日本史

悲劇の佐幕派天皇「孝明天皇」について歴女がとことん解説

よぉ、桜木健二だ、今回は、孝明天皇を取り上げるぞ。江戸時代最後の天皇で明治天皇の父君だ。幕末の尊王攘夷運動のリーダーだったかというと全然違うんだよな。

それじゃあ京都御所の近くにいたことがあるよしみで、昔から興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。昔から幕末が大好きで、勤王佐幕に関係なくほとんどの人物に興味津々。例によって昔読んだ本の数々を引っ張り出しネットで調べまくって、孝明天皇について5分でわかるようにまとめた。

1-1、孝明天皇は仁孝天皇の第4皇子

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天保2年6月14日(1831年7月22日)、120代仁孝天皇の第四皇子として誕生。
幼名は煕宮(ひろのみや)。
母は正親町実光(おおぎまちさねみつ)の娘で典待の雅子(なおこ)。正親町家は、藤原北家閑院流の家柄で本家は室町時代に滅びた洞院家(とういん)で、羽林家という家格。

孝明天皇のきょうだいで成人したのは3歳上の姉の桂宮淑子(すみこ)内親王と15歳年下の和宮親子(ちかこ)内親王のみです。

1-2、孝明天皇、15歳で天皇に即位

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By 人見 一太郎/(Hitomi, Ichitaro, 1865-1924) – 日本:慣習と国政に関する評論(書籍), パブリック・ドメイン, Link

1835年7月16日(天保6年6月21日)儲君(もうけのきみ)となり、1835年11月8日(天保6年9月18日)、親王宣下により統仁親王(おさひと)に。1840年4月16日(天保11年3月14日)、立太子の儀が行われ皇太子に。

弘化2年(1845年)9月14日、関白九条尚忠(ひさただ)の娘夙子(あさこ)(後の英照皇太后)12歳が入内して女御宣下。

弘化3年1月26日(1846年2月21日)、仁孝天皇が崩御。弘化3年2月13日(1846年3月10日)に践祚。

尚、1852年11月3日〈嘉永5年9月22日)第2皇子として祐宮(さちのみや)睦仁(むつひと)、後の明治天皇が出生、生母は権大納言中山忠能の娘で典待中山慶子(よしこ)。

2-1、孝明天皇、開国に断固反対

江戸幕府が、孝明天皇の勅許を得ないまま安政5年(1858年)日米修好通商条約を結んだことが、尊王攘夷運動が盛り上がった発端。朝廷を無視して条約を結んだ大老の井伊直弼について、天皇をないがしろにしていると批判したのですね。しかしここで重要なのは、たしかに孝明天皇は開国には反対だが、かといって江戸幕府に代わって政権を奪取するつもりはなかったということ。

孝明天皇というか歴代の天皇は鎌倉幕府以来、武家政権になってからは、官位の任命権はあるが、公家たちの統帥権もなくむろん独裁権もない状態で、毎日神事を行うのがおもな仕事だったからです。

2-2、戊午の密勅

孝明天皇は、安政戊午5年(1858)、幕府が無断で米国総領事タウンゼント・ハリスと日米通商条約調印をし、事後報告したことに譲位を言い出すほど激怒。老中堀田正睦(まさよし)が勅許奏請の為に上洛したが、勅許は得られず。そして水戸、越前、薩摩の藩主たちが、幕政改革のための勅諚を水戸藩に下すように近衛忠煕、三条実万らに要請したのですが、関白九条尚忠の裁可手続きを経ない「密勅」が水戸藩へ。尚、正式な手順を踏んでいない勅(天皇の命令)を密勅と言い、この水戸藩に下りた詔勅は「戊午(ぼご)の密勅」と言われるもの。

この密勅の原文には、当時の朝廷の最高責任者である関白九条尚忠の名前はなく(孝明天皇の真勅でもないはず)、二日遅れで幕府にも同じ勅諚が出され、大老井伊直弼は水戸藩に出た勅諚の返納をせよとお達しが。

これは幕府を飛び越えて、臣下の水戸藩の方へ先に朝廷から直接勅書が渡されたということになるため、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたということになり、幕府は勅書の内容を秘匿。そして大老井伊直弼が安政の大獄を起こす引き金に。

