
救い出された夏候惇は、再び呂布討伐に従軍する
パブリック・ドメイン, Link
徐州から曹操が戻ると、夏候惇は再び呂布討伐に従軍します。しかしこの戦いの最中、夏候惇は左目に矢を受けて失明してしまうのです。失明してしまった夏候惇ですが、なんとそのまま撤退もせず呂布討伐戦を戦い抜きました。
『三国志演義』では、衝撃的なエピソードがあります。もちろんフィクションではありますが、引き抜いた矢についていた眼球を、親からもらったものを捨てるなどと、飲み込んでしまうのです。
夏候惇の気性の荒いエピソードとして、演義では一番の見せ場でしょう。ここから夏候惇=豪胆な猛将というイメージに繋がっていったのです。
夏候惇の渾名『盲夏侯』しかし本人は怒り狂う
左目を失った夏候惇にはとある渾名がつきます。同じく将軍であった夏侯淵ら夏候一族と区別するため『盲夏候』(もうかこう)というものです。
しかし、当時の中国では四肢の欠損は恥とみる文化がありました。当然夏候惇も失った左目を鏡で見るたび、怒り鏡を投げ捨てたといいます。同じように『盲夏候』という渾名も嫌っていたようです。
現代の夏候惇の代名詞とも言える眼帯ですが、同じく日本の眼帯をつけた武将といえば伊達政宗。彼もまた隻眼であったことを嫌い、肖像画では目を二つ描かせていたそうです。
こちらの記事もおすすめ

東北の覇者「伊達政宗」を戦国通のサラリーマンが徹底わかりやすく解説!
勢力を拡大する曹操は、夏候惇を重宝する

image by iStockphoto
曹操は順調に勢力を拡大するに従い、『陳留』(ちんりゅう)太守、『済陰』(せいいん)太守と歴任していきます。これほど重宝された人物は他におらず、曹操の夏候惇への信頼の厚さが伺えるのです。
その後、曹操が『献帝』(けんてい・当時の帝)を迎えると、洛陽の長官である『河南尹』(かなんいん)に就任します。夏候惇は内政にその力を発揮していくのです。かつて曹操が『袁術』(えんじゅつ)戦で決壊させた太寿水をせき止める堤防を築き、兵士や庶民に模範を見せるべく自ら土木作業に従事しました。さらには将兵を率いて農業すらも指導し、民を導きます。
夏候惇二度目の苦悩、伏兵を見抜けず危機に陥る
199年、博望坡(はくぼうは)にて『荊州』(けいしゅう)の「劉表」(りゅうひょう)側として「劉備」(りゅうび)が攻め入ってきたのです。
夏侯惇は「于禁」(うきん)「李典」(りてん)を従えて、これと相対します。交戦の結果、劉備は屯営を焼き払って博望に撤退したのですが、これを夏候惇が追撃しようとすると、李典が「伏兵を配しやすい地形のため危険だ」と諌めるのです。しかし、なんと夏侯惇はこれを聞き入れずに追撃を行いました。案の定といいますか、夏候惇は伏兵の攻撃を受けて軍が壊滅、危機に陥ってしまうのですが、李典の働きにより事なきを得るのです。
この逸話、そして呂布軍との戦いからわかるように、夏候惇は決して戦上手ではありませんでした。そして武勇に優れた猛将というわけでもなかったのです。
しかし、その後の活躍で汚名返上、曹操からの称賛
206年、領内で反乱が起きると曹操は、その鎮圧を夏候惇に任せます。夏候惇は大軍を率いてあっという間に鎮圧すると、首謀者たちを処刑しました。夏候惇のこの功績を朝廷に取り上げられ、さらには曹操と距離を置いていたものたちとの仲を取り持つなど、曹操からの称賛も浴びました。
217年には、曹操は「孫権」(そんけん)と『濡須口』(じゅすこう)で戦ったのですが、孫権の防備はきわめて固く、曹操は撤退を余儀なくされたのです。その後、曹操は本拠地である『許昌』(きょしょう)に撤退する際に、夏候惇を対孫権の防衛線の総司令官に任命し「張遼」(ちょうりょ)や「臧覇」(ぞうは)といった将軍達を率いさせました。そんな夏候惇に働きもあったのでしょう、孫権は曹操に対して和睦の意を示してきたのです。曹操は、夏侯惇の功績を古人になぞらえて高く賞賛したといいます。
\次のページで「曹操は夏候惇に対して『不臣の礼』をとっていた」を解説!/