今回はジョージ6世を取り上げるぞ。イギリスのエリザベス女王の父君ですが、兄のウィンザー公が退位した後を継承して第二次世界大戦をエリザベス王妃と共に乗り切ったんですね。

その辺のところを昔からウィンザー家に興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。ヨーロッパの王室に興味津々、最近映画やテレビドラマにも登場するようになったジョージ6世について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、ジョージ6世はジョージ5世の次男

King George VI of England, formal photo portrait, circa 1940-1946.jpg
By Bertram Park - This image is available from the United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID matpc.14736. This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., パブリック・ドメイン, Link

1895年12月14日、ノーフォークのサンドリンガム離宮で誕生。父はヨーク公(後のジョージ5世)、母はメアリー・オブ・テック妃。当時は曾祖母のヴィクトリア女王の治世で、当時の皇太子で後のエドワード7世は祖父。

ジョージ6世には年子の兄エドワード(後のエドワード8世)がいて、後に妹が1人、弟が3人(末弟ジョンは夭折)生まれました。

1-2、誕生日が曾祖父アルバート公の命日

Edward VII UK and successors.jpg
By Queen Alexandra of the United Kingdom - Daily Telegraph’s Queen Alexandra’s Christmas Gift Book, パブリック・ドメイン, Link

ヴィクトリア女王は42歳で亡くなった夫君アルバート公を熱烈に愛していましたから、曾孫ジョージ6世が最も悲しむべき34回目の命日に生まれたことを、日記に「ジョージ―(ジョージ5世のこと)は、最初、今日のような日に生まれたことを残念に思ったそうだが、私には特別の祝福を受けて生まれてきたように思える、神様からの賜物かもしれない」と書き記しています。もちろん、アルバートと命名されることは目に見えていたそう。

アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージと名付けられ、祖父のエドワード7世と同じく「バーティー」と呼ばれることに。

1-3、両親は子供たちの養育をお付きに丸投げ

ヨーク公夫妻は、愛人が何人もいてアレクサンドラ王妃とは不仲だった父エドワード7世とは違い、浮気もなく円満な夫婦仲だったのですが、当時の王侯貴族の慣習どおりに子供の養育にはほとんど関与せず、母のメアリ・オブ・テック妃は母性に欠けた人だったよう。兄エドワードと共にかなりひどい乳母の虐待を受けていて、寂しい子供時代がトラウマになったといい、祖母のアレクサンドラ王妃が嫁に代わって孫たちの面倒を見たということ。また、5歳の誕生日に父から左利きを右利きに矯正するよういわれ、それが原因か吃音症を患うように。それにX脚を直すためにやはりX脚の父から痛みを伴う矯正具の脚部への着用を強制されたりと、慢性胃炎もちに。

1-4、ジョージ6世、海軍に入り軍人に

ヴィクトリア女王が1901年1月22日に崩御し、アルバートの祖父がエドワード7世に。エドワード7世の即位に伴い、王位継承権は王太子となった父ヨーク公ジョージが第1位、次いで兄エドワード、ジョージ6世は3位に。

ジョージ6世は1909年に王立オズボーン海軍兵学校に入学。1911年の卒業試験は最下等の成績、でも王族なのでエリート校である王立ダートマス海軍大学へと進学。尚、1910年5月6日に祖父のエドワード7世が死去、王太子の父がジョージ5世として国王に即位、ジョージ6世の王位継承権は兄エドワードに次いで2位に。

\次のページで「1-5、ジョージ6世、海軍兵として第一次大戦に従軍」を解説!/

1-5、ジョージ6世、海軍兵として第一次大戦に従軍

ジョージ6世は巡洋艦に乗って西インド諸島やカナダ東沿岸で訓練航海や地中海でも訓練を受け、1914年の第一次世界大戦にも従軍、戦艦コリンウッドに乗り込み、対ドイツ帝国海軍とのユトランド沖海戦に参加しました。その後は十二指腸潰瘍手術したので以降の先頭には参加できずじまい。また、1918年には海軍から派生したイギリス空軍へと転籍、イギリス王族として初の飛行機操縦資格を取得しています
1919年10月にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学、歴史学、経済学、市政学を一年間学んだ後、1920年6月4日にはヨーク公爵、インヴァネス伯爵、キラニー男爵に。

