日本史

本能寺の変だけじゃない「明智光秀」の一生を元塾講師がわかりやすく解説!

長良川の戦いはなぜ起こったのか

明智光秀の一家の離散の原因となった長良川の戦いは、一体何が原因で起こったのでしょうか。1542年、斎藤道三は名門土岐氏にかわって美濃の国主になりました。そして1554年に嫡男(正室の生んだ男子の中で最も年長の子)の斎藤義龍に国を譲ります。

しかし斎藤道三は斎藤義龍を嫌い、その弟達を溺愛していたのです。それも三男に至っては一色右兵衛大輔と名乗らせ、名門一色氏の姓と官途を与えました。長男を差し置いて奢る弟達とそうさせてしまった斎藤道三、当然ながら斎藤義龍は斎藤道三と不仲になり、対抗手段まで考えるようになったのです。

このままでは斎藤道三は弟達のいずれかを跡継ぎにするだろう……そう危惧した斎藤義龍は弟達の殺害を計画、重病と偽って策にはめて弟達を殺害しました。その顛末を自ら斎藤道三に伝えた斎藤義龍、翌年に両者は戦うこととなり、その戦いこそが長良川の戦いなのです。

長良川の戦いとその結末

1556年、斎藤道三とその嫡男である斎藤義龍は美濃国の長良川で合戦を行い、兵力は斎藤道三が約2700、対する斎藤義龍が約17500でした。ここまで差が出たのは斎藤道三が国主になるまでの経緯の問題、さらに重臣の西美濃三人衆をはじめとする家中の大半が斎藤義龍を支持していたのが原因とされています。

合戦は義龍軍の突撃によって始まりますが、乱戦となって意外にも斎藤道三が優勢に進みました。とは言え、膨大な兵力差によって形成は逆転、斎藤道三の戦死によって長良川の戦いは終戦となりました。

この戦いの後、斎藤義龍は「我が身の不徳より出た罪」と出家を宣言すると、以後「はんか」と名乗ります。また、合戦には間に合わなかったのですが、斎藤道三の娘婿が援軍を派遣しており、そしてその娘婿こそ織田信長でした。

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分かりやすく言えば、長良川の戦いは壮絶な親子喧嘩だ!長男よりも次男と三男を溺愛する父とそれを不満に思う長男、長男が次男と三男を殺害したことで両者が衝突したわけだ。そして兵力の多い斎藤義龍が勝利する……戦いの原因も結果もイメージしやすく難しくないだろう。

織田信長に仕えることとなる明智光秀

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織田信長に仕える明智光秀 室町幕府の滅亡まで

明智光秀は足利義昭(あしかがよしあき)と織田信長の家臣となり、1568年に足利義昭の上洛に加わりました。その後、明智光秀は数々の戦いで功績を残します。金ヶ崎の戦いでは織田信長が浅井長政(あざいながまさ)の裏切りによって危機に陥りますが、撤退時の防戦に成功して織田信長を救ったのです。

さらに、かの有名な比叡山焼き討ちにおいては中心的な実行部隊となって武功を上げると、近江国の滋賀軍を与えられて坂本城の築城に取りかかりました。1573年には足利義昭が挙兵しますが、この時明智光秀は石山城、今堅田城の戦いにおいて足利義昭との関係を絶って織田信長の直臣として参加します。

最も、織田信長は将軍を重んじていたため、足利義昭との講和交渉を望んで進めていました。しかし、これは松永久秀(まつながひさひで)に妨害されて破綻となります。最終的に足利義昭は降伏、その後追放処分されて室町幕府は滅亡したのです。

織田信長に仕える明智光秀 丹波国攻略まで

1575年、明智光秀は惟任の賜姓と従五位下日向守に任官を受けたことで惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)となりました。明智光秀を明智惟任日向守光秀などと呼ぶことがありますが、これはこの任官によるものです。

こうして功績を繰り返して出世していった明智光秀は、織田家の家臣の中で新参でありながら、織田信長に気に入られる存在になっていきました。その後も、高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆の殲滅戦にも参加、やがて丹波国攻略まで任されることになります。

そして1579年、とうとう丹波攻略も佳境に入り、八上城が落城と黒井城を落として丹波国を平定すると、さらに丹後国も平定した明智光秀を織田信長は絶賛して褒めたたえました。明智光秀を信頼する織田信長と、織田信長に仕える明智光秀……良好に思える二人の関係から、この3年後に本能寺の変が起こることは誰も予想できなかったのではないでしょうか。

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shintomoyui0311