
曹操は夏候惇に対して『不臣の礼』をとっていた

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ここで、曹操が夏候惇を特に重宝した逸話として『不臣の礼』があります。それは夏候惇は配下ではない、という特別待遇でした。
曹操の車に同乗することを許され、さらには寝室への出入りも許されていたといいます。この厚遇に比肩できる者はいませんでした。ここで夏候惇は唯一魏の官位を持っていませんでした。これは魏の官位とは曹操の配下を表すものです。夏候惇はあくまで漢の配下であり、曹操とは地位の違いはあれどあくまで同僚、曹操は決して夏候惇を配下として扱うことはなかったといいます。
夏侯惇は、これは自分には過ぎた扱いとして、魏の官位を与えられることを強く要請していたそうです。
曹操の即位に反対する夏候惇、しかし…
219年、曹操は、中国の殆どを掌握していたそうです。配下たちから、魏帝として即位することを強く望まれたそうですが、夏候惇は反対していました。
帝位につくのは、あくまで劉備を滅ぼしてからだ、と主張していたのです。
これほど重宝した夏候惇の言葉ですから、曹操も無視は出来ないでしょう。最期まで帝位を望むことはありませんでした。
その年が明けた220年正月、曹操は病没します。
その後、後を継いだ曹操の息子「曹丕」(そうひ)により、夏候惇は大将軍(軍政の最高司令官)に就任し、魏の官位を受けました。しかし、その年の4月病を発病してしまうのです。夏候惇は曹操の即位に反対したことを酷く後悔したといい、その後悔から発病したという説があります。
そして、曹操の後を追うように、夏候惇も病没してしまうのです。
最期の時まで曹操に従った人生だったのでしょう。
勤勉・質素・実直な人物であった

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夏侯惇は何歳になっても、軍の遠征中でも学問の師を迎えて、熱心に授業を受けたそうです。性格は清潔で勤勉、質素、実直であり、財産が余るたびに、人々へ分け与えていました。
そんな彼の人となりを表すものとしては、許昌で見つかった夏侯惇の『陵墓』(こうりょう・墓のこと)です。本来であれば大将軍まで上り詰めた人物、様々な埋葬品が見つかるのが常なのですが、夏候惇のお墓からはなんとたった一振りの剣しか発掘されませんでした。
曹操がこれほどまでに夏候惇を重宝した理由は、まさにこれなのではないでしょうか。いくら有能な人物であろうとも、夏候惇を超える実直さを持つ者はいなかったと思います。
夏候惇は、人格者であった。
夏候惇のことを勉強する際には、まずは猛将のイメージを払拭するところから始めると良いでしょう。眼帯を付けた隻眼の武将、とても格好良いイメージなのですが、夏候惇の格好良さはそこではありません。
まさに曹操の分身ともいえる生涯、影から主君を支え続けたその人格こそ称賛できるものなのだと思います。
これは現代にも共通するものではないでしょうか、ただ仕事が出来るだけの人物ではそこで終わってしまうものですが、人々の信頼を得るには夏候惇の生き様を是非参考にしていきましょう!