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サラエボ事件で暗殺された「フランツ・フェルディナンド」について歴女が解説

2-1、フランツ・フェルディナンド大公、恋愛問題

ハプスブルグ家の大公、しかも将来の皇帝となると、それにふさわしい結婚相手を探すことになるのですが、33歳のフランツ・フェルディナンド大公はテシェン公フリードリヒの妃イザベラの女官で、ボヘミアの伯爵家出身のゾフィー・ホテクという恋人が。

2人は1894年頃にプラハで出会ったと言われていて、それ以降フランツ・フェルディナント大公はプレスブルクのテシェン公家の別荘を頻繁に訪れるように。
テシェン大公はハプスブルグ家の分家で、フリードリヒ大公はフランツ・ヨーゼフ1世の又従兄弟で3人の娘がいました。なので、フリードリヒ大公のイザベラ大公妃は、娘の誰かがフランツ・フェルディナンド大公の意中の人ではと思っていたそう。そしてフランツ・フェルディナンド大公が蓋つきの時計を忘れたときに、イザベラ大公妃が期待して中を開けてみると女官のゾフィーの写真が入っていたので(=当時は意中の女性と確定)、ショックでゾフィーを解雇、フランツ・ヨーゼフ皇帝にも報告。

フランツ・ヨーゼフ皇帝は激怒、次期皇帝の相手がチェコ人の女官では身分が低すぎて貴賤結婚となると大反対。フランツ・フェルディナントはゾフィー以外の女性との結婚を拒否、フランツ・ヨーゼフ1世は、皇位継承かゾフィーかどちらかを選べと迫るも、フランツ・フェルディナンド大公は、「両方」と答えた話は有名
結局、フランツ・フェルディナンド大公の継母マリア・テレサ妃(ハプスブルグ家の女主人のような立場にあった世話好きな人)が仲介、5年の粘り強い交渉の末、フランツ・ヨーゼフ皇帝はフランツ・フェルディナンド大公とゾフィーの結婚を認めるが、ゾフィーは皇后にはなれず皇族としての特権を全て放棄、生まれる子供たちには継承権なし、ということに。

尚、その後のことですが、フランツ・フェルディナンド大公の弟フェルディナンド・カール大公は1909年に平民の娘と結婚してハプスブルグ家の相続権を放棄しオーストリアを追放されてチロルに住んだし、フランツ・ヨーゼフ皇帝の孫娘エリザベート(ルドルフの一人娘)も相続権を放棄して貴賤結婚を。
他の国でも王族が貴賤結婚すると、継承権を放棄して国外追放になることが多いです。

2-2、フランツ・フェルディナントとゾフィーの結婚

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By 不明 – Scanned from book Das k.u.k. Photoalbum by Franz Hubmann., パブリック・ドメイン, Link

1900年7月1日に2人の結婚式はボヘミアのライヒシュタット(現チェコ)で挙行されましたが、フランツ・ヨーゼフ皇帝もフランツ・フェルディナンド大公の弟たちも欠席、フランツ・フェルディナンド大公の継母マリア・テレジア大公妃とその娘たちの異母妹しか出席しなかったということ。

フランツ・フェルディナンド大公とゾフィーはウィーンの貴族たちの模範とされるほど仲の良いカップルで、3人の子供にも恵まれましたが、結婚後もゾフィーは大公妃ではなく、ホーヘンベルク伯爵夫人と呼ばれて冷遇され続け、公式行事では、幼児を含む全ての皇族の末席が定位置。また劇場などでもフランツ・フェルディナント大公との同席は許されず、フランツ・フェルディナンド大公はゾフィーの立場を巡ってひんぱんに宮廷関係者と衝突、ゾフィーもだんだんくらくて僻みっぽい性格になっていたということです。しかしイギリスなどの外国訪問では、大公ご夫妻として歓待されたのが救いですね。

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お互いの深い愛情があればいいというわけにいかないのか。ややこしいな。

