日本史

劇作家・文豪「岡本綺堂」を歴史マニアが5分で解説

よぉ、桜木健二だ。岡本綺堂は新歌舞伎の劇作家であり、時代小説『半七捕物帳』で人気を博した文豪でもあった。彼が手掛けた作品は数多く、ジャンルも探偵ものからホラーまでなんでもござれだ。

今回はそんな多彩な作家・岡本綺堂の軌跡と書籍、ついでに当時の文化に軽く触れながら歴史マニアのライターリリー・リリコと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。怪談小説が大好きで、岡本綺堂は大学時代に読み漁った推し作家。

岡本綺堂の歌舞伎作家への道

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幼少期と憧れの歌舞伎界の変動

劇作家と文豪、ふたつの顔を持つ岡本綺堂(おかもときどう)は明治の世に元徳川家御家人の子として生まれます。父はイギリス公使館勤めのお役人であり、英語を習得する環境が整っていました。その父からの影響は大きく、漢文や漢詩を学ぶと同時に歌舞伎に慣れ親しんだ岡本綺堂少年はいつしか劇作家を志すようになります。後年に書かれた『ランプの下にて』は、この子ども時代の体験から明治歌舞伎を振り返った随筆で、明治時代の歌舞伎の貴重な資料となりました。

奇しくも、時は1886年(明治十九年)、芸能の世界は「演劇改良運動」が盛んになったころです。それ以前から明治政府は歌舞伎などに干渉していて、貴人や外国人が見るに相応しい高尚な芸能へ変革するよう芸能界に求めていました。そして、その年に明治政府はこれまで歌舞伎の世界で行ってきた作品とは真逆、フィクションや荒唐無稽な流れを廃し、事実に沿ったものを演じるよう要求します。

「演劇改良運動」は欧米列強と日本が肩を並べられるレベルの文明国であることを示すのが目的でありましたが、天皇による初の歌舞伎鑑賞を実現させるなどして役者の社会的地位の向上に貢献するなど、悪いことばかりではありません。さらに、九代目市川團十郎を筆頭に旧来の脚本に手を入れ、事実に沿う史劇が徐々に広まり始めたのです。

新聞社に努めながら作家を目指した20代

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ところが、岡本綺堂は東京府立一中を卒業後、経済的な問題からすぐには劇作家にはなれませんでした。そこで18歳の岡本綺堂はまず最初に東京日日新聞社に就職し、狂綺堂という名前で劇評などの執筆の仕事をはじめます。けれど、彼は決して夢を諦めたわけではありません。仕事の傍らに創作活動を続け、一年後には就職先の東京日日新聞に小説「高松城」、同人雑誌『東もやう』に「盲心中」を発表しました。

その後も地方紙などに小説を書きつつ、東京日日新聞社から中央新聞へ、その翌年に絵入日報社へ転職するも会社の業績不振から退社してしまいます。というのも、この当時の新聞社は浮き沈みが激しく、新聞紙条例によって廃刊に追い込まれることも珍しくなかったのです。

岡本綺堂は一時、英国大使館附武官の日本語教師になり、その間に処女戯曲「紫宸殿」を『歌舞伎新報』へ発表します。これがウケて劇作家に……とは、残念ながらなりません。作品は振るわないまま月日が過ぎていき、各劇場は部外者の作品を入れない方針で、岡本綺堂は劇場から締め出されてしまうのです。

旧来の劇場から独立した新歌舞伎の登場

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新聞社を渡りながら発表できない戯曲を書き貯める岡本綺堂でしたが、30歳になってようやく彼に劇場の門が開かれることとなります。

明治後半から昭和初期にかけて、封建的な歌舞伎界の在り方に疑問を持つものたちによって「新歌舞伎」という新しい歌舞伎狂言が誕生したのです。歌舞伎界に新しいこの風は、近代的な背景や照明などの大道具の採用をはじめ、劇場部外者の作品の上演など、それまでの決まり事をどんどん破っていき、坪内逍遥などの名立たる文豪たちが脚本を書く流れを実現したのでした。小説家の他、新聞記者など文字書きが本業の彼らが描く人間模様や心理描写は非常に厚みがあり、文学性の高い作品となりました。それは歌舞伎の黄金時代と呼ばれた歌舞伎界への大きな貢献となったのです。

一方、岡本綺堂は、かねてより親交のあった歌舞伎作家・岡鬼太郎との合作「金鯱噂高浪」四幕が歌舞伎座で上演されることとなりました。これが岡本綺堂にとって自作の初上演となります。ただし、本作の評価はあまりよくはありませんでした。

その後も職を転々としながら、1904年(明治三十七年)の日露戦争を挟んだ1908年(昭和四十一年)、36歳の岡本綺堂はとうとう出世作となる「維新前後」を発表します。この作品を演じた二代目市川左団次と共に岡本綺堂は人気を得、さらに二年後発表された「修禅寺物語」の成功により新歌舞伎を代表する劇作家へとのし上がっていくのでした。