2-3、黒船来航以来、天変地異が起こり過ぎ

幕末の歴史はただでさえ暗記することが多く、年表に載っている主な事項だけでも大変。実際に起こったことも年表によってはかなり省略してあるくらいですが、この年表に載っていないことが当時の世相を考えるキーポイントのひとつかも。
じつは当時、黒船が来航して以来、日本国中災害のオンパレードになっていたのですね。

1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、日米和親条約が締結、1854年7月9日(嘉永7年6月15日) 伊賀上野地震、1854年12月23日(嘉永7年11月4日)安政東海地震(巨大地震)、津波でロシアのディアナ号が遭難、1854年12月24日(嘉永7年11月5日) 安政南海地震(巨大地震)、1854年12月26日(嘉永7年11月7日)豊予海峡地震、1855年1月15日(安政元年11月27日)曳航中のディアナ号が座礁して4日後に沈没、1855年2月7日(安政元年12月21日) 日露和親条約締結、1855年3月18日(安政2年2月1日)飛騨地震、

1855年(嘉永7年)5月2日(旧暦4月6日)、内裏が炎上、焼失したので、孝明天皇は翌年に御所が再建されるまで、聖護院や桂宮邸を仮御所に。1855年9月13日(安政2年8月3日)陸前で地震、1855年11月7日(安政2年9月28日)遠州灘で地震、これは東海地震の最大余震、そして1855年11月11日(安政2年10月2日)- 安政江戸地震が起こり、水戸藩の藤田東湖、戸田蓬軒らが圧死、1856年8月21日(安政3年7月21日)アメリカのタウンゼント・ハリスが下田に総領事として着任、1856年8月23日(安政3年7月23日)安政八戸沖地震(巨大地震)。

その後も、1856年11月4日(安政3年10月7日)江戸で地震、1857年7月14日(安政4年閏5月23日)駿河で地震、そして1857年10月12日(安政4年8月25日) 伊予、安芸、1858年4月9日(安政5年2月26日)飛越地震と、安政は5年しか続いていないのも、あまりに災害が起こり過ぎて縁起担ぎで改元したくらいで、毎年のように日本のあちこちで、今でいうところの南海トラフ地震、東海大地震がこの時期に集中

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えっ、こんなに大きな地震が日本中に起こっていたのか、それはこわいぞ。開国が悪いと結びつけるのも無理ないな。

2-4、天災のせいもあって庶民も騒然

特に、日米和親条約締結の直後に京都御所から出火して京都大火となり、文字通り京都は炎上。当時、巷では庶民が天罰だの祟りだのと言う流言飛語が飛び交い、幕府もそういう瓦版とか冊子の発禁などで厳しく取り締まる始末でした。他にも大風水害、コレラや麻疹の流行、尊王攘夷運動での殺人の横行、貿易による物価高騰などもあって、まさにカオス。これだけ不安要素があれば、民衆の間に攘夷論が受け入れられやすかったはず。

大地震などの災害は天災、天からの警告という見方が強く残っていた時代のことなので、毎日神事を行い神の近くに御座されている孝明天皇は、いっそう神経質になられたはず。

2-5、鎖国についての当時の認識

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By 不明 – This image is available from the United States Library of Congress‘s Prints and Photographs division under the digital ID cph.3b52813. This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., パブリック・ドメイン, Link

そういえば、日本が鎖国したのは徳川家光の時代だったことが、この時代には忘れ去られていたよう。司馬遼太郎本によれば、日本の歴史が始まって以来ずっと鎖国してきたとほとんどの人が思っていたので、開国すること自体が異常なことのように思われていたのですが、幕末のぎりぎりになって、鎖国は江戸幕府が始めたことだとある学者が発見し、志士たちは江戸幕府に騙されていたと騒然となったということ。

そういう時代背景を考えると、京都から一歩も出たことがなく保守的な日常生活で、ずっと江戸幕府が続くものと考えていた孝明天皇は神代以来鎖国している(と思いこんでいた)日本が自分の代に開国したので天変地異が起こっているのではないか、と思われても無理はないこと。関白らが説得しても、老中が京都まで来て説明申し上げても、頑として聞かず開国をやめて鎖国にもどせの一点張りでした。