2-3、フランツ・ヨーゼフ皇帝と意見を異にし、宮廷内でも孤立

image by PIXTA / 33721547

フランツ・ヨーゼフ皇帝は何といっても、20世紀初頭となっては時代錯誤の考え方の持ち主となっていたので、フランツ・フェルディナンド大公とは意見を異にしていました。フランツ・フェルディナンド大公も、チェコびいきだがハンガリーを嫌う、ドイツびいきでフランツ・ヨーゼフ皇帝が嫌うドイツのヴィルヘルム2世と親しいなど、フランツ・ヨーゼフ皇帝の住むシェーンブルン宮殿とフランツ・フェルディナンド大公の住むベルヴェデーレ宮殿との対立といわれたほど。

またフランツ・フェルディナンド大公の息子たちは継承権がなかったために、彼の甥のカール大公が次の後継者と決まっていました。
そしてカール大公は、継祖母にあたるマリア・テレジア大公妃の仲介で、由緒あるブルボン・パルマ家のチタ公女と結婚、フランツ・ヨーゼフ皇帝を大喜びさせたのですね。このカップルは仲睦まじく、すぐにオットー大公(後のEU連合のオットー・フォン・ハプスブルグ)も生まれたので、フランツ・ヨーゼフ皇帝はフランツ・フェルディナンド大公を飛び越して、カール大公に皇帝を譲るのではという噂もあり、フランツ・フェルディナンド大公は、かなりの疎外感を持っていたということ。フランツ・フェルディナンド大公は、宮廷内でのゾフィー夫人に対する待遇についても、自分の政治的見解も伯父である皇帝と相いれないこともあり、頑なで人の意見を聞かない性格に。

3-1、サラエボ訪問で暗殺される

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By Unknown photogrepher (1914) – http://humus.livejournal.com/2181956.html, CC0, Link

1914年6月28日、運命のサラエボ訪問も、危ないと警告された地域で訪問は危険視されていました。
しかしフランツ・フェルディナンド大公とゾフィーとの結婚記念日にあたり、サラエボではいつもの別行動ではなく、ちゃんとご夫妻として待遇するといわれたこともあって、フランツ・フェルディナンド大公は反対を押し切って訪問を決め、一応は危険を回避するべく、ゾフィー夫人とは別行動でサラエボ入りしたりと気を付けてはいました。
が、暗殺を企てたのはテロ組織「黒手組」で、最初はフランツ・フェルディナンド大公夫妻のオープンカーに投げつけられた手りゅう弾を、なんとフランツ・フェルディナンド大公が投げ返して無事。しかし予定を変更してその爆弾で負傷した人のお見舞いのために病院へ行くと予定を変更したのに、車のコースを運転手が変更せず、待ち受けていたテロリストに狙撃されたということ。銃弾を浴びた大公夫妻は、病院への途中で相次いで亡くなりました。フランツ・フェルディナンド大公51歳、ゾフィー夫人は46歳でした。

3-2、ウィーンでの反応は冷たかった

皇位継承者夫妻が暗殺されたというのに、ウィーンでは騒然とすることなくごく普通に音楽が流れていたというくらい、フランツ・フェルディナンド大公は民衆には人気がなかったということで、むしろフランツ・フェルディナンド大公が次の皇帝にならないとわかってほっとしたほどだったそう。
知らせを聞いたフランツ・ヨーゼフ皇帝は「恐ろしいことだ。全能の神に逆らって報いなしには済まない。余が不幸にも支えられなかった古い秩序を、より高い力が立て直して下さった」、つまりフランツ・フェルディナント大公が王室の継承者として義務に反した貴賤結婚をしたことに神が天罰を下したのだと言う意味。そしてフランツ・フェルディナンド大公とゾフィー夫人の残された幼い3人の子供たちに対しても関心を寄せることなく、子供たちはその後、ゾフィー夫人の親戚が引き取って育てています。

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angelica