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明治維新は江戸と近代を分ける大きな節目だ。節目を越えたことで、庶民の生活から芸能までいたるところに変化が訪れる。日本人自体を近代化させるために行った意識の改革だな。もちろん、長所短所のどちらも出ただろう。歌舞伎の変化もすべてがすべて受け入れられたわけじゃない。自分自身を変えることは簡単だが、他社を変えることは難しい。それでもやってのけたのは、一重に現場の彼らの努力があったからこそだ。

シャーロック・ホームズから日本初の捕物帳へ

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日本初の探偵小説は黒岩涙香

探偵が主役の探偵小説は日本中にあふれることとなりましたが、日本初の探偵小説を書いたのは黒岩涙香(くろいわるいこう)という翻訳家でした。翻訳家としての彼が訳した小説はジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』やアレクサンドル・デュマの『巌窟王』など、有名作品が揃い踏みです。

1889年(明治二十二年)に発表された黒岩涙香の唯一の創作探偵小説「無惨」。殺人事件を前に、自身の勘を頼りに推理を始めるベテラン刑事と、顕微鏡や理論で推理を行う新人刑事のデコボココンビの物語です。本当に残念なことに、黒岩涙香の探偵小説はこの短編ひとつきりなのですが、後世の文学研究者たちから非常に高く評価されています。

日本初の捕物帳シリーズ発表へ

黒岩涙香が嚆矢となった探偵小説はいよいよ日本に根付き、岡本綺堂もまた同ジャンルの執筆を開始します。

41歳の暮れに新聞記者を引退し、作家として活動していた岡本綺堂。新聞や雑誌に長編小説や探偵小説を精力的に掲載し始めます。歌舞伎の方も相変わらず順調で、岡本綺堂の作品は「綺堂物」と呼ばれる一大ジャンルへとなっていきました。

しかし、彼の創作はそこで終わりません。1916年(昭和五年)、44歳のとき、アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズから刺激を受けた岡本綺堂はある探偵小説を書き始めます。そうして、翌年の1917年(大正六年)、文芸雑誌『文芸倶楽部』にて『半七捕物帳』の掲載が開始されました。

本屋さんや図書館に並ぶ時代小説でときどき「〇〇捕物帳」というタイトルを見かけませんか?もともと「捕物帳」というのは江戸時代、警察と裁判所の役割を持った町奉行所の捜査記録書のことでした。今日では「捕物帳」は「江戸時代の岡っ引き(警察)が主役の探偵物」という意味が定着していますが、この元祖こそが岡本綺堂の『半七捕物帳』なのです。

江戸時代から明治に溢れた翻案作品

イギリス人作家アーサー・コナン・ドイルが1887年に発表したシャーロック・ホームズシリーズ。発表と同時に瞬く間に人気作品となり、現代でもテレビドラマや映画とシャーロック・ホームズを題材足とした作品は後を絶ちません。

少しだけ当時の文芸界の状況を解説しますと、同シリーズが初めて日本で紹介されたのは1899年(昭和三十二年)。東京・大阪間に電話が開通した年ですね。ただし、シャーロック・ホームズをそのまま訳したのではなく、物語の舞台を日本に、ホームズを日本人に置き換えた翻案でした。翻案にするのは昔からある手法で、別段珍しいものではありません。江戸時代には中国の小説を題材にした翻案作品は多く、「牡丹灯籠」を収録した浅井了以の『伽婢子』や上田秋成の『雨月物語』などもその一端です。岡本綺堂自身も中国や欧米の怪奇小説の翻案を手掛けています。

このように舞台や設定を物理的にも文化的にも身近なものと置き換える、あるいは、人物名だけを日本人風に変えることで、外国の文化などを深く知らない読み手に想像しやすくなり、また当時はこの方が読みやすいとされていました。特に明治時代は西洋の言葉が耳慣れない人々は多く、たくさんの翻案作品が作られたのです。

現代だと著作権の関係で線引きは難しいのですが、海外の映画やドラマの日本版リメイクは今でも見られますね。だから、まったくなくなったというわけではないのです。

江戸から幕末を描いた『半七捕物帳』

岡本綺堂の書いた『半七捕物帳』。主人公はもちろん岡っ引きの半七……なのですが、この物語は元岡っ引きの半七老人の過去を新聞記者の「わたし」が聞いて書き起こしたというもの。岡本綺堂が影響を受けたシャーロック・ホームズシリーズも、助手のジョン・ワトソンが事件を記録するという形式で書かれていますね。ただし、半七老人はシャーロック・ホームズのような名探偵でしたが、『半七捕物帳』で描かれたのは彼の手柄話から失敗話まで多岐に渡ります。また、本編は岡本綺堂自身の記憶や他者から聞いた話を元に江戸の時代考証をされたもので、江戸当時の風俗考証の資料としても精度の高いものでした。

