今回は、フランツ・フェルディナンド大公を取り上げるぞ。ハプスブルグ家の皇位継承者だったが、サラエボ事件で暗殺され、第一次世界大戦勃発のきっかけになったんですね。

この悲劇の大公について、ハプスブルグ家には昔から興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。昔からハプスブルグ家が大好き、例によって昔読んだ本の数々を引っ張り出しネットで調べまくって、フランツ・フェルディナンド大公について5分でわかるようにまとめた。

1-1、フランツ・ヨーゼフ皇帝の弟の息子として誕生

Ferdinand Schmutzer - Franz Ferdinand von Österreich-Este, um 1914.jpg
By Ferdinand Schmutzer - Österreichische Nationalbibliothek, Bildarchiv Austria, Inventarnr. LSCH 0029-C, パブリック・ドメイン, Link

フランツ・フェルディナンド大公は、1863年、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の下の弟、カール・ルートヴィヒ大公と、2番目の妃である両シチリア王フェルディナンド2世の長女マリア・アンヌンツィアータの長男として、グラーツで誕生。弟が2人、妹が1人、父の3番目の妃マリア・テレサとの間に生まれた異母妹が2人います。1875年に従兄のフランチェスコ5世(フランツ1世皇帝の孫)が死去し、オーストリア=エステ大公(ハプスブルグ家の分家)を継承。

1-2、ハプスブルグ家男子として軍隊に入隊

フランツ・フェルディナンド大公は、1877年にオーストリア=ハンガリー帝国軍に入隊して中尉になり、その後、皇族として順当な昇進を続け、1885年に大尉、1890年に大佐、1894年に少将に昇進。フランツ・フェルディナントは指揮官としての教練は受けなかったものの司令官の適性を認められて第9騎兵連隊長に任命。そして特定の部隊に所属せず指揮権を持たなくても軍事機密を閲覧することができたので、1913年、高齢のフランツ・ヨーゼフ皇帝に代わって全軍監察官に就任し軍権を掌握しました。

1-3、フランツ・フェルディナンド大公の父が皇位継承者に

フランツ・フェルディナンド大公26歳のとき、1889年1月、フランツ・ヨーゼフ皇帝の一人息子で従兄のルドルフ皇太子がマリー・フォン・ヴェッツェラと共に情死(暗殺説もあり)。ルドルフ皇太子には女子しかおらず、フランツ・ヨーゼフ皇帝には他に男子がいなかったので、皇帝の弟であるフランツ・フェルディナンド大公の父、カール・ルートヴィヒが皇位継承者に。

1-4、世界一周の旅に出る

この頃のヨーロッパの王族は、若いときには海軍に入ったりして世界旅行へ行くことで見聞を広めるのが流行っていました。
明治時代の日本にも、イギリスのヴィクトリア女王の直系の孫たち、ロシアのニコライ皇太子などが訪問、フランツ・フェルディナンド大公も日本旅行をして旅行記を書いています。

ということで、フランツ・フェルディナンド大公は1892年から約1年間、世界一周の見聞旅行へ。当時のイギリス領インド帝国から、オーストラリア大陸ではカンガルーやエミュー狩りを。そして南太平洋のヌメア、ニューヘブリディーズ諸島、ソロモン諸島、ニューギニア諸島、サラワク、香港、そして大日本帝国とまわりました。横浜から太平洋を横断、カナダのバンクーバーに到着後、アメリカ合衆国を訪れて帰国。

1-5、結核で療養

1895年、フランツ・フェルディナント大公は結核の疑いがあると診断されたので、軍隊の旅団長を辞めることをフランツ・ヨーゼフ1世に申請。なので皇位継承者には、フランツ・フェルディナンド大公の弟、オットー・フランツ大公が選ばれるであろうと憶測されるも、南チロルのメラーノで療養につとめた結果、約1年半で健康を回復。1896年に父カール・ルートヴィヒが腸チフスで死去すると、フランツ・フェルディナント大公がフランツ・ヨーゼフ1世の皇位継承者に

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2-1、フランツ・フェルディナンド大公、恋愛問題

ハプスブルグ家の大公、しかも将来の皇帝となると、それにふさわしい結婚相手を探すことになるのですが、33歳のフランツ・フェルディナンド大公はテシェン公フリードリヒの妃イザベラの女官で、ボヘミアの伯爵家出身のゾフィー・ホテクという恋人が。

