戦いも東軍勝利で終結しました。池田輝政の父、恒興は信長とは乳兄弟。輝政も三法師には色々な思いがあったのかもしれませんね。

\次のページで「高野山に出家するも、追放される」を解説!/

高野山に出家するも、追放される

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By 不明 - 福島正則画像。東京国立博物館所蔵品。A portrait of Masanori Fukushima. A holding of the Tokyo National Museum., パブリック・ドメイン, Link

関ヶ原の戦いは西軍の敗退で幕を閉じます。当然三法師にも何らかの処分が下されることになるのですが、そんな中、自らの家臣に三法師の縁者も多かった福島正則は、「自分の武功は要らないから三法師を助けて欲しいと懇願。政則に救われた三法師は、助命され高野山へ追放されることになりました。しかし高野山と言えば、天正9年(1581年)に信長が高野山攻めを行なったとされる場所。(信長公記には記載がないため、攻めの事実は不明とされる)高野山側は、信長の孫であった三法師を受け入れず、10月28日まで待たせた挙句、入山後も僧たちから迫害を受けたと言われています。

そして、慶長10年(1605年)三法師は下山。理由としては健康を害したことでの病気治療、僧を斬った、あるいは信長の影響など様々な説があり、事実は分かりません。下山した三法師が山麓の向副(むかそい/現在の和歌山県橋本市)にて村人の情で善福寺の一隅に住み、村の娘と結婚し、一子を儲けたなんて話も(諸説あり)その後、三法師は26歳と言う若さでこの世を去りました。

幼少時代に注目された三法師のその後の人生 は幸か不幸か?

清洲会議で一躍脚光を浴び、豊臣秀吉に織田家の後継者として推挙され、家督を継承したにも関わらず、実際は大人の事情により都合良く振り回された三法師。後に秀吉が天下統一を果たし、清洲会議以降はほとんど注目されることはありませんでした。元服後に改名した「織田秀信」と聞いても誰?と思う方が多かったのではないでしょうか。秀吉にとっては主君であった織田信長の嫡孫でもあった三法師ですから、13歳で大名にしたりと、かなりの高待遇で接していたのも事実です。

三法師が秀吉のことをどのように感じていたのかは分かりませんが、バテレン追放令が発布されていたにも関わらず、秀吉に内緒でキリスト教を信仰していたのは、多少の反抗心があったのかもしれませんね。関ヶ原の戦いでは東軍に付かず、西軍に付いたことが運命の別れ道となった三法師。家臣の言う通りにしていればと悔やまれますが、美濃・尾張に目がくらんでしまったのかもしれません。

確かに美濃・尾張は織田家にとっても所縁のある土地。僅かな望みにかけたとも考えられます。信長の孫と言う事で高野山では迫害を受け、26歳でこの世を去った三法師。幼少期から逝去するまで、織田信長と言う偉大な祖父の影響を受けた若者の人生は、幸か不幸かいったいどちらだったのでしょうね。

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安土桃山時代日本史歴史江戸時代

清洲会議以降はどうなった?「三法師(織田秀信)」その後の人生を歴女がわかりやすく解説

清洲会議で羽柴秀吉に抱かれていた幼子を覚えているか?その子供が今回の主人公「三法師」です。3歳で織田家の家督を継承した三法師ですが、数奇な運命を辿ったとも言える。三法師が陽の目を浴びたのはこの時だけで、その後はあまり注目されることがなかったんです。

そんな三法師は、どのような人生を送ったのか、清洲会議以降の三法師に興味があるライター、すのうと一緒に学習していこう。

ライター/すのう

大河ドラマにはまり、特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。秀吉に上手く利用された三法師のその後の人生を、ライターすのうが解説していく。

織田信忠の嫡男として誕生した三法師

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By 不明 – 東京大学史料編纂所, パブリック・ドメイン, Link

天正8年(1580年)、織田信忠の嫡男として誕生した三法師。三法師とは幼名であり、元服後は豊臣秀吉の「秀」織田信長の「信」を貰い、織田秀信と名乗ります。三法師のイメージが強く、織田秀信と聞いても「誰?」と思われる方が多いかもしれませんね。ここでは良く知られている幼名の三法師で、統一させていただきます。この機会に織田秀信の名前も覚えておきましょう。

