今日は、魏の英雄曹操の血縁にして側近であった「夏候惇」について、勉強していこう。曹操が挙兵において副将として仕えた頃から、流れ矢に打たれ片目を失った『呂布討伐戦』、そして曹操の最期まで従った彼の一生をわかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「夏候惇」について、わかりやすくまとめた。

「夏候惇」の出自、そして青年時代

 「夏候惇」(かこうとん)、字は「元譲」(げんじょう)といいます。出年は不明であり、場所は『豫州』(よしゅう)『沛国』(はいこく)という所です。後に主君となる「曹操」(そうそう)とは従兄弟の関係であり、性格は謙虚で義理堅く、向上心を持ち合わせていたといいます。そんな性格もあったのでしょう、曹操には非常に重宝されたようです。

 そんな夏候惇ですが、気性の荒い一面もあったという逸話が残されています。彼が14歳の時に、とある男に学問の師を侮辱されるのです。すると夏候惇は怒り、その男を殺してしまったといいます。これは『三国志正史』での逸話であり、夏候惇が持つ気性の荒い猛将のようなイメージの一旦となったのは間違いありません。

曹操の挙兵、副将として付き従う

 曹操の挙兵の時がきました。夏候惇はこの当時から、副将として付き従っています。しかしこの時の軍は、曹操自身が私財を投入しており、夏候惇をはじめ「夏侯淵」(かこうえん)、「曹洪」(そうきょう)や「曹仁」(そうじん)、「曹純」(そうじゅん)などを中心とした身内ばかり、軍とはとても言い難い小さな勢力だったのです。

 190年、曹操の親友である「袁紹」(えんしょう)が都・『洛陽』(らくよう)で悪政を敷いていた「董卓」(とうたく)に対し、逆賊討伐の大義名分を掲げ『反董卓連合軍』を結成します。夏候惇もまた、曹操に従いこれに駆けつけました。しかし、終結した諸侯は自らの利益を優先するばかり、積極的に打って出る者も居らず、逆に董卓に恐れを抱き、牽制を始めてしまいます。

 すると、なんと董卓は洛陽を焼きはらってしまい、『長安』(ちょうあん)へと遷都を決行してしまうのです。これを好機とみた曹操は、盟主である袁紹へ進言するのですが、諸侯の打算もあり却下されてしまいました。業を煮やした曹操は、わずかばかりの配下の兵と共に打って出ますが、その兵力差から敗走してしまいます。

夏候惇はとある能力に秀でていた

 その後、曹操は『兗州』(えんしゅう)を中心に勢力を広げていきます。夏候惇は、曹操から軍を率いて白馬に駐屯するよう命を受けました。『太守』(たいしゅ)に任じられると「韓浩」(かんこう)や、後に曹操の親衛隊となる「典韋」(てんい)など優れた人物を見出し、部下に迎えるのです。

 ここから伺える夏候惇の秀でた能力とは、まさに人心の掌握でしょう。武勇に優れたイメージがありますが、実際には謙虚な性格で褒美もその殆どを部下に分けてしまうような人物だったようです。ここから優れた人物の発掘・雇用により主君・曹操を大きく助けました。

曹操配下武将の謀反、いち早く出立した夏候惇はなんと…

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 193年、曹操陣営を脅かす出来事が起こります。『徐州』(じょしゅう)の「陶謙」(とうけん)によって、曹操の父「曹嵩」(そうすう)や弟「曹徳」(そうとく)を含めた一族を殺されてしまうのです。曹操はこれをうけて復習戦を行うことを決意します。曹操が軍勢を率い兗州から徐州に侵攻すると、夏候惇は兗州にある『濮陽』(ぼくよう)というところの守備を任されました。

 濮陽を守っていた夏候惇の耳に、曹操配下の「張邈」(ちょうばく)「陳宮」(ちんきゅう)らの謀反の知らせが届きます。陳宮らは武将「呂布」(りょふ)を主君として迎えていたのです。城内には曹操の家族もおり、夏候惇は彼らを守ろうと軽装の兵で出立します。しかし、呂布配下の将の策によって夏候惇は捕らわれてしまうのです。