2人は1894年頃にプラハで出会ったと言われていて、それ以降フランツ・フェルディナント大公はプレスブルクのテシェン公家の別荘を頻繁に訪れるように。
テシェン大公はハプスブルグ家の分家で、フリードリヒ大公はフランツ・ヨーゼフ1世の又従兄弟で3人の娘がいました。なので、フリードリヒ大公のイザベラ大公妃は、娘の誰かがフランツ・フェルディナンド大公の意中の人ではと思っていたそう。そしてフランツ・フェルディナンド大公が蓋つきの時計を忘れたときに、イザベラ大公妃が期待して中を開けてみると女官のゾフィーの写真が入っていたので(=当時は意中の女性と確定)、ショックでゾフィーを解雇、フランツ・ヨーゼフ皇帝にも報告。

フランツ・ヨーゼフ皇帝は激怒、次期皇帝の相手がチェコ人の女官では身分が低すぎて貴賤結婚となると大反対。フランツ・フェルディナントはゾフィー以外の女性との結婚を拒否、フランツ・ヨーゼフ1世は、皇位継承かゾフィーかどちらかを選べと迫るも、フランツ・フェルディナンド大公は、「両方」と答えた話は有名
結局、フランツ・フェルディナンド大公の継母マリア・テレサ妃(ハプスブルグ家の女主人のような立場にあった世話好きな人)が仲介、5年の粘り強い交渉の末、フランツ・ヨーゼフ皇帝はフランツ・フェルディナンド大公とゾフィーの結婚を認めるが、ゾフィーは皇后にはなれず皇族としての特権を全て放棄、生まれる子供たちには継承権なし、ということに。

尚、その後のことですが、フランツ・フェルディナンド大公の弟フェルディナンド・カール大公は1909年に平民の娘と結婚してハプスブルグ家の相続権を放棄しオーストリアを追放されてチロルに住んだし、フランツ・ヨーゼフ皇帝の孫娘エリザベート(ルドルフの一人娘)も相続権を放棄して貴賤結婚を。
他の国でも王族が貴賤結婚すると、継承権を放棄して国外追放になることが多いです。

2-2、フランツ・フェルディナントとゾフィーの結婚

Archduke Franz Ferdinand and Sophie wedding picture 1900.JPG
By 不明 - Scanned from book Das k.u.k. Photoalbum by Franz Hubmann., パブリック・ドメイン, Link

1900年7月1日に2人の結婚式はボヘミアのライヒシュタット(現チェコ)で挙行されましたが、フランツ・ヨーゼフ皇帝もフランツ・フェルディナンド大公の弟たちも欠席、フランツ・フェルディナンド大公の継母マリア・テレジア大公妃とその娘たちの異母妹しか出席しなかったということ。

フランツ・フェルディナンド大公とゾフィーはウィーンの貴族たちの模範とされるほど仲の良いカップルで、3人の子供にも恵まれましたが、結婚後もゾフィーは大公妃ではなく、ホーヘンベルク伯爵夫人と呼ばれて冷遇され続け、公式行事では、幼児を含む全ての皇族の末席が定位置。また劇場などでもフランツ・フェルディナント大公との同席は許されず、フランツ・フェルディナンド大公はゾフィーの立場を巡ってひんぱんに宮廷関係者と衝突、ゾフィーもだんだんくらくて僻みっぽい性格になっていたということです。しかしイギリスなどの外国訪問では、大公ご夫妻として歓待されたのが救いですね。

2-3、フランツ・ヨーゼフ皇帝と意見を異にし、宮廷内でも孤立

image by PIXTA / 33721547

フランツ・ヨーゼフ皇帝は何といっても、20世紀初頭となっては時代錯誤の考え方の持ち主となっていたので、フランツ・フェルディナンド大公とは意見を異にしていました。フランツ・フェルディナンド大公も、チェコびいきだがハンガリーを嫌う、ドイツびいきでフランツ・ヨーゼフ皇帝が嫌うドイツのヴィルヘルム2世と親しいなど、フランツ・ヨーゼフ皇帝の住むシェーンブルン宮殿とフランツ・フェルディナンド大公の住むベルヴェデーレ宮殿との対立といわれたほど。

