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ヨーロッパの脅威だった「オスマン帝国」始まりから滅亡の理由まで世界史大好き歴女が徹底わかりやすく解説!

よぉ、桜木建二だ。今回はオスマン帝国についてだ。オスマン帝国は現在のトルコ共和国の前身となった帝国だ。ヨーロッパとアジアの中間に位置していたため、交易で栄えたんだ。13世紀末期から第一次世界大戦に敗北した後に消滅したオスマン帝国。ヨーロッパの脅威となったこの帝国がなぜ消滅したのか?

そもそもオスマン帝国とはどんな帝国だったのか、それまでの帝国の歴史について歴女のまぁこと解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパ絵画にも興味があり、関連した本を読み漁っている。イスラム圏の文化についても興味があり、今回はヨーロッパの脅威として恐れられたオスマン帝国がなぜ消滅したのか読み解いていく。

1.オスマン帝国のはじまり

image by iStockphoto

オスマン帝国は現在のトルコ共和国に繋がる帝国。もともとはテュルク系が台頭して誕生しました。スルタンを君主としたイスラム帝国で多くの民族が支配下にいたため、宗教政策は寛容でした。ではこの帝国がいつ興ったのか解説していきます。

1-1.オスマン帝国とは?

オスマン帝国は1299年にオスマン1世によって建国されました。そして7代目スルタンのメフメト2世の時にコンスタンティノープルを陥落。この陥落によって東ローマ帝国コンスタンティノス11世が戦死し、東ローマ帝国は滅亡することに。

コンスタンティノープルの陥落によって、3つの変化が起こりました。まず、陥落によってキリスト教の宗教権威が失墜。これによってルターなどの宗教改革が起こるきっかけとなりました。またルネサンスが起こることに。征服したメフメト2世はオスマン帝国の首都をコンスタンティノープルへ遷都。そして名称もイスタンブールとすることに。これは現代でも使われていますね。

1-2.メフメト2世の治世

メフメト2世の治世では市場(バザール)が整備されることに。これは今日のバザーの語源となっています。また宗教政策では寛容な姿勢を取っており、キリスト教徒に対して信仰を保障していました。

オスマン帝国の立地はヨーロッパ圏とアジア圏の中間に位置してしたため、交易で栄えることに。ちなみにオスマン帝国がアジアとヨーロッパの陸の交易を押さえていたため、ヨーロッパでは香辛料を求めて海外進出を図るようになりました。

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オスマン帝国がヨーロッパとアジアの間に位置していたために交易の要となったんだな。そして香辛料を求めて、ヨーロッパの人々は海外進出を考えるようになったんだ。

2.スレイマン1世の治世

9代目のセリム1世マムルーク朝を滅ぼしたことで、オスマン帝国はイスラム教徒にとっての聖地、メッカとメディアを手に入れることに。こうして帝国はイスラム教の盟主となったのでした。その後、オスマン帝国で最盛期を治世することになるスレイマン1世が登場します。

2-1.領土が最大となった時代

オスマン帝国はスレイマン1世の治世時に領土が最大となりました。聖ヨハネ騎士団を倒し、東地中海の制海権を獲得。またハンガリー王国をモハーチで破り、首都ブダを占領することに。スレイマン1世はヨーロッパ進出に意欲的で、彼の最大のライバルとして挙げられたのは、神聖ローマ帝国のカール5世でした。

打倒カールのため、カール5世の敵であったフランスのフランソワ1世と同盟を結びカールと対決。第一次ウィーン包囲では12万の兵士で囲み、カールと弟のフェルディナンドを追い詰めます。しかしあと一歩及ばず。予想以上にカール側の守備が固く、長期化したことで冬が近づいてきます。スレイマンは兵士を撤退するしかありませんでした。

2-2.スネイエルスの「スレイマンによる1529年のウィーン包囲」

スネイエルスの描く絵画では、大勢のオスマン軍らがウィーンを取り囲んでいる様子が臨場感を持って描かれています。絵の左下の赤い服を着た人物に注目してください。特徴的なフェルト製の帽子を被っているこの人物は、オスマン帝国の常備歩兵軍団イェニチェリです。もともとイェニチェリはキリスト教徒の子どもたちでした。彼らを改宗させ、軍事訓練を施したのです。