2-6、孝明天皇、妹和宮の降嫁に反対される

この頃、朝廷と幕府が一致団結して事に当たるため、公武合体運動が。そのために1860年6月1日(万延元年4月12日)、幕府の命を受けた酒井所司代は孝明天皇のただ一人の妹である和宮の将軍家降嫁を奏請。これに対し孝明天皇は何度も酒井所司代に拒絶の宸翰を出し、老中の要請書から、和宮の母観行院の生家の橋本家出身で大奥上臈年寄の勝光院(和宮の大叔母)まで説得に来る始末。孝明天皇は、しかたなく鎖国と攘夷実行の条件を付けて承知の意を。

しかし、孝明天皇が説得に負けてしぶしぶ承知しても、肝心の和宮が江戸下向を嫌がったのですね。よくここで孝明天皇が、生まれたばかりの自分の娘の富貴宮を代わりにするぞ、もしくは尼になれと和宮を脅して、和宮に承知させたと書いたものがありますが、孝明天皇はそんなお方ではありません。それほどまで嫌がる年の離れた異母妹にかなり気を使って、そんなに嫌ならば姫宮を身代わりにしてもいいよという優しい気持ちだったはず。和宮の方は、それでは父仁孝天皇の回忌には京都に帰らせてもらいますとか、江戸城でも京風で暮らすとか、母橋本観行院も一緒に江戸へ連れて行くとか、御台様でなく和宮さまと呼べなど、かなり色々な条件を出して「まことに嫌々にて」降嫁を承諾、江戸城入りして14代家茂と結婚しました。

江戸城では姑にあたる篤姫天璋院らの江戸風と京都風のバトルがありましたが、同い年の家茂と和宮はわずか4年足らずとはいえラブラブカップルとして幸せな結婚生活だったのは救いかも。

3-1、会津藩主松平容保が京都守護職に

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By 不明 – 会津武家屋敷所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

天変地異に尊王攘夷運動という具合に世の中が騒然としている中、京都市中は尊王攘夷の志士と称する強盗や辻斬りなどが相次ぎ、京都所司代や奉行所の権威も失墜していて治安維持が難しい状態でした。そこで4賢候らが文久の改革で京都守護職という新役職を設けて、京都の治安維持などのために会津藩主松平容保をご指名。
容保も藩士たちも何度も断ったけれど藩祖の徳川宗家に忠誠をという家訓があるだろ、あれに背くわけにいかないだろと言われると断れず、容保は藩士共々京都で死ぬつもりという悲壮なまでの決意で京都守護職を拝命、文久2年(1862)12月24日、1千人の会津藩兵を率いて上洛。
容保はイケメンのうえに折り目正しい挨拶も出来る誠実な人柄で、京都庶民から公家たちに好感度大で受け入れられましたが、もっとも彼を気に入り、頼もしく思ったのは孝明天皇。年齢も近く(孝明天皇は容保29歳よりも4つ年上)かなり親しみを覚えられたらしく、初参内した容保に、天杯と緋の御衣を鎧の直垂にせよと御下賜。これは異例中の異例で、容保感涙

3-2、容保、公卿の薄禄と窮乏改善にも

容保は、前年に幕府へ意見したなかで「勅使待遇の礼を改め、君臣の名分を明らかにすること」と述べていたので、公卿にも孝明天皇にもお礼を言われたのですが、2月には公卿の薄禄と窮乏の改善、天皇家の御料の見直しと定額制廃止を幕府へ建議したそう。

当時、孝明天皇の食卓に供される魚が食べられる品質のものではなく、しかし毎度の食事に出されるお皿数は決まっているために、食べていいものと食べてはいけないものをあらかじめ係の者が印をつけておき、孝明天皇は箸をつける素振りだけすることになっていたのですね。またお酒がお好きなのに水を混ぜたひどいお酒だということも。それを聞いて容保は、ポケットマネーをはたいて、大阪湾より新鮮な魚を直輸送して献上。孝明天皇はその魚料理をご覧になり、「これは肥後の魚(松平肥後守容保のこと)か、これは肥後の魚か」と繰り返して、さらに身が少し残った魚を指して、次の食事の時に出すようにと2度も言われたほどお喜びに。

