
3-1、父ジョージ5世崩御で兄がエドワード8世に
1936年1月20日にジョージ5世が崩御、兄の王太子エドワードがエドワード8世としてイギリス国王に即位。ジョージ6世は、未婚で子供のいなかった兄についで王位継承1位、推定王位継承者に。
エドワード8世の問題
国王ジョージ5世は、既婚者との恋愛を続ける長男の王太子エドワードの言動に心を痛めていたということ。国王に即位したエドワード8世は42歳で未婚、親や親戚の進める縁談はすべて嫌がり、年上の既婚夫人と浮名を流すので有名なプレイボーイでした。なので父ジョージ5世は、「自分の死後12ヶ月以内にエドワードは破滅する」と予言めいたことまで。
ヒストリーチャンネルで見たイギリス制作の番組によると、エドワード8世は国家の重要書類にワインのしみをつけたりするような、節度をわきまえない、あまり有能とは言えない人物だったということです。ジョージ5世とメアリ・オブ・テック王妃も、子供の教育に関心がないとはいえ、皇太子が42歳になるのにふさわしい結婚をしていない、国王になる資質を持っていないというのはわかっていたはずですが、かといって次
3-2、エドワード8世、1年もたたずに退位
エドワード8世は、1936年12月11日に、以前から交際していたアメリカ人女性ウォリス・シンプソン夫人との結婚が政府に認められないことで、即位して1年経たず戴冠式も行わないうちに退位を宣言。ウォリス・シンプソン夫人は、2度の離婚歴があり、しかもエドワード8世のほかに、ドイツの駐英大使ヨアヒム・フォン・リッベントロップなど、複数の男性との関係さえ噂されている女性で、王妃としてふさわしくないと首相に反対されていました。しかしエドワード8世は愛する女性と結婚できないならば国王を辞めると退位を選んだということ。
4-1、ジョージ6世、国王として即位

エドワード8世の退位に伴って、推定王位継承者だったジョージ6世がイギリス国王に即位。ジョージ6世は、国王になる気はなく準備も出来ていなかったということ。自分は海軍将校としての教育しか受けていない、国王になる教育なんか受けていないと半泣きでした。また当時は宮廷内でも、おとなしいジョージ6世よりも、末弟のケント公ジョージのほうが明るく社交的な性格、おまけに後継ぎの息子(ウィンブルドンテニスの表彰式でお馴染みの現在のケント公)がいることで、国王にふさわしいのではという意見もあったそう。
ともあれ、幼い長女エリザベス王女が推定継承者となったが、まだ弟が生まれる可能性もあり、エリザベス王女は毎晩「弟が生まれますように」とお祈りしていたという話。
4-2、国王としての最初の仕事は兄の残務処理
ジョージ6世の国王として最初の仕事は、兄エドワード8世の称号、処遇などについてと、エドワード8世が相続継承した王室伝来のバルモラル城やサンドリンガム離宮などを買い戻すことでした。エドワード8世は、以後ウィンザー公爵を名乗ることになりましたが、じつはシンプソン夫人は結婚後もウィンザー公爵夫人とは名乗れなかったんですよね。ウィンザー公は王室とはしばらくの間疎遠となり、特に母メアリ・オブ・テック王太后と弟ジョージ6世の妻エリザベス王妃とは完全な絶縁状態に。当初、ウィンザー公はフランスで1、2年間過ごした後、イギリスに戻ってくるつもりでしたが、メアリ・オブ・テック王太后とエリザベス王妃を味方につけたジョージ6世が、許可を得ずに帰国すれば、王室からの援助を打ち切ると反対し、帰れなくなったそう。
戴冠式逸話
ジョージ6世の1937年5月12日の戴冠式は、もともとエドワード8世の戴冠式として予定されていたということ。
秩父宮ご夫妻が戴冠式に
日本はその頃、日英同盟の同盟国であったため、外国王室筆頭の扱いを。
『銀のボンボニエール』(主婦の友社、1991年)秩父宮妃の回想では、小さな少女(現エリザベス女王)が挨拶に登場されたとか、1980年代に秩父宮妃がイギリスを訪問されたときに、クィーン・マザーとなったエリザベス王妃とお茶を何度もお替りしながら何時間も昔話をされたという、すごい話が。日本の皇室とイギリス王室との交流の歴史がわかりますよね。
メアリ・オブ・テック王太后も出席
未亡人となった前国王の王妃は戴冠式に出席しないという慣習を破って、ジョージ6世の母メアリ・オブ・テック王太后も出席。戴冠式と言うのは重い王冠をかぶり、衣装も重く長い時間拘束されていて疲れ切ってしまうもののようで、戴冠式後にバッキンガム宮殿のバルコニーに何度も出て民衆の歓声にこたえるのが苦痛だったよう。「私たちは人間と思われていないのよ」という感想も。
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