岡本綺堂の『半七捕物帳』の後世への影響は大きく、後には野村胡堂の『銭形平次捕物控』や横溝正史の『人形佐七捕物帳』などを含めた「五大捕物帳」が続きます。

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江戸末期から大正にかけて、文芸の世界は俺たちが教科書で習うような文豪が続々と誕生した時期だ。しかも、海外からもどんどん文学が入って来る。岡本綺堂は英語の下地があったからこそシャーロック・ホームズを原文で読んで、いの一番に「捕物帳」シリーズを刊行できたというわけだ。『半七捕物帳』は時代考証や江戸の情緒の描写に優れ、当時のみならず後世の評価も高いぞ。

『青蛙堂鬼談』と青蛙房創立

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岡本綺堂の怪談小説

『半七捕物帳』と同時期、戯曲に「番町皿屋敷」、伝奇小説分野に『玉藻の前』、『小坂部姫』などホラーを交えた歴史物が執筆されました。「番町皿屋敷」は言わずと知れた皿を数えるお菊さん、『玉藻の前』『小坂部姫』は古くから日本に伝わる女性の妖怪をメインに据えた物語です。他にも「影を踏まれた女」など多くの短編ホラーが書かれ、ホラー作家としての顔を表わしていきます。

特に1924年(大正十三年)、52歳で発表した『青蛙堂鬼談』は、後に岡本綺堂の養子・岡本経一が創立した出版社「青蛙房」の由来となりました。「青蛙」は「アオガエル」ではなく、これで「せいあ」と呼びます。「青蛙」はもともと中国は杭州に伝わる「青蛙神」が元ネタにあたり、三本足の蛙の姿をしたとても縁起の良いの福の神として信仰されていました。

『青蛙堂鬼談』自体は、作中に登場する「青蛙堂主人」という人物に集められた「わたし」を含む十二人の男女がひとりひとり怪談を話していくというものです。非常に優れた怪談作品であり、岡本綺堂の代表作のひとつとなりました。

晩年から死去まで多くの作品を残す

1923年(大正十二年)の関東大震災に遭った岡本綺堂は、そこで作風が変わったとされています。震災の後に自らの震災の体験をつづった「火に追はれて」には、当時の様子やその恐ろしさが生々しく描かれていました。

その後も自作品を発表しながら、1930年(昭和五年)に後進の育成のために月刊誌『舞台』を創刊します。『舞台』では岡本綺堂自らが戯曲の添削や編集、新人作家への指導にあたってたくさんの作家を世に送り出しました。

ところが、翌年から神経衰弱や不眠症など多くの持病を患って静養を余儀なくされたのです。それでも、岡本綺堂は死の間際まで随筆に戯曲、果てはラジオドラマまで多くの作品を書き続け、1939年(昭和十四年)3月、66歳でこの世を去りました。

青蛙房の創立と岡本綺堂賞

岡本綺堂の死後、彼の作品を世の中に残すために、岡本綺堂の書生だった岡本経一が立ち上げたのが先述した「青蛙房」です。青蛙房からは『綺堂日記』をはじめ、岡本綺堂に関係する資料などを手掛けていました。現在では主に落語物や江戸、明治を扱う書籍を出版されています。

また、岡本経一の寄付によって、戯曲を対象とした岡本綺堂賞が創設されました。しかし、この賞を運営していたのは第二次世界大戦下に設立された日本文学報国会で、実質的には大日本帝国情報局の外郭団体だったのです。そのため、賞の創設から二年後に迎えた終戦時、岡本綺堂賞は日本文学報国会の解体と同時に立ち消えてしまいます。たった二回の賞となりましたが、選考委員長を文豪・武者小路実篤が務めるなど、しっかりした賞でした。

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誰しも怖いもの見たさでホラー映画や怪談小説に触れることがあるだろう。岡本綺堂は江戸の三大怪談と言われる「皿屋敷」「牡丹灯籠」に関わった。他にも、岡本綺堂が外国の怪談を翻訳した『中国怪奇小説集』や『世界怪談名作集』も出版されている。日本のみならず、中国語圏や英語圏の怪談にも精通した人物だったんだぞ。ちなみにだが、三大怪談の最後のひとつはお岩さんの「四谷怪談」だ。

当世の風を描く作家

私は怪談小説が大好きで、昭和以前のものを探したときに岡本綺堂と小泉八雲に出会いました。岡本綺堂の魅力は怪談だけでなく、戯曲や探偵小説と多岐に渡って読者を楽しませてくれます。時代考証がきっちりされているので、読書する過程で江戸や明治の暮らしを垣間見ることもできる一石二鳥の作品です。

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