和宮と家茂カップルと同じく、孝明天皇の信頼にしっかりと応える誠実な容保の話は、殺人や裏切り行為が横行した幕末の多くの事件の中では別次元のような清涼剤的挿話。

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当時の皇室、公家の経済状態

江戸時代も末になると、大名も公家や天皇も300年近く前と同じ米経済の収入で暮らしていたのでインフレ率がすごかったのですね。
皇室は2万石、公家たちは幕府から二条城の蔵米で数百石が収入源、公家たちは歌や包丁道などの家業で内職をしたりして、かなり苦しい暮らしぶり。将軍家も大名家も改革を行ったり倹約したり、豪商から借金したりしてきましたが、米経済に頼らず密貿易などをして産業改革に成功したおかげでお金をたっぷり持っていたのが薩摩、藩政改革が成功し黒字を蓄えていたのが長州などの幕末に活躍した諸藩です。彼らはこれを資金として、つまり公家たちに金品を贈って自分たちの言いなりに動かしていたわけです。

3-3、孝明天皇 譲位祈願のために賀茂神社などに行幸

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1863年4月から5月(文久3年3月)に14代将軍家茂が上洛、孝明天皇は攘夷の勅命を下して、攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮に行幸。 これは、孝明天皇自身の意思からではなく、孝明天皇は1863年6月8日(文久3年4月22日)付の中川宮宛の書簡で、石清水八幡宮行幸について体調不良と訴えても、三条実美らに「無理にでも鳳輦に乗せる」と脅迫されたと言うこと。将軍家茂や慶喜も眼病だのなんだのと途中でサボタージュを(容保は実父の喪中で不参加)。
将軍家茂に対し「いよう、征夷大将軍」と高杉晋作が声をかけても取り締まれなかったのはこの時の話です。ちなみに三条実美は偽物の勅令を出しまくっていて、孝明天皇に「逆賊」と言われ憎まれていたということ。

長州の陰謀
この頃、長州藩の志士たちは、京都でクーデターを起こそうと画策していたという話。長州藩士としては、多少手荒なテロ活動をしても幕府を倒して日本を救いたいという方向だったんですね。

というのは、幕末の志士たち、当時の日本のインテリは、1840年に起こったアヘン戦争、イギリスが清国にアヘンを売りつけ、それを清国が輸入禁止にしたら戦争をしかけてきて、結局は大国の清国がイギリスに負けて不平等条約を結ばされ、上海、香港割譲のニュースを承知していたのです。
だからこそ、ペリーの黒船が来航したときには、次は日本かと震え上がったそう。そして幕府が不平等条約を締結したりと頼りない様子をみて、幕府に任せておいては日本が欧米の列強の植民地になってしまう。ならば、幕府を倒して新しい政府を起こして植民地になるのを防いで日本を列強の脅威から守ろう、というところから起こったのが尊王攘夷、倒幕運動。

ということで、尊王を唱えて江戸幕府の将軍から天皇の権威を取り戻そうとしたのではなく、幕府を倒して新しいトップとして毛利や島津の殿様を持って来るよりも、天皇を掲げたほうがわかりやすいから利用したのです。なので、孝明天皇が開国反対で外国人を受け入れられない、しかし全面的に幕府に任せる意思なのに対して、長州によしみを通じている過激派の公家たちは、孝明天皇の意志に反する偽の勅令を作るようなことが平気で出来た、天皇ご自身の希望とかは無視なのですね。
そういうわけで、この時期、四国艦隊下関砲撃事件を含めて、外国人が殺傷される事件が色々と起きていますが、表向きは攘夷を実行したとか、神国を汚すなとか言いつつ、本音は「幕府が被害者に払う賠償金が増えて倒幕につながる」のを計算に入れての正真正銘のテロ行為。
日本では「明治維新」「御一新」と言われますが、これはもう「革命のために政府を倒す反政府テロ運動」と言った方がはっきり伝わるのではないでしょうか。

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そうだな、明治維新と言われると曖昧だが、あれはアメリカの独立戦争とかフランス革命とおなじだと考えれば、何かわかる気がするぞ。

3-4、容保追い落としのための陰謀

そして将軍家茂が混とんとした京都の情勢に巻き込まれたくないとばかりに、急に江戸へ帰ってしまったので、非難ごうごう。これに乗じた三条実美の側近真木和泉が、孝明天皇の信任篤い容保を京都から追い払うチャンスだとして、孝明天皇の勅令と称して、容保を江戸へ赴かせて将軍家茂を呼び戻して来いと命令。
しかし容保は真っ直ぐな性格で裏を読むことが出来ず、この陰謀に気が付かない人で、必死で三条実美ら公家のところに家臣を遣わせて自分が今京都を離れることはできない、撤回してほしいと説明しまくったということ。

