
4-3、ジョージ6世夫妻、外遊で魅力を発揮
1939年5月から6月に、ジョージ6世夫妻は、カナダとアメリカを公式訪問。北米を訪問した最初のイギリス国王に。また、この北米訪問には、近いうちにヨーロッパで起こると思われた戦争に備えてイギリスへの支援を要請するという政治的目的もあったのですが、北米の民衆から熱狂的な歓迎を受けたそう。 ジョージ6世夫妻は1939年のニューヨーク万国博覧会に出席した後、ホワイトハウスでフランクリン・ルーズヴェルト大統領と会談、アメリカ公式訪問を通じて、イギリス国王夫妻とルーズヴェルト大統領との間に強い信頼関係が結ばれたことで、第2次世界大戦でのアメリカとイギリスとの関係に大きな影響を及ぼしたということ。
4-4、第2次世界大戦に突入
大戦中、ジョージ6世夫妻はバッキンガム宮殿に住んでいましたが、まだティーンエイジャーのエリザベス王女とマーガレット王女をカナダかどこかに疎開させるべきではといわれたとき、エリザベス王妃は断固とした態度で断りました。
「私の子供たちは私のもとを離れません。また、私は国王陛下のもとを離れません。そして国王陛下はロンドンをお離れになりません」というセリフがとても有名。
また、バッキンガム宮殿が爆撃の被害にあったときも、「爆撃された事に感謝しましょう。これでイーストエンドの住民に顔向けが出来ます」というあくまで強気の発言は、こういう戦時中の国民の士気を鼓舞するものとして歓迎されたということ。
ヒットラーは、エリザベス王妃をして「ヨーロッパで最も危険な女性」と決めつけたというから、いかに国民の人気の高い存在だったかわかりますよね。
推定相続人のエリザベス王女は、第2次世界大戦中に英国女子国防軍に属して公務に携わるようになりました。
4-5、エリザベス王女の結婚には慎重だった
第2次世界大戦後、お年頃となった長女のエリザベス王女の結婚問題が持ち上がりました。ギリシア王子で母がバッテンブルグ家出身のフィリップ王子は、イギリス王室とは遠い親戚でもあり、エリザベス王女が7歳のときから心に決めた初恋の人。しかし両親とすれば、あまりにはやくこの人じゃないと嫌だと決めちゃっていいのか、という思いがあったらしく、1947年、一家で南アフリカ訪問という機会を設けて冷却期間を置いたということ。
また、フィリップ王子は亡命王族なので、もしエリザベス王女と結婚すれば、ギリシア王室一族をイギリス王室が面倒見ることになるということもネックになっていたはず。フィリップ王子の姉がナチスと関係のあるドイツ系貴族と結婚していたとか、母が精神的にまいっていたとか、父が問題ある人だったとかいうことは良く知られていますが、親戚ではあったがあっさりとOKがもらえた相手ではなかったのですね。
ともあれ、冷却期間を置いてもエリザベス王女の気持ちは変わらず、1947年2月にフィリップ王子はイギリスに帰化して、イギリスでの軍務を継続するため、母の実家の姓であるバッテンブルグを英語化したマウントバッテンを名乗り、ギリシア正教から英国国教へ改宗、形式的なギリシャ王子及びデンマークの王子の地位を放棄して、1947年7月9日に正式に婚約が発表。11月20日にウェストミンスター寺院で結婚式が挙行され、1948年11月14日に長男チャールズ王子、1950年には長女アン王女が、1960年にアンドリュー王子と1964年にエドワード王子も誕生。
4-6、ジョージ6世、若くして亡くなる
生来病弱であった父ジョージ6世の健康状態は1951年に入り悪化し、肺がんと動脈硬化などの慢性疾患を複数併発、手術、療養の日々に。体調不良のジョージ6世に代わって、推定王位継承者のエリザベス王女が多くの公務をこなすようになりましたが、1952年2月6日未明、療養を兼ねて訪れていたサンドリンガム離宮で、就寝中に冠状動脈血栓症により54歳で崩御。
エリザベス王妃は長女エリザベス女王の即位後も、国王の寡婦、未亡人という称号ではなくクィーン・マザーと呼ばれ、101歳で亡くなるまで、国民からは絶大な人気を得て、王室内では孫たちの尊敬も得るという圧倒的な存在感で長寿を保ちました。
兄の退位、世界大戦を乗り切ったジョージ6世夫妻
ジョージ6世は思いがけずイギリス国王に即位したのですが、ご本人は何の教育も受けていない、準備が出来ていないと半泣きだったものの、エリザベス王妃の内助の功大で、兄のエドワード8世の突然の退位で傾きそうになった王室の国民への信頼を取り戻し、第2次世界大戦という困難な状況を立派に乗り越えたのです。現代から見ると何事もなかったようですが、20世紀初頭から多くのヨーロッパ諸国が続々と王室廃止して共和制になったことを考えると、ジョージ6世夫妻の支え合い愛情あるロイヤルファミリー像のおかげで、イギリス王室が存続したのは間違いないことでしょう。