またフランツ・フェルディナンド大公の息子たちは継承権がなかったために、彼の甥のカール大公が次の後継者と決まっていました。
そしてカール大公は、継祖母にあたるマリア・テレジア大公妃の仲介で、由緒あるブルボン・パルマ家のチタ公女と結婚、フランツ・ヨーゼフ皇帝を大喜びさせたのですね。このカップルは仲睦まじく、すぐにオットー大公(後のEU連合のオットー・フォン・ハプスブルグ)も生まれたので、フランツ・ヨーゼフ皇帝はフランツ・フェルディナンド大公を飛び越して、カール大公に皇帝を譲るのではという噂もあり、フランツ・フェルディナンド大公は、かなりの疎外感を持っていたということ。フランツ・フェルディナンド大公は、宮廷内でのゾフィー夫人に対する待遇についても、自分の政治的見解も伯父である皇帝と相いれないこともあり、頑なで人の意見を聞かない性格に。

3-1、サラエボ訪問で暗殺される

Franz Ferdinand & Sophie at Sarajevo Station.jpg
By Unknown photogrepher (1914) - http://humus.livejournal.com/2181956.html, CC0, Link

1914年6月28日、運命のサラエボ訪問も、危ないと警告された地域で訪問は危険視されていました。
しかしフランツ・フェルディナンド大公とゾフィーとの結婚記念日にあたり、サラエボではいつもの別行動ではなく、ちゃんとご夫妻として待遇するといわれたこともあって、フランツ・フェルディナンド大公は反対を押し切って訪問を決め、一応は危険を回避するべく、ゾフィー夫人とは別行動でサラエボ入りしたりと気を付けてはいました。
が、暗殺を企てたのはテロ組織「黒手組」で、最初はフランツ・フェルディナンド大公夫妻のオープンカーに投げつけられた手りゅう弾を、なんとフランツ・フェルディナンド大公が投げ返して無事。しかし予定を変更してその爆弾で負傷した人のお見舞いのために病院へ行くと予定を変更したのに、車のコースを運転手が変更せず、待ち受けていたテロリストに狙撃されたということ。銃弾を浴びた大公夫妻は、病院への途中で相次いで亡くなりました。フランツ・フェルディナンド大公51歳、ゾフィー夫人は46歳でした。

3-2、ウィーンでの反応は冷たかった

皇位継承者夫妻が暗殺されたというのに、ウィーンでは騒然とすることなくごく普通に音楽が流れていたというくらい、フランツ・フェルディナンド大公は民衆には人気がなかったということで、むしろフランツ・フェルディナンド大公が次の皇帝にならないとわかってほっとしたほどだったそう。
知らせを聞いたフランツ・ヨーゼフ皇帝は「恐ろしいことだ。全能の神に逆らって報いなしには済まない。余が不幸にも支えられなかった古い秩序を、より高い力が立て直して下さった」、つまりフランツ・フェルディナント大公が王室の継承者として義務に反した貴賤結婚をしたことに神が天罰を下したのだと言う意味。そしてフランツ・フェルディナンド大公とゾフィー夫人の残された幼い3人の子供たちに対しても関心を寄せることなく、子供たちはその後、ゾフィー夫人の親戚が引き取って育てています。

\次のページで「3-3、夫妻の葬儀の行方」を解説!/

3-3、夫妻の葬儀の行方

フランツ・フェルディナンド大公とゾフィー夫人の葬儀は、当時の宮内大臣モンテヌオヴォ伯爵が取り仕切っていたのですが、ゾフィー夫人が高貴な扱いをされないようにと、そのことが何日も協議され議事録がそれで埋め尽くされる始末。
フランツ・フェルディナンド大公の棺の一段下にゾフィー夫人の棺を置き、白い手袋と扇を置くという、亡くなっても夫妻ではなく女官待遇されたことは有名
この宮内大臣モンテヌオヴォ伯爵は、フランツ・フェルディナンド大公とゾフィー夫人の結婚に反対し、ゾフィー夫人の待遇に抗議するフランツ・フェルディナンド大公とは敵対していたのですが、葬儀でも後世に残るひどい扱いを。
そして、フランツ・フェルディナンド大公と親しかったドイツのヴィルヘルム2世皇帝をはじめ、外国の王族の列席を断ったのですが、これはいわゆる葬式外交として、このときの葬儀に王族が集まって何らかの話し合いが行われていれば、ひょっとすればその後の第一次世界大戦は起こらなかったかも、という期待もなきにしもあらずですよね。