三法師は、信長の嫡孫(ちゃくそん)でもあったことから、行く行くは家督を相続する立場にあったのです。当時3歳だった三法師は、本能寺の変が起きた時、岐阜城にいたことで難を逃れました。父と祖父を同時に失った三法師。この先周囲の大人たちに翻弄される人生を歩むことになります。

清洲会議にて、織田家の後継者となった三法師

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By 投稿者がファイル作成 – ブレイズマン (talk) 07:54, 4 October 2010 (UTC), パブリック・ドメイン, Link

三法師は、織田信忠の嫡男として誕生。母の徳寿院は、塩川長満(しおかわながみつ)の娘、森可成(もりよしなり)の娘、武田信玄の娘の松姫と言う様々な説が存在しています。天正10年(1582年)本能寺の変が起きた時は、岐阜城に滞在していましたが、後に保護され清洲城へと難を逃れました。その後、織田家の後継者を決める清洲会議にて、羽柴秀吉により、織田家の跡目として推挙された三法師。柴田勝家は、織田信長の三男、信孝を推薦します。結果、織田家の後継者は秀吉が推挙した三法師に決定。

信孝が後見人となり、僅か3歳で家督を継承した三法師は、近江・坂田郡(現在の滋賀県米原市)に3万石の直轄領を要します。代官(主君の代わりに実務をするもの)には堀秀政が就任しました。その後、安土城に入る予定でしたが、後見人である信孝は、三法師を岐阜城から出そうとしません。そこに目を付けた秀吉は、岐阜城を包囲し攻撃。信孝は三法師を秀吉に開放し、自ら降伏します。その後、織田信雄(おだのぶかつ/織田信長の次男)を後見人とし、三法師は安土城の仮屋式に移りました。

13歳で岐阜城の城持ち大名になる

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織田家の当主に据えられた三法師は天正12年(1584年)、秀吉と織田信雄が小牧長久手の戦いで対立すると、丹羽長秀の居城である坂本城に移され、その後は秀吉の元へ落ち着きます。しかし同年11月、秀吉と信雄の和睦が成立し、小牧長久手の戦いが閉幕。秀吉は織田家の後継者を正式に信雄と決め、再び坂本城に戻されることになりました。天正16年(1588年)、岐阜城に入城した三法師は9歳で元服。名を三郎秀信と改名し 、従四位下・侍従の位を与えられます。

天正18年(1590年)、小田原征伐では11歳で堀秀政の指揮下に置いて、鉄砲隊として左構えの大将として参加したと言われていますがその辺りの確証は、はっきりしていません。13歳の時、豊臣秀勝(とよとみひでかつ/秀吉の甥)が亡くなると、秀勝の居城であった岐阜城を譲りうけ、13万石を加増され、城持ち大名となります。清洲会議で都合良く利用されたように思われる三法師ですが、僅か13歳で大名に出世しました。この処遇を見ると、秀吉から優遇されていたのが分かりますね。秀吉にしてみても主君であった信長の嫡孫ですから、無下に扱うことはできなかったのでしょう。

文禄の役にも出陣、以後は地道に活躍

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文禄元年(1593年)、当初三法師は文禄の易に出兵する予定ではありませんでしたが、前岐阜城主であった豊臣秀勝が、済州島で病死したため三法師の家老、百々 綱家(どど つないえ)が秀勝の率いた8千の兵を引き継ぐ形となり、三法師も急遽渡航することになります。朝鮮出兵では、慣れない土地での生活で体調を崩してしまう武将も多く、多数の死者を出していますが、三法師は無事帰国することができました。

その後、従三位・岐阜中納言に出世。和田孫太夫(和田信盛の父/または叔父)の娘を正室に迎えています。鏡島湊(長良川の船運湊)を建設したり、祖父・信長も行なっていた鵜飼いの保護は岐阜城主が継承しており、三法師も携わっていたようです。

※ 鵜飼とは、鵜を巧みに操って川にいる魚を獲る漁法のこと。
現在では、岐阜県の長良川・愛媛県の肱川(ひじかわ)・大分県の三隈川で行われる鵜飼いが、日本三大鵜飼いとされています。

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