
今回はそんな多彩な作家・岡本綺堂の軌跡と書籍、ついでに当時の文化に軽く触れながら歴史マニアのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。怪談小説が大好きで、岡本綺堂は大学時代に読み漁った推し作家。
幼少期と憧れの歌舞伎界の変動
劇作家と文豪、ふたつの顔を持つ岡本綺堂(おかもときどう)は明治の世に元徳川家御家人の子として生まれます。父はイギリス公使館勤めのお役人であり、英語を習得する環境が整っていました。その父からの影響は大きく、漢文や漢詩を学ぶと同時に歌舞伎に慣れ親しんだ岡本綺堂少年はいつしか劇作家を志すようになります。後年に書かれた『ランプの下にて』は、この子ども時代の体験から明治歌舞伎を振り返った随筆で、明治時代の歌舞伎の貴重な資料となりました。
奇しくも、時は1886年(明治十九年)、芸能の世界は「演劇改良運動」が盛んになったころです。それ以前から明治政府は歌舞伎などに干渉していて、貴人や外国人が見るに相応しい高尚な芸能へ変革するよう芸能界に求めていました。そして、その年に明治政府はこれまで歌舞伎の世界で行ってきた作品とは真逆、フィクションや荒唐無稽な流れを廃し、事実に沿ったものを演じるよう要求します。
「演劇改良運動」は欧米列強と日本が肩を並べられるレベルの文明国であることを示すのが目的でありましたが、天皇による初の歌舞伎鑑賞を実現させるなどして役者の社会的地位の向上に貢献するなど、悪いことばかりではありません。さらに、九代目市川團十郎を筆頭に旧来の脚本に手を入れ、事実に沿う史劇が徐々に広まり始めたのです。
新聞社に努めながら作家を目指した20代
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ところが、岡本綺堂は東京府立一中を卒業後、経済的な問題からすぐには劇作家にはなれませんでした。そこで18歳の岡本綺堂はまず最初に東京日日新聞社に就職し、狂綺堂という名前で劇評などの執筆の仕事をはじめます。けれど、彼は決して夢を諦めたわけではありません。仕事の傍らに創作活動を続け、一年後には就職先の東京日日新聞に小説「高松城」、同人雑誌『東もやう』に「盲心中」を発表しました。
その後も地方紙などに小説を書きつつ、東京日日新聞社から中央新聞へ、その翌年に絵入日報社へ転職するも会社の業績不振から退社してしまいます。というのも、この当時の新聞社は浮き沈みが激しく、新聞紙条例によって廃刊に追い込まれることも珍しくなかったのです。
岡本綺堂は一時、英国大使館附武官の日本語教師になり、その間に処女戯曲「紫宸殿」を『歌舞伎新報』へ発表します。これがウケて劇作家に……とは、残念ながらなりません。作品は振るわないまま月日が過ぎていき、各劇場は部外者の作品を入れない方針で、岡本綺堂は劇場から締め出されてしまうのです。
旧来の劇場から独立した新歌舞伎の登場

新聞社を渡りながら発表できない戯曲を書き貯める岡本綺堂でしたが、30歳になってようやく彼に劇場の門が開かれることとなります。
明治後半から昭和初期にかけて、封建的な歌舞伎界の在り方に疑問を持つものたちによって「新歌舞伎」という新しい歌舞伎狂言が誕生したのです。歌舞伎界に新しいこの風は、近代的な背景や照明などの大道具の採用をはじめ、劇場部外者の作品の上演など、それまでの決まり事をどんどん破っていき、坪内逍遥などの名立たる文豪たちが脚本を書く流れを実現したのでした。小説家の他、新聞記者など文字書きが本業の彼らが描く人間模様や心理描写は非常に厚みがあり、文学性の高い作品となりました。それは歌舞伎の黄金時代と呼ばれた歌舞伎界への大きな貢献となったのです。
一方、岡本綺堂は、かねてより親交のあった歌舞伎作家・岡鬼太郎との合作「金鯱噂高浪」四幕が歌舞伎座で上演されることとなりました。これが岡本綺堂にとって自作の初上演となります。ただし、本作の評価はあまりよくはありませんでした。
その後も職を転々としながら、1904年(明治三十七年)の日露戦争を挟んだ1908年(昭和四十一年)、36歳の岡本綺堂はとうとう出世作となる「維新前後」を発表します。この作品を演じた二代目市川左団次と共に岡本綺堂は人気を得、さらに二年後発表された「修禅寺物語」の成功により新歌舞伎を代表する劇作家へとのし上がっていくのでした。
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