このような対応には、さすがに宮廷人からクレーム続出で甥であるカール大公が、フランツ・ヨーゼフ皇帝に抗議したほど(皇帝は全然知らなかったそう)。
また、ハプスブルグ家の墓所はカプツィーナ納骨堂なのに、フランツ・フェルディナンド大公は、ゾフィー夫人と一緒に葬ってもらえないことを考えて自分の居城、アルトシュテッテン城内の納骨堂に一緒に埋葬するよう遺言。

生きているときは人気がなかったとはいえ、このような暗殺されたあとの対応のひどさが民衆の心を刺激し、人々の怒りや悲しみを呼び起こして、第一次世界大戦への勃発へと盛り上がったのは皮肉なこととしか言いようが


余談ながら、宮内大臣モンテヌオヴォ伯爵は、あのナポレオンの皇后だったマリー・ルイ―ズ(フランツ2世皇帝の長女)の再婚相手との間に生まれた孫で、フランツ・ヨーゼフ皇帝の従弟にも当たる人。異様なまでに身分違いを強調したがる人が貴賤結婚の産物と言うのも皮肉なこと。

4、フランツ・フェルディナンド大公の逸話

Japanese Garden (Schönbrunn; 'Stone garden' part, Lower pond) 20080613 055.jpg
By Wolfgang H. Wögerer, Wien, CC 表示-継承 3.0, Link

大の狩猟好き

現代においては自然保護運動家、動物愛護団体の猛反発を受けること間違いないことですが、この時代には、「トロフィー・ハンティング」というスポーツのような狩りが流行、王族達はアフリカの像とかライオン、インドの虎、ヨーロッパでは鹿とかイノシシなどを、じゃんじゃん撃ち殺していたのですね。
フランツ・フェルディナント大公は当時のヨーロッパ貴族の中でも、特に「トロフィー・ハンティング」愛好家として知られていて、彼の日記によると約30万頭の動物を仕留めたということ。そのうちの5000頭は鹿で、彼の城には仕留めた10万頭の動物の頭部が展示されたそう。

そしてフランツ・フェルディナンド大公は、1913年8月に、ザルツブルグの山で「白いアルプス」といわれる白カモシカを撃ち殺してしまいました
「白いアルプス」白カモシカは、チロル地方では守り神とされていて、もし殺したらその人は一年以内に死ぬという伝説がありました。フランツ・フェルディナンド大公は、狩り子たちの制止と懇願を振り切ってまで「白いアルプス」を撃ったのは有名な話。

明治期の日本に旅行

この時代、日本を訪れたヨーロッパの王族が入れ墨を入れるのが流行していました。明治時代初頭にやってきた、ヴィクトリア女王の直孫アルバート・ヴィクター王子とジョージ王子(後のジョージ5世)、彼らの従弟であるロシアのニコライ皇太子(ニコライ2世)、ドイツのハインリッヒ王子などと同じく、フランツ・フェルディナンド大公も龍の刺青と蛇の刺青を入れたそう。フランツ・フェルディナンド大公は長崎港に入港し、熊本、下関、宮島、京都、大阪、奈良、大津、岐阜、名古屋、宮ノ下、東京、日光と、1か月もかけて日本を旅行して、女性の髪結いなども見学し、日本の伝統文化など色々なことに興味を持ちました。帰国後は日本旅行記を書き、シェーンブルン宮殿に日本庭園を造ったということで、最近になって復元されて公開されているそうです。

貴賤結婚は幸せだったが、暗殺に向かった人生だったかも

フランツ・フェルディナンド大公は、貴賤結婚と言われても愛を貫いたゾフィー夫人との結婚生活は幸せなものだったのですが、80歳を過ぎたフランツ・ヨーゼフ皇帝の前時代的な慣習がはびこる宮廷内で孤立していきました。そして意固地になり危険視されたサラエボを強硬に訪問し暗殺され、しかもそれが第一次世界大戦勃発の引き金に。大公は、自分は近々暗殺されるかもしれないので遺言状も作ってあると甥のカール大公に打ち明けて、皇帝になったときの施政方針を書いた書類の場所を教えたなど、予感めいたこともあったようなのですが、あと数年がまんすれば次期皇帝となって色々改革できたはずなのに、知ってか知らずか悲劇的な運命に向かっていたと思わざるを得ないですね。

