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本能寺の変だけじゃない「明智光秀」の一生を元塾講師がわかりやすく解説!

山崎の戦いを前にした明智光秀の誤算

本能寺の変の襲撃に成功した明智光秀でしたが、この後想定外の出来事が多々起こり、それが命取りとなってしまいます。まず羽柴秀吉の行動が予想以上に早かったことで、明智光秀は織田信長の家臣達が自分の元に到着するには時間がかかると読んでいました。

と言うのも、この時織田信長の家臣達は戦の真っ最中でしたし、羽柴秀吉に至っては中国地方で毛利家を攻めていたのです。しかし、羽柴秀吉は織田信長の自害を知らされると毛利家と講和、わずかな期間で京都に近い距離まで戻ってきました。

さらに明智光秀に味方する者も少なく、瀬田橋が焼かれたことの修復にも時間がかかったことも痛手でした。このため、充分な兵力を準備できない状態で羽柴秀吉を迎え撃たなければならなくなったのです。当然、新政権を整える充分な準備もできていませんでした。

山崎の戦いと明智光秀の最期

山崎の戦いとは、1582年の羽柴秀吉と明智光秀の軍勢の戦いで、この戦いで明智光秀は死亡しました。ただ、死亡の経緯については複数の諸説があり、「落ち武者狩りに遭遇して殺害された」や「家臣に介錯によって死亡した」などと伝えられています。

また、山崎の戦いには明確になっていない部分がいくつかあり、例えば羽柴軍と明智軍の兵力数です。羽柴軍がおよそ27000だったことに対して明智軍はおよそ17000とされていますが、これにも複数の諸説があり、羽柴軍が40000以上だったという説もあります。

とは言え、明智軍が準備不足だったのは確かであり、不利な状況で羽柴軍と戦ったのは間違いないでしょう。また、安土城で留守を預かっていた明智光秀の重臣の明智秀満(あけちひでみつ)も城に火を放って自害します。この山崎の戦いが起こったのは1582年の6月13日であり、同年6月2日の本能寺の変からわずか11日後の出来事でした。

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本能寺で織田信長を倒した後の明智光秀だが、実はわずか11日後の山崎の戦いで死亡することになる。最も、わずか11日で山崎の戦いが起こったのは羽柴秀吉の行動の早さが理由であり、明智光秀にとってそれが準備不足を招いて命取りになってしまったのだ。

明智光秀の一生のメインは織田信長に仕えてから

誕生、幼年期、青年期において明智光秀は不詳の部分が多く、そのため一生のメインはやはり織田信長に仕えてからになります。数々の戦いとその功績、明智光秀が織田信長に信頼されるまでに至った経緯はしっかり覚えておきましょう。

また、本能寺の変以降の明智光秀はすぐ後の山崎の戦いで死亡するため、それほど覚えることはありません。明智光秀の束の間の時代が終わり、すぐに豊臣秀吉の時代がやってくることになるのです。

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shintomoyui0311