 夏候惇の人望は厚いものでした。夏候惇陣営内は大慌てですが、夏候惇の部下である「韓浩」(かんこう)は敗北が許されません。涙しながらも「人質には構わない」と戦っていったため、呂布軍は恐れ慄き夏候惇を釈放したのです。さらには、大将である己を見捨てて徹底抗戦の構えをとった韓浩に対して称賛したといいます。この時の逸話から、夏候惇がどれだけ慕われていたかが伺えますね。

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救い出された夏候惇は、再び呂布討伐に従軍する

清の時代に描かれた三国志演義の挿絵
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 徐州から曹操が戻ると、夏候惇は再び呂布討伐に従軍します。しかしこの戦いの最中、夏候惇は左目に矢を受けて失明してしまうのです。失明してしまった夏候惇ですが、なんとそのまま撤退もせず呂布討伐戦を戦い抜きました。

 『三国志演義』では、衝撃的なエピソードがあります。もちろんフィクションではありますが、引き抜いた矢についていた眼球を、親からもらったものを捨てるなどと、飲み込んでしまうのです。

 夏候惇の気性の荒いエピソードとして、演義では一番の見せ場でしょう。ここから夏候惇=豪胆な猛将というイメージに繋がっていったのです。

夏候惇の渾名『盲夏侯』しかし本人は怒り狂う

 左目を失った夏候惇にはとある渾名がつきます。同じく将軍であった夏侯淵ら夏候一族と区別するため『盲夏候』(もうかこう)というものです。

 しかし、当時の中国では四肢の欠損は恥とみる文化がありました。当然夏候惇も失った左目を鏡で見るたび、怒り鏡を投げ捨てたといいます。同じように『盲夏候』という渾名も嫌っていたようです。

 現代の夏候惇の代名詞とも言える眼帯ですが、同じく日本の眼帯をつけた武将といえば伊達政宗。彼もまた隻眼であったことを嫌い、肖像画では目を二つ描かせていたそうです。

勢力を拡大する曹操は、夏候惇を重宝する

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 曹操は順調に勢力を拡大するに従い、『陳留』(ちんりゅう)太守、『済陰』(せいいん)太守と歴任していきます。これほど重宝された人物は他におらず、曹操の夏候惇への信頼の厚さが伺えるのです。

 その後、曹操が『献帝』(けんてい・当時の帝)を迎えると、洛陽の長官である『河南尹』(かなんいん)に就任します。夏候惇は内政にその力を発揮していくのです。かつて曹操が『袁術』(えんじゅつ)戦で決壊させた太寿水をせき止める堤防を築き、兵士や庶民に模範を見せるべく自ら土木作業に従事しました。さらには将兵を率いて農業すらも指導し、民を導きます。

夏候惇二度目の苦悩、伏兵を見抜けず危機に陥る

 199年、博望坡(はくぼうは)にて『荊州』(けいしゅう)の「劉表」(りゅうひょう)側として「劉備」(りゅうび)が攻め入ってきたのです。

 夏侯惇は「于禁」(うきん)「李典」(りてん)を従えて、これと相対します。交戦の結果、劉備は屯営を焼き払って博望に撤退したのですが、これを夏候惇が追撃しようとすると、李典が「伏兵を配しやすい地形のため危険だ」と諌めるのです。しかし、なんと夏侯惇はこれを聞き入れずに追撃を行いました。案の定といいますか、夏候惇は伏兵の攻撃を受けて軍が壊滅、危機に陥ってしまうのですが、李典の働きにより事なきを得るのです。

 この逸話、そして呂布軍との戦いからわかるように、夏候惇は決して戦上手ではありませんでした。そして武勇に優れた猛将というわけでもなかったのです。

しかし、その後の活躍で汚名返上、曹操からの称賛

 206年、領内で反乱が起きると曹操は、その鎮圧を夏候惇に任せます。夏候惇は大軍を率いてあっという間に鎮圧すると、首謀者たちを処刑しました。夏候惇のこの功績を朝廷に取り上げられ、さらには曹操と距離を置いていたものたちとの仲を取り持つなど、曹操からの称賛も浴びました。