3-5、孝明天皇、容保に宸翰を送る

もちろん孝明天皇も容保を京都から去らせるつもりはなく、そのような勅令が出たこともご存じなかったそう。思いあまった孝明天皇は容保に直接宸翰を送り、あれは偽勅であるということ、いかに自分が容保を信頼しているかを書かれたのでした。異例中の異例のことに容保感涙、家臣たちにもこのことを話して孝明天皇の信頼にこたえて、テロリストである長州のやつらを徹底的に取りしまることを誓いました。

3-6、孝明天皇、会津藩兵の馬揃えを御所望

馬揃えと言うのは模擬戦のことで、長沼流軍学が盛んな会津藩では古式ゆかしい兵法を用いて行うのが得意。孝明天皇としては、これを御所で行うことで会津藩の兵が最強であるというパフォーマンスとして、長州派の公家らを威嚇することにもなるという思惑もあって、2度にわたって行われました。2度目には、容保が最初の参内で孝明天皇が下賜された衣を仕立て直して着ていることに喜ばれたそう。忠実な容保と会津藩兵たちは孝明天皇には頼もしくてたまらなかったことでしょう。

4-1、8月18日の政変起こる

孝明天皇は大和国の神武天皇陵、春日大社に行幸し、しばらく逗留して親征の軍議、そして伊勢神宮に行幸して攘夷祈願することをごり押しされていましたが、日日を決めて自分が先頭に立って外国人を日本から追い払うとご先祖に約束するなど、とても出来ないと悩まれていました。そしてこの行幸の間に御所を焼き払い、孝明天皇を長州に迎えて、横浜へ征伐に向かうという風説までが。

4-2、薩摩藩が会津と同盟を

そして8月13日、大和行幸の詔が。しかしこれは真木和泉による討幕のための偽勅、孝明天皇の預かり知らぬところで、長州藩はすでに錦の御旗や武器を準備、有力な6藩に対して軍用金を提供させるための偽勅まで。
これはおかしいと思っても、偽勅ではないのですかと表明すると、勅令に疑いを持った「朝敵」とみなされるので黙っているほかないというのがむずかしいところなんですね。

一方で薩摩藩が会津藩に接触して、この2藩が同盟関係になるという事態になっていました。もちろん、薩摩藩は会津藩の武力を政治的に利用したのでしたが、容保以下会津藩では素直に薩摩と協力体制に。そして薩摩藩が公武合体派の中川宮に奏請、近衛前関白や二条右大臣の賛成を取り付け、8月16日には中川宮はひそかに参内して伝えると、孝明天皇は13日の詔がまったくの偽勅であると激怒、「国家の害を除くべし。容保に命を伝えよ」という真勅が。そして8月17日夜半には、会津、薩摩、その他4藩兵が御所の9つの門を固めました。

文久3年8月18日(1863年9月30日)の朝、出動した長州藩とのにらみ合いとなりましたが、宮廷内の公家たちも「長州兵は3万」などと大騒ぎして震え上がったものの、孝明天皇は「全て容保に任す」、容保は「敵が何万いようと、会津藩兵が制圧します」と冷静に対処。結果として、謹慎蟄居を命じられた三条実美を始めとする過激攘夷派公家たちは京から離れて長州へ七卿落ち

4-3、孝明天皇、病気の容保のために祈禱

松平容保は体が丈夫ではないために京都守護職時代は心労もあって病床に就くことが多く、文久3年暮れから慶応元年正月にかけては、医師もお手上げなほどの重病に。これはストレスからの心労か、軽い結核と言われていますが、孝明天皇は唯一の味方とされる容保の病状を心配されて、毎日容保の病気平癒を願って祈祷を。効果がないと「蟇目の術」を施そうと別の祈祷方法に替えたり、今朝は鈴の音が清らかだったので容保はきっと良くなると言われたり、供物の洗米を容保の家臣に数粒ずつ飲むようにと託されるなど、容保は病床で感極わまったという話。