幼少の頃から悩まされていた吃音症に起因するおどおどとした様子と生来の内気さから、兄エドワードほどには目立った存在ではなかったものの、ジョージ6世は父国王の名代として、炭鉱、工場、車両基地などの視察を行ったり、労働福祉協会 の総裁を務めたことも。

2-1、ジョージ6世、スコットランド貴族令嬢に一目惚れ

1920年頃のデビュッタントでナンバーワンの評価を得たのが、スコットランドの名門ストラスモア伯爵の令嬢であるエリザベス。ストラスモア伯爵のスコットランドのグラームス城へは、王室の子供たちも遊びに来ていたということなので、幼馴染ではあったようですが、ジョージ6世は、大人になったエリザベス嬢に出会って一目惚れ、ダンスに誘ってくれないかと侍従に頼んだところ、「最近の若い方は自分で誘うそうなので、ご自分で誘われたらいかがですか」と突き放されたということ。エリザベス嬢はジョージ6世にとって運命の人であったようです。

2-2、断られても断られてもプロポーズ、ついに

エリザベス嬢はジョージ6世に好意を持ってはいたが王室入りに難色を示したらしくて、1921年に最初のプロポーズを断り、ジョージ6世はひどく落ち込みました。彼女以外の人との結婚は考えられないとまで言うので、ジョージ6世母のメアリ・オブ・テック王妃が、息子のためにスコットランドまでエリザベス嬢に会いに行き、息子を幸せにするのはこの女性しかいないと確信して説得にあたりましたが、やはり断られてしまいました。ジョージ6世は、エリザベス嬢がジョージ6世の妹のメアリ王女の友人として結婚式のブライドメイドをつとめたとき、再度のプロポーズして撃沈。しかし1923年1月に再々度のプロポーズで、やっと結婚を承諾してもらえたということ。

2-3、ジョージ6世、エリザベス嬢と結婚

Wedding of George VI and Elizabeth Bowes-Lyon.png
By Bassano - Royal Collection Object 2941575, パブリック・ドメイン, Link

ふたりは1923年の4月にウエストミンスター寺院で結婚式を挙げたのでした。
この結婚はイギリス国民にとても祝福され、地味なジョージ6世は以後、エリザベス妃という公私にわたっての素晴らしいパートナーを得たのでした。尚、エリザベス妃は舅のジョージ5世にも気に入られ、おじいさまは孫のエリザベス王女を溺愛したということ。

ジョージ6世は結婚後、エリザベス王女とマーガレット王女に恵まれ「私たち4人」と、家族を大事にしたそう

2-4、ジョージ6世、吃音症を克服

映画「英国王のスピーチ」のとおり、ジョージ6世は公式の場での演説が苦手で、その原因である吃音症を克服するために、オーストラリア人セラピストのライオネル・ローグの治療を受けました。ローグは呼吸法の訓練を開始し、エリザベス妃もよく支えたので治療が功を奏して、以前に比べてすらすら話すことができるように。昔と違い、新聞、ラジオ、テレビなどマスメディアの登場で、国王や王妃、王族が今までとは違う民衆へのアピール、節度が必要な時代に。

\次のページで「3-1、父ジョージ5世崩御で兄がエドワード8世に」を解説!/

3-1、父ジョージ5世崩御で兄がエドワード8世に

1936年1月20日にジョージ5世が崩御、兄の王太子エドワードがエドワード8世としてイギリス国王に即位。ジョージ6世は、未婚で子供のいなかった兄についで王位継承1位、推定王位継承者に。

エドワード8世の問題
国王ジョージ5世は、既婚者との恋愛を続ける長男の王太子エドワードの言動に心を痛めていたということ。国王に即位したエドワード8世は42歳で未婚、親や親戚の進める縁談はすべて嫌がり、年上の既婚夫人と浮名を流すので有名なプレイボーイでした。なので父ジョージ5世は、「自分の死後12ヶ月以内にエドワードは破滅する」と予言めいたことまで

ヒストリーチャンネルで見たイギリス制作の番組によると、エドワード8世は国家の重要書類にワインのしみをつけたりするような、節度をわきまえない、あまり有能とは言えない人物だったということです。ジョージ5世とメアリ・オブ・テック王妃も、子供の教育に関心がないとはいえ、皇太子が42歳になるのにふさわしい結婚をしていない、国王になる資質を持っていないというのはわかっていたはずですが、かといって次