 217年には、曹操は「孫権」(そんけん)と『濡須口』(じゅすこう)で戦ったのですが、孫権の防備はきわめて固く、曹操は撤退を余儀なくされたのです。その後、曹操は本拠地である『許昌』(きょしょう)に撤退する際に、夏候惇を対孫権の防衛線の総司令官に任命し「張遼」(ちょうりょ)や「臧覇」(ぞうは)といった将軍達を率いさせました。そんな夏候惇に働きもあったのでしょう、孫権は曹操に対して和睦の意を示してきたのです。曹操は、夏侯惇の功績を古人になぞらえて高く賞賛したといいます。 

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曹操は夏候惇に対して『不臣の礼』をとっていた

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 ここで、曹操が夏候惇を特に重宝した逸話として『不臣の礼』があります。それは夏候惇は配下ではない、という特別待遇でした。

 曹操の車に同乗することを許され、さらには寝室への出入りも許されていたといいます。この厚遇に比肩できる者はいませんでした。ここで夏候惇は唯一魏の官位を持っていませんでした。これは魏の官位とは曹操の配下を表すものです。夏候惇はあくまで漢の配下であり、曹操とは地位の違いはあれどあくまで同僚、曹操は決して夏候惇を配下として扱うことはなかったといいます。

 夏侯惇は、これは自分には過ぎた扱いとして、魏の官位を与えられることを強く要請していたそうです。

曹操の即位に反対する夏候惇、しかし…

 219年、曹操は、中国の殆どを掌握していたそうです。配下たちから、魏帝として即位することを強く望まれたそうですが、夏候惇は反対していました。

 帝位につくのは、あくまで劉備を滅ぼしてからだ、と主張していたのです。

 これほど重宝した夏候惇の言葉ですから、曹操も無視は出来ないでしょう。最期まで帝位を望むことはありませんでした。

 その年が明けた220年正月、曹操は病没します。

 その後、後を継いだ曹操の息子「曹丕」(そうひ)により、夏候惇は大将軍(軍政の最高司令官)に就任し、魏の官位を受けました。しかし、その年の4月病を発病してしまうのです。夏候惇は曹操の即位に反対したことを酷く後悔したといい、その後悔から発病したという説があります。

 そして、曹操の後を追うように、夏候惇も病没してしまうのです。

 最期の時まで曹操に従った人生だったのでしょう。

勤勉・質素・実直な人物であった

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 夏侯惇は何歳になっても、軍の遠征中でも学問の師を迎えて、熱心に授業を受けたそうです。性格は清潔で勤勉、質素、実直であり、財産が余るたびに、人々へ分け与えていました。

 そんな彼の人となりを表すものとしては、許昌で見つかった夏侯惇の『陵墓』(こうりょう・墓のこと)です。本来であれば大将軍まで上り詰めた人物、様々な埋葬品が見つかるのが常なのですが、夏候惇のお墓からはなんとたった一振りの剣しか発掘されませんでした。

 曹操がこれほどまでに夏候惇を重宝した理由は、まさにこれなのではないでしょうか。いくら有能な人物であろうとも、夏候惇を超える実直さを持つ者はいなかったと思います。

夏候惇は、人格者であった。

 夏候惇のことを勉強する際には、まずは猛将のイメージを払拭するところから始めると良いでしょう。眼帯を付けた隻眼の武将、とても格好良いイメージなのですが、夏候惇の格好良さはそこではありません。

 まさに曹操の分身ともいえる生涯、影から主君を支え続けたその人格こそ称賛できるものなのだと思います。

 これは現代にも共通するものではないでしょうか、ただ仕事が出来るだけの人物ではそこで終わってしまうものですが、人々の信頼を得るには夏候惇の生き様を是非参考にしていきましょう!