4-4、池田屋事件、禁門の変

池田屋事件とは、会津藩お預り新選組の内偵で捕まった古高俊太郎の自白で、長州藩の志士らが「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜、松平容保らを暗殺、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」という計画が明るみになり、新選組が1864年7月8日(元治元年6月5日)志士らが会合した三条小橋にある池田屋を襲った事件です。

そして8月18日の政変で京都を追放され、今また池田屋事件で多数の志士を失った長州藩が、軍勢を送り武力をもって御所に抗議に来たのを、幕府側の会津、桑名兵、薩摩兵らに阻止されて京都市中で市街戦を行ったのが禁門の変。
京都市中も戦火で約3万戸が焼失、御所に向かって大砲も撃つなど激しい戦闘の結果、長州藩勢は敗北、長州藩は「朝敵」となり、長州征討が行われることに

4-5、一・会・桑政権となるも

長州一掃後、主力を担った、将軍後見職の一橋慶喜、京都守護職の容保の会津藩、元治元年より京都所司代に就任した容保弟松平定敬の桑名藩の協調で、その後の京都政局が主導されることになったものの、幕府権威の低下はどうしようもなく深刻化。
そして、長州征伐が曖昧な結果になったため、長州藩の政治的復権をねらって薩長同盟(1866年)が結ばれ、結果的に長州藩が倒幕の最先鋒に。

4-6、孝明天皇突然の崩御

慶応2年(1867年)7月、将軍家茂が大坂城で病没し、長州征伐は中止。そして孝明天皇は突然の発病で、慶応2年12月25日(1867年1月30日)、在位21年、疱瘡により36歳で崩御。 14歳の明治天皇が践祚。

以後、岩倉具視が明治天皇の外祖父中山忠能を1年がかりで抱き込み、大政奉還から王政復古。その後の鳥羽伏見の戦いで、明治天皇の勅令で薩摩長州が官軍に、あれほど孝明天皇に忠誠をつくした容保らは朝敵、逆賊とされ、戊辰戦争へ。

5、孝明天皇暗殺説

孝明天皇は側仕えの少年が疱瘡だったことで感染されたといわれていますが、いたって健康だったこともある壮年、しかも当時の政治状況からもあまりにタイミングの良すぎる崩御に昔から暗殺の疑いが。

残っている史料などから推測するに、側に仕える侍医の日記には、回復状況にあったのに突然悪化して崩御となっていて、これはおかしい、いや疱瘡の病状ではいったん回復に見えても悪化することがあるという疱瘡説。

はたまた、日記には回復に向かっているように書いてあったが、それは事実を書いていない。中山慶子(明治天皇の実母で典侍)父忠能(ただやす)日記では、「九穴からご出血」され、医師たちのここ数日で崩御されるだろうと聞いたなど、侍医の日記が本当のことを書いていない説。

または、御所の医師たちでは手に負えず、ある町医者が急遽呼び出されたが、明らかに毒による症状が出ていて手遅れ状態、ふと見るとお付きの女房がにやにや笑っていたとか、孝明天皇は筆をなめる癖があり、毒が筆につけられたらしい、とまで。しかし、このことを書き残した史料は戦災で失われて証拠がないという説。過激なのは、トイレに隠れていた暗殺者により刀で切り殺された説まで。犯人は岩倉具視説が根強く、明治天皇は岩倉具視のいまわの際に何度も見舞いに行かれたのも、「父帝を暗殺したのはほんとうか」と聞くためであったという話は有名。

思いがけず激動の時代に天皇の位についてしまった孝明天皇

国王から貴族、はては芸事の流派の家元まで、代々脈々と継承されているお家柄に生まれて後を継いだ方々は、先祖から受け継いだものを、そっくり子孫に継承することをなによりもまず第一に大切に考えるということ。孝明天皇も自分の代で何かあっては先祖にも子孫にも申し訳ないという気持ちをあらわした宸翰もあり、ひたすら江戸幕府の支配のもと今まで通りの平和な生活をと望んでおられたのはあきらか。なのに、黒船来航で開国して外国と向き合わなければいけなくなり、孝明天皇の意志に反して尊王攘夷から討幕運動に盛り上がっていったのは、歴史の皮肉としか言いようがないのではないでしょうか。

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