3-2、エドワード8世、1年もたたずに退位

エドワード8世は、1936年12月11日に、以前から交際していたアメリカ人女性ウォリス・シンプソン夫人との結婚が政府に認められないことで、即位して1年経たず戴冠式も行わないうちに退位を宣言。ウォリス・シンプソン夫人は、2度の離婚歴があり、しかもエドワード8世のほかに、ドイツの駐英大使ヨアヒム・フォン・リッベントロップなど、複数の男性との関係さえ噂されている女性で、王妃としてふさわしくないと首相に反対されていました。しかしエドワード8世は愛する女性と結婚できないならば国王を辞めると退位を選んだということ

4-1、ジョージ6世、国王として即位

image by PIXTA / 23033534

エドワード8世の退位に伴って、推定王位継承者だったジョージ6世がイギリス国王に即位。ジョージ6世は、国王になる気はなく準備も出来ていなかったということ。自分は海軍将校としての教育しか受けていない、国王になる教育なんか受けていないと半泣きでした。また当時は宮廷内でも、おとなしいジョージ6世よりも、末弟のケント公ジョージのほうが明るく社交的な性格、おまけに後継ぎの息子(ウィンブルドンテニスの表彰式でお馴染みの現在のケント公)がいることで、国王にふさわしいのではという意見もあったそう。

ともあれ、幼い長女エリザベス王女が推定継承者となったが、まだ弟が生まれる可能性もあり、エリザベス王女は毎晩「弟が生まれますように」とお祈りしていたという話。

4-2、国王としての最初の仕事は兄の残務処理

ジョージ6世の国王として最初の仕事は、兄エドワード8世の称号、処遇などについてと、エドワード8世が相続継承した王室伝来のバルモラル城やサンドリンガム離宮などを買い戻すことでした。エドワード8世は、以後ウィンザー公爵を名乗ることになりましたが、じつはシンプソン夫人は結婚後もウィンザー公爵夫人とは名乗れなかったんですよね。ウィンザー公は王室とはしばらくの間疎遠となり、特に母メアリ・オブ・テック王太后と弟ジョージ6世の妻エリザベス王妃とは完全な絶縁状態に。当初、ウィンザー公はフランスで1、2年間過ごした後、イギリスに戻ってくるつもりでしたが、メアリ・オブ・テック王太后とエリザベス王妃を味方につけたジョージ6世が、許可を得ずに帰国すれば、王室からの援助を打ち切ると反対し、帰れなくなったそう。

戴冠式逸話
ジョージ6世の1937年5月12日の戴冠式は、もともとエドワード8世の戴冠式として予定されていたということ。

秩父宮ご夫妻が戴冠式に
日本はその頃、日英同盟の同盟国であったため、外国王室筆頭の扱いを。
『銀のボンボニエール』(主婦の友社、1991年)秩父宮妃の回想では、小さな少女(現エリザベス女王)が挨拶に登場されたとか、1980年代に秩父宮妃がイギリスを訪問されたときに、クィーン・マザーとなったエリザベス王妃とお茶を何度もお替りしながら何時間も昔話をされたという、すごい話が。日本の皇室とイギリス王室との交流の歴史がわかりますよね。

メアリ・オブ・テック王太后も出席
未亡人となった前国王の王妃は戴冠式に出席しないという慣習を破って、ジョージ6世の母メアリ・オブ・テック王太后も出席。戴冠式と言うのは重い王冠をかぶり、衣装も重く長い時間拘束されていて疲れ切ってしまうもののようで、戴冠式後にバッキンガム宮殿のバルコニーに何度も出て民衆の歓声にこたえるのが苦痛だったよう。「私たちは人間と思われていないのよ」という感想も。