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サラエボ事件で暗殺された「フランツ・フェルディナンド」について歴女がわかりやすく解説

今回は、フランツ・フェルディナンド大公を取り上げるぞ。ハプスブルグ家の皇位継承者だったが、サラエボ事件で暗殺され、第一次世界大戦勃発のきっかけになったんですね。

この悲劇の大公について、ハプスブルグ家には昔から興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている。昔からハプスブルグ家が大好き、例によって昔読んだ本の数々を引っ張り出しネットで調べまくって、フランツ・フェルディナンド大公について5分でわかるようにまとめた。

1-1、フランツ・ヨーゼフ皇帝の弟の息子として誕生

Ferdinand Schmutzer - Franz Ferdinand von Österreich-Este, um 1914.jpg
By Ferdinand Schmutzer – Österreichische Nationalbibliothek, Bildarchiv Austria, Inventarnr. LSCH 0029-C, パブリック・ドメイン, Link

フランツ・フェルディナンド大公は、1863年、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の下の弟、カール・ルートヴィヒ大公と、2番目の妃である両シチリア王フェルディナンド2世の長女マリア・アンヌンツィアータの長男として、グラーツで誕生。弟が2人、妹が1人、父の3番目の妃マリア・テレサとの間に生まれた異母妹が2人います。1875年に従兄のフランチェスコ5世(フランツ1世皇帝の孫)が死去し、オーストリア=エステ大公(ハプスブルグ家の分家)を継承。

1-2、ハプスブルグ家男子として軍隊に入隊

フランツ・フェルディナンド大公は、1877年にオーストリア=ハンガリー帝国軍に入隊して中尉になり、その後、皇族として順当な昇進を続け、1885年に大尉、1890年に大佐、1894年に少将に昇進。フランツ・フェルディナントは指揮官としての教練は受けなかったものの司令官の適性を認められて第9騎兵連隊長に任命。そして特定の部隊に所属せず指揮権を持たなくても軍事機密を閲覧することができたので、1913年、高齢のフランツ・ヨーゼフ皇帝に代わって全軍監察官に就任し軍権を掌握しました。

1-3、フランツ・フェルディナンド大公の父が皇位継承者に

フランツ・フェルディナンド大公26歳のとき、1889年1月、フランツ・ヨーゼフ皇帝の一人息子で従兄のルドルフ皇太子がマリー・フォン・ヴェッツェラと共に情死(暗殺説もあり)。ルドルフ皇太子には女子しかおらず、フランツ・ヨーゼフ皇帝には他に男子がいなかったので、皇帝の弟であるフランツ・フェルディナンド大公の父、カール・ルートヴィヒが皇位継承者に。

1-4、世界一周の旅に出る

この頃のヨーロッパの王族は、若いときには海軍に入ったりして世界旅行へ行くことで見聞を広めるのが流行っていました。
明治時代の日本にも、イギリスのヴィクトリア女王の直系の孫たち、ロシアのニコライ皇太子などが訪問、フランツ・フェルディナンド大公も日本旅行をして旅行記を書いています。

ということで、フランツ・フェルディナンド大公は1892年から約1年間、世界一周の見聞旅行へ。当時のイギリス領インド帝国から、オーストラリア大陸ではカンガルーやエミュー狩りを。そして南太平洋のヌメア、ニューヘブリディーズ諸島、ソロモン諸島、ニューギニア諸島、サラワク、香港、そして大日本帝国とまわりました。横浜から太平洋を横断、カナダのバンクーバーに到着後、アメリカ合衆国を訪れて帰国。

1-5、結核で療養

1895年、フランツ・フェルディナント大公は結核の疑いがあると診断されたので、軍隊の旅団長を辞めることをフランツ・ヨーゼフ1世に申請。なので皇位継承者には、フランツ・フェルディナンド大公の弟、オットー・フランツ大公が選ばれるであろうと憶測されるも、南チロルのメラーノで療養につとめた結果、約1年半で健康を回復。1896年に父カール・ルートヴィヒが腸チフスで死去すると、フランツ・フェルディナント大公がフランツ・ヨーゼフ1世の皇位継承者に

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