イェニチェリはスルタンの直属の軍隊でしたが、後年になるとイェニチェリの統率が取れなくなり混乱が生じる事態となりました。帝国を守るための軍隊が皮肉なことにオスマン帝国衰退の一因となることに。

第一次ウィーン包囲は失敗に終わりましたが、ヨーロッパではオスマン帝国がかなりの脅威となりました。後年のプレヴェザの海戦ではカールに勝利。これによって地中海の制海権を手にすることになります。

2-3.オスマン帝国の統治

多民族国家であるオスマン帝国はどのように多民族を束ねたのでしょうか。

まず帝国内に暮らすキリスト教徒やユダヤ教徒らに対し、課税する代わりに自治を認める政策を取りました。これをミッレトと呼びます。また多民族商人に対し、特権を認めることや貿易を保護したため、貿易が活性化することに。

またスルタンに対して功労のある外国の君主らに対して貿易や領地内の治外法権などの特権を与えるカピチュレーションを結びました。カピチュレーションを結んだ国としてはフランス、イギリス、オランダなど。このような寛容な政策によって帝国が発展することになったのですね。

中央集権的な専制国家でしたが、寛容な政策を行ったため「柔らかな専制」と呼ばれています。

2-4.オスマン帝国のハレム事情

オスマン帝国では世継ぎを絶やさぬように、ハレムがありました。ところがこのハレムによって帝国が弱体化する一因となることに。

ハレムでは一時1200人もの女性がいたとされています。彼女たちはトルコ人ではなく、捕虜や奴隷でした。そのためハレム内で言語や行儀作法を身につけることに。彼女たちはまずジャーリエとしてハレムに入り、スルタンから目をかけてもらうとイクバルに昇格。イクバルになると部屋や召使が与えられます。ハレムの女性たちは我が子をスルタンにすることを目指していたので、ハレム内は熾烈な権力闘争が繰り広げられることに。

実際にハレムの女性で権力を握ったのは、スレイマン1世の妃となったロクセラーナ。そしてスレイマン1世以降、スルタンはハレムに籠りがちとなり、女性たちが影で政治を操ったため、帝国は衰退していくことになったのです。

ちなみにハレムの女性たちはイクバルになろうが、スルタンの妃になろうが身分としては奴隷のままだったと言われています。

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世継ぎを絶やさないために作られたハレムによって次第に帝国内の衰退の一因となったのは皮肉なことだな。しかしハレムの女性は身分が上がってイクバルになろうがジャーリエのままだろうがずっと奴隷なのは驚いたな。

3.緩やかな衰退へ

ヨーロッパでは「壮麗なる者」、国内では「立法者」、そして日本では「大帝」と呼ばれたスレイマン1世。しかし彼の死後、少しずつオスマン帝国は衰退していくことになりました。どのように衰退していったのか詳しく見ていきましょう。

3-1.第2次ウィーン包囲

1683年にオスマン帝国は15万もの大軍でウィーンを包囲。この時の指揮は大宰相、カラ・ムスタファ。なぜ大宰相が指揮しているのかというと、この頃のオスマン帝国内ではスルタンの後継者争いやハレムの女性たちの政治介入などの混乱が起こっていたのです。これによって政治の実権は大宰相が握ることに。

カラ・ムスタファはフランスのルイ14世に中立の立場の約束を取り付け、ウィーンを囲みました。一方攻め込まれたウィーンの守りは2万弱の兵力しかありませんでした。神聖ローマ皇帝のレオポルト1世は家族と共にバイエルンへ逃げ、ウィーンは陥落寸前に。しかしレオポルトがキリスト教国に救援を求め、これに応じたキリスト教国軍がオスマン帝国軍を撃退。その後もオスマン帝国軍はハプスブルク軍と争いますが、1699年のカルロヴィッツ条約でついに終止符が打たれます。

オスマン帝国はハンガリーを奪われ、これにより衰退がはじまりました。そして勝利したハプスブルク家はハンガリーを手に入れ、大国化していきます。ちなみにレオポルト1世の孫がハプスブルク家唯一の男と言われたマリア・テレジアです。

\次のページで「3-2.コーヒー豆とクロワッサン」を解説!/

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