\次のページで「4-3、ジョージ6世夫妻、外遊で魅力を発揮」を解説!/

4-3、ジョージ6世夫妻、外遊で魅力を発揮

1939年5月から6月に、ジョージ6世夫妻は、カナダとアメリカを公式訪問。北米を訪問した最初のイギリス国王に。また、この北米訪問には、近いうちにヨーロッパで起こると思われた戦争に備えてイギリスへの支援を要請するという政治的目的もあったのですが、北米の民衆から熱狂的な歓迎を受けたそう。 ジョージ6世夫妻は1939年のニューヨーク万国博覧会に出席した後、ホワイトハウスでフランクリン・ルーズヴェルト大統領と会談、アメリカ公式訪問を通じて、イギリス国王夫妻とルーズヴェルト大統領との間に強い信頼関係が結ばれたことで、第2次世界大戦でのアメリカとイギリスとの関係に大きな影響を及ぼしたということ

4-4、第2次世界大戦に突入

大戦中、ジョージ6世夫妻はバッキンガム宮殿に住んでいましたが、まだティーンエイジャーのエリザベス王女とマーガレット王女をカナダかどこかに疎開させるべきではといわれたとき、エリザベス王妃は断固とした態度で断りました。
私の子供たちは私のもとを離れません。また、私は国王陛下のもとを離れません。そして国王陛下はロンドンをお離れになりません」というセリフがとても有名。
また、バッキンガム宮殿が爆撃の被害にあったときも、「爆撃された事に感謝しましょう。これでイーストエンドの住民に顔向けが出来ます」というあくまで強気の発言は、こういう戦時中の国民の士気を鼓舞するものとして歓迎されたということ。
ヒットラーは、エリザベス王妃をして「ヨーロッパで最も危険な女性」と決めつけたというから、いかに国民の人気の高い存在だったかわかりますよね。
推定相続人のエリザベス王女は、第2次世界大戦中に英国女子国防軍に属して公務に携わるようになりました。

4-5、エリザベス王女の結婚には慎重だった

Elizabeth II and Philip.jpg
By 不明 - https://www.flickr.com/photos/lac-bac/7195938514/, CC 表示 2.0, Link

第2次世界大戦後、お年頃となった長女のエリザベス王女の結婚問題が持ち上がりました。ギリシア王子で母がバッテンブルグ家出身のフィリップ王子は、イギリス王室とは遠い親戚でもあり、エリザベス王女が7歳のときから心に決めた初恋の人。しかし両親とすれば、あまりにはやくこの人じゃないと嫌だと決めちゃっていいのか、という思いがあったらしく、1947年、一家で南アフリカ訪問という機会を設けて冷却期間を置いたということ。

また、フィリップ王子は亡命王族なので、もしエリザベス王女と結婚すれば、ギリシア王室一族をイギリス王室が面倒見ることになるということもネックになっていたはず。フィリップ王子の姉がナチスと関係のあるドイツ系貴族と結婚していたとか、母が精神的にまいっていたとか、父が問題ある人だったとかいうことは良く知られていますが、親戚ではあったがあっさりとOKがもらえた相手ではなかったのですね。

ともあれ、冷却期間を置いてもエリザベス王女の気持ちは変わらず、1947年2月にフィリップ王子はイギリスに帰化して、イギリスでの軍務を継続するため、母の実家の姓であるバッテンブルグを英語化したマウントバッテンを名乗り、ギリシア正教から英国国教へ改宗、形式的なギリシャ王子及びデンマークの王子の地位を放棄して、1947年7月9日に正式に婚約が発表。11月20日にウェストミンスター寺院で結婚式が挙行され、1948年11月14日に長男チャールズ王子、1950年には長女アン王女が、1960年にアンドリュー王子と1964年にエドワード王子も誕生。

4-6、ジョージ6世、若くして亡くなる

生来病弱であった父ジョージ6世の健康状態は1951年に入り悪化し、肺がんと動脈硬化などの慢性疾患を複数併発、手術、療養の日々に。体調不良のジョージ6世に代わって、推定王位継承者のエリザベス王女が多くの公務をこなすようになりましたが、1952年2月6日未明、療養を兼ねて訪れていたサンドリンガム離宮で、就寝中に冠状動脈血栓症により54歳で崩御

エリザベス王妃は長女エリザベス女王の即位後も、国王の寡婦、未亡人という称号ではなくクィーン・マザーと呼ばれ、101歳で亡くなるまで、国民からは絶大な人気を得て、王室内では孫たちの尊敬も得るという圧倒的な存在感で長寿を保ちました。