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三国時代・三国志世界史中国史歴史

【三国志】武闘派?智謀派?武将「夏侯惇」を中国史マニアが分かりやすくわかりやすく解説

今日は、魏の英雄曹操の血縁にして側近であった「夏候惇」について、勉強していこう。曹操が挙兵において副将として仕えた頃から、流れ矢に打たれ片目を失った『呂布討伐戦』、そして曹操の最期まで従った彼の一生をわかりやすくまとめておいた。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は「夏候惇」について、わかりやすくまとめた。

「夏候惇」の出自、そして青年時代

 「夏候惇」(かこうとん)、字は「元譲」(げんじょう)といいます。出年は不明であり、場所は『豫州』(よしゅう)『沛国』(はいこく)という所です。後に主君となる「曹操」(そうそう)とは従兄弟の関係であり、性格は謙虚で義理堅く、向上心を持ち合わせていたといいます。そんな性格もあったのでしょう、曹操には非常に重宝されたようです。

 そんな夏候惇ですが、気性の荒い一面もあったという逸話が残されています。彼が14歳の時に、とある男に学問の師を侮辱されるのです。すると夏候惇は怒り、その男を殺してしまったといいます。これは『三国志正史』での逸話であり、夏候惇が持つ気性の荒い猛将のようなイメージの一旦となったのは間違いありません。

曹操の挙兵、副将として付き従う

 曹操の挙兵の時がきました。夏候惇はこの当時から、副将として付き従っています。しかしこの時の軍は、曹操自身が私財を投入しており、夏候惇をはじめ「夏侯淵」(かこうえん)、「曹洪」(そうきょう)や「曹仁」(そうじん)、「曹純」(そうじゅん)などを中心とした身内ばかり、軍とはとても言い難い小さな勢力だったのです。

 190年、曹操の親友である「袁紹」(えんしょう)が都・『洛陽』(らくよう)で悪政を敷いていた「董卓」(とうたく)に対し、逆賊討伐の大義名分を掲げ『反董卓連合軍』を結成します。夏候惇もまた、曹操に従いこれに駆けつけました。しかし、終結した諸侯は自らの利益を優先するばかり、積極的に打って出る者も居らず、逆に董卓に恐れを抱き、牽制を始めてしまいます。

 すると、なんと董卓は洛陽を焼きはらってしまい、『長安』(ちょうあん)へと遷都を決行してしまうのです。これを好機とみた曹操は、盟主である袁紹へ進言するのですが、諸侯の打算もあり却下されてしまいました。業を煮やした曹操は、わずかばかりの配下の兵と共に打って出ますが、その兵力差から敗走してしまいます。

夏候惇はとある能力に秀でていた

 その後、曹操は『兗州』(えんしゅう)を中心に勢力を広げていきます。夏候惇は、曹操から軍を率いて白馬に駐屯するよう命を受けました。『太守』(たいしゅ)に任じられると「韓浩」(かんこう)や、後に曹操の親衛隊となる「典韋」(てんい)など優れた人物を見出し、部下に迎えるのです。

 ここから伺える夏候惇の秀でた能力とは、まさに人心の掌握でしょう。武勇に優れたイメージがありますが、実際には謙虚な性格で褒美もその殆どを部下に分けてしまうような人物だったようです。ここから優れた人物の発掘・雇用により主君・曹操を大きく助けました。

曹操配下武将の謀反、いち早く出立した夏候惇はなんと…

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 193年、曹操陣営を脅かす出来事が起こります。『徐州』(じょしゅう)の「陶謙」(とうけん)によって、曹操の父「曹嵩」(そうすう)や弟「曹徳」(そうとく)を含めた一族を殺されてしまうのです。曹操はこれをうけて復習戦を行うことを決意します。曹操が軍勢を率い兗州から徐州に侵攻すると、夏候惇は兗州にある『濮陽』(ぼくよう)というところの守備を任されました。

 濮陽を守っていた夏候惇の耳に、曹操配下の「張邈」(ちょうばく)「陳宮」(ちんきゅう)らの謀反の知らせが届きます。陳宮らは武将「呂布」(りょふ)を主君として迎えていたのです。城内には曹操の家族もおり、夏候惇は彼らを守ろうと軽装の兵で出立します。しかし、呂布配下の将の策によって夏候惇は捕らわれてしまうのです。

 夏候惇の人望は厚いものでした。夏候惇陣営内は大慌てですが、夏候惇の部下である「韓浩」(かんこう)は敗北が許されません。涙しながらも「人質には構わない」と戦っていったため、呂布軍は恐れ慄き夏候惇を釈放したのです。さらには、大将である己を見捨てて徹底抗戦の構えをとった韓浩に対して称賛したといいます。この時の逸話から、夏候惇がどれだけ慕われていたかが伺えますね。

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