

それじゃあ京都御所の近くにいたことがあるよしみで、昔から興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、孝明天皇は仁孝天皇の第4皇子
- 1-2、孝明天皇、15歳で天皇に即位
- 2-1、孝明天皇、開国に断固反対
- 2-2、戊午の密勅
- 2-3、黒船来航以来、天変地異が起こり過ぎ
- 2-4、天災のせいもあって庶民も騒然
- 2-5、鎖国についての当時の認識
- 2-6、孝明天皇、妹和宮の降嫁に反対される
- 3-1、会津藩主松平容保が京都守護職に
- 3-2、容保、公卿の薄禄と窮乏改善にも
- 3-3、孝明天皇 譲位祈願のために賀茂神社などに行幸
- 3-4、容保追い落としのための陰謀
- 3-5、孝明天皇、容保に宸翰を送る
- 3-6、孝明天皇、会津藩兵の馬揃えを御所望
- 4-1、8月18日の政変起こる
- 4-2、薩摩藩が会津と同盟を
- 4-3、孝明天皇、病気の容保のために祈禱
- 4-4、池田屋事件、禁門の変
- 4-5、一・会・桑政権となるも
- 4-6、孝明天皇突然の崩御
- 5、孝明天皇暗殺説
- 思いがけず激動の時代に天皇の位についてしまった孝明天皇
この記事の目次

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。昔から幕末が大好きで、勤王佐幕に関係なくほとんどの人物に興味津々。例によって昔読んだ本の数々を引っ張り出しネットで調べまくって、孝明天皇について5分でわかるようにまとめた。
1-1、孝明天皇は仁孝天皇の第4皇子

天保2年6月14日(1831年7月22日)、120代仁孝天皇の第四皇子として誕生。
幼名は煕宮(ひろのみや)。
母は正親町実光(おおぎまちさねみつ)の娘で典待の雅子(なおこ)。正親町家は、藤原北家閑院流の家柄で本家は室町時代に滅びた洞院家(とういん)で、羽林家という家格。
孝明天皇のきょうだいで成人したのは3歳上の姉の桂宮淑子(すみこ)内親王と15歳年下の和宮親子(ちかこ)内親王のみです。
1-2、孝明天皇、15歳で天皇に即位
By 人見 一太郎/(Hitomi, Ichitaro, 1865-1924) – 日本:慣習と国政に関する評論(書籍), パブリック・ドメイン, Link
1835年7月16日(天保6年6月21日)儲君(もうけのきみ)となり、1835年11月8日(天保6年9月18日)、親王宣下により統仁親王(おさひと)に。1840年4月16日(天保11年3月14日)、立太子の儀が行われ皇太子に。
弘化2年(1845年)9月14日、関白九条尚忠(ひさただ)の娘夙子(あさこ)(後の英照皇太后)12歳が入内して女御宣下。
弘化3年1月26日(1846年2月21日)、仁孝天皇が崩御。弘化3年2月13日(1846年3月10日)に践祚。
尚、1852年11月3日〈嘉永5年9月22日)第2皇子として祐宮(さちのみや)睦仁(むつひと)、後の明治天皇が出生、生母は権大納言中山忠能の娘で典待中山慶子(よしこ)。
2-1、孝明天皇、開国に断固反対
江戸幕府が、孝明天皇の勅許を得ないまま安政5年(1858年)日米修好通商条約を結んだことが、尊王攘夷運動が盛り上がった発端。朝廷を無視して条約を結んだ大老の井伊直弼について、天皇をないがしろにしていると批判したのですね。しかしここで重要なのは、たしかに孝明天皇は開国には反対だが、かといって江戸幕府に代わって政権を奪取するつもりはなかったということ。
孝明天皇というか歴代の天皇は鎌倉幕府以来、武家政権になってからは、官位の任命権はあるが、公家たちの統帥権もなくむろん独裁権もない状態で、毎日神事を行うのがおもな仕事だったからです。
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2-2、戊午の密勅
孝明天皇は、安政戊午5年(1858)、幕府が無断で米国総領事タウンゼント・ハリスと日米通商条約調印をし、事後報告したことに譲位を言い出すほど激怒。老中堀田正睦(まさよし)が勅許奏請の為に上洛したが、勅許は得られず。そして水戸、越前、薩摩の藩主たちが、幕政改革のための勅諚を水戸藩に下すように近衛忠煕、三条実万らに要請したのですが、関白九条尚忠の裁可手続きを経ない「密勅」が水戸藩へ。尚、正式な手順を踏んでいない勅(天皇の命令)を密勅と言い、この水戸藩に下りた詔勅は「戊午(ぼご)の密勅」と言われるもの。
この密勅の原文には、当時の朝廷の最高責任者である関白九条尚忠の名前はなく(孝明天皇の真勅でもないはず)、二日遅れで幕府にも同じ勅諚が出され、大老井伊直弼は水戸藩に出た勅諚の返納をせよとお達しが。
これは幕府を飛び越えて、臣下の水戸藩の方へ先に朝廷から直接勅書が渡されたということになるため、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたということになり、幕府は勅書の内容を秘匿。そして大老井伊直弼が安政の大獄を起こす引き金に。
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2-3、黒船来航以来、天変地異が起こり過ぎ
幕末の歴史はただでさえ暗記することが多く、年表に載っている主な事項だけでも大変。実際に起こったことも年表によってはかなり省略してあるくらいですが、この年表に載っていないことが当時の世相を考えるキーポイントのひとつかも。
じつは当時、黒船が来航して以来、日本国中災害のオンパレードになっていたのですね。
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、日米和親条約が締結、1854年7月9日(嘉永7年6月15日) 伊賀上野地震、1854年12月23日(嘉永7年11月4日)安政東海地震(巨大地震)、津波でロシアのディアナ号が遭難、1854年12月24日(嘉永7年11月5日) 安政南海地震(巨大地震)、1854年12月26日(嘉永7年11月7日)豊予海峡地震、1855年1月15日(安政元年11月27日)曳航中のディアナ号が座礁して4日後に沈没、1855年2月7日(安政元年12月21日) 日露和親条約締結、1855年3月18日(安政2年2月1日)飛騨地震、
1855年(嘉永7年)5月2日(旧暦4月6日)、内裏が炎上、焼失したので、孝明天皇は翌年に御所が再建されるまで、聖護院や桂宮邸を仮御所に。1855年9月13日(安政2年8月3日)陸前で地震、1855年11月7日(安政2年9月28日)遠州灘で地震、これは東海地震の最大余震、そして1855年11月11日(安政2年10月2日)- 安政江戸地震が起こり、水戸藩の藤田東湖、戸田蓬軒らが圧死、1856年8月21日(安政3年7月21日)アメリカのタウンゼント・ハリスが下田に総領事として着任、1856年8月23日(安政3年7月23日)安政八戸沖地震(巨大地震)。
その後も、1856年11月4日(安政3年10月7日)江戸で地震、1857年7月14日(安政4年閏5月23日)駿河で地震、そして1857年10月12日(安政4年8月25日) 伊予、安芸、1858年4月9日(安政5年2月26日)飛越地震と、安政は5年しか続いていないのも、あまりに災害が起こり過ぎて縁起担ぎで改元したくらいで、毎年のように日本のあちこちで、今でいうところの南海トラフ地震、東海大地震がこの時期に集中。

えっ、こんなに大きな地震が日本中に起こっていたのか、それはこわいぞ。開国が悪いと結びつけるのも無理ないな。
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