兄の退位、世界大戦を乗り切ったジョージ6世夫妻

ジョージ6世は思いがけずイギリス国王に即位したのですが、ご本人は何の教育も受けていない、準備が出来ていないと半泣きだったものの、エリザベス王妃の内助の功大で、兄のエドワード8世の突然の退位で傾きそうになった王室の国民への信頼を取り戻し、第2次世界大戦という困難な状況を立派に乗り越えたのです。現代から見ると何事もなかったようですが、20世紀初頭から多くのヨーロッパ諸国が続々と王室廃止して共和制になったことを考えると、ジョージ6世夫妻の支え合い愛情あるロイヤルファミリー像のおかげで、イギリス王室が存続したのは間違いないことでしょう。

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イギリスヨーロッパの歴史世界史歴史

エリザベス女王の父君「ジョージ6世」について歴女がとことんわかりやすく解説

今回はジョージ6世を取り上げるぞ。イギリスのエリザベス女王の父君ですが、兄のウィンザー公が退位した後を継承して第二次世界大戦をエリザベス王妃と共に乗り切ったんですね。

その辺のところを昔からウィンザー家に興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。ヨーロッパの王室に興味津々、最近映画やテレビドラマにも登場するようになったジョージ6世について、5分でわかるようにまとめた。

1-1、ジョージ6世はジョージ5世の次男

King George VI of England, formal photo portrait, circa 1940-1946.jpg
By Bertram Park – This image is available from the United States Library of Congress‘s Prints and Photographs division under the digital ID matpc.14736. This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., パブリック・ドメイン, Link

1895年12月14日、ノーフォークのサンドリンガム離宮で誕生。父はヨーク公(後のジョージ5世)、母はメアリー・オブ・テック妃。当時は曾祖母のヴィクトリア女王の治世で、当時の皇太子で後のエドワード7世は祖父。

ジョージ6世には年子の兄エドワード(後のエドワード8世)がいて、後に妹が1人、弟が3人(末弟ジョンは夭折)生まれました。

1-2、誕生日が曾祖父アルバート公の命日

Edward VII UK and successors.jpg
By Queen Alexandra of the United Kingdom – Daily Telegraph’s Queen Alexandra’s Christmas Gift Book, パブリック・ドメイン, Link

ヴィクトリア女王は42歳で亡くなった夫君アルバート公を熱烈に愛していましたから、曾孫ジョージ6世が最も悲しむべき34回目の命日に生まれたことを、日記に「ジョージ―(ジョージ5世のこと)は、最初、今日のような日に生まれたことを残念に思ったそうだが、私には特別の祝福を受けて生まれてきたように思える、神様からの賜物かもしれない」と書き記しています。もちろん、アルバートと命名されることは目に見えていたそう。

アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージと名付けられ、祖父のエドワード7世と同じく「バーティー」と呼ばれることに。

1-3、両親は子供たちの養育をお付きに丸投げ

ヨーク公夫妻は、愛人が何人もいてアレクサンドラ王妃とは不仲だった父エドワード7世とは違い、浮気もなく円満な夫婦仲だったのですが、当時の王侯貴族の慣習どおりに子供の養育にはほとんど関与せず、母のメアリ・オブ・テック妃は母性に欠けた人だったよう。兄エドワードと共にかなりひどい乳母の虐待を受けていて、寂しい子供時代がトラウマになったといい、祖母のアレクサンドラ王妃が嫁に代わって孫たちの面倒を見たということ。また、5歳の誕生日に父から左利きを右利きに矯正するよういわれ、それが原因か吃音症を患うように。それにX脚を直すためにやはりX脚の父から痛みを伴う矯正具の脚部への着用を強制されたりと、慢性胃炎もちに。

1-4、ジョージ6世、海軍に入り軍人に

ヴィクトリア女王が1901年1月22日に崩御し、アルバートの祖父がエドワード7世に。エドワード7世の即位に伴い、王位継承権は王太子となった父ヨーク公ジョージが第1位、次いで兄エドワード、ジョージ6世は3位に。

ジョージ6世は1909年に王立オズボーン海軍兵学校に入学。1911年の卒業試験は最下等の成績、でも王族なのでエリート校である王立ダートマス海軍大学へと進学。尚、1910年5月6日に祖父のエドワード7世が死去、王太子の父がジョージ5世として国王に即位、ジョージ6世の王位継承権は兄エドワードに次いで2位に。

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