「敵は本能寺にあり!」のセリフで有名な明智光秀は、本能寺の変で信長を倒したことで有名です。ですがそれが有名すぎる余り、明智光秀それ以外については知らない人が多いのではないでしょうか。

しかし明智光秀は戦国時代の武将なのだ!武将であるからには参加した戦いは本能寺の変だけではなく、また信長に仕える以前や本能寺の変以降の行動についても気になるところです。今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から明智光秀をわかりやすくまとめた。

信長に仕える以前の明智光秀

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不明点の多い明智光秀の誕生

日本の歴史は後世の史料などで明らかになりますが、実は明智光秀の誕生から青年期について明確には分かっていません。例えば誕生についてですが、明智光秀を主人公とする軍記物「明智軍記」では1528年、史書「当代記」では1516年の説になっているのです。

さらに、明智光秀の妻である妻木煕子(つまきひろこ)の記述から推測すると、1540年以降なのではないかという説もあります。生まれた地は岐阜県で、可児市の明智城と言われており、岐阜県南部にあたる美濃国辺りで誕生したのは事実とされているようです。

また、明智光秀は清和源氏の土岐氏の支流である明智氏に誕生しましたが、父については明確になっておらず、これはそれほど低い身分の土岐支流だったのが理由ではないでしょうか。ちなみに、諸説として父は明智光継(あけちみつつぐ)の子である明智光綱(あけちみつつな)などが挙がっています。

明智光秀の青年期と織田信長に仕えるまで

明智光秀の幼年期と青年期は誕生同様に多くの不明点があります。青年期においては斎藤道三(さいとうどうさん)に仕えており、明智光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族、斎藤道三は土岐氏にかわって美濃の国主となった人物です。

さて、ここで明智光秀に大きな運命が訪れます。1556年に斎藤道三と斎藤義龍(さいとうよしたつ)の親子の争いである長良川の戦いが起こったのです。明智光秀は斎藤道三に仕える道三側でしたから、それが理由で斎藤義龍に明智城を攻められてしまいました。

その結果一家は離散、明智光秀は浪人となって各地を転々として過ごし、やがて越前国の朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼って10年の間彼に仕えたとされています。その後、明智光秀は朝倉義景から織田信長に仕えることになりますが、これは明智光秀が40歳ほどの時でした。

長良川の戦いについて解説

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長良川の戦いはなぜ起こったのか

明智光秀の一家の離散の原因となった長良川の戦いは、一体何が原因で起こったのでしょうか。1542年、斎藤道三は名門土岐氏にかわって美濃の国主になりました。そして1554年に嫡男(正室の生んだ男子の中で最も年長の子)の斎藤義龍に国を譲ります。

しかし斎藤道三は斎藤義龍を嫌い、その弟達を溺愛していたのです。それも三男に至っては一色右兵衛大輔と名乗らせ、名門一色氏の姓と官途を与えました。長男を差し置いて奢る弟達とそうさせてしまった斎藤道三、当然ながら斎藤義龍は斎藤道三と不仲になり、対抗手段まで考えるようになったのです。

このままでは斎藤道三は弟達のいずれかを跡継ぎにするだろう……そう危惧した斎藤義龍は弟達の殺害を計画、重病と偽って策にはめて弟達を殺害しました。その顛末を自ら斎藤道三に伝えた斎藤義龍、翌年に両者は戦うこととなり、その戦いこそが長良川の戦いなのです。

長良川の戦いとその結末

1556年、斎藤道三とその嫡男である斎藤義龍は美濃国の長良川で合戦を行い、兵力は斎藤道三が約2700、対する斎藤義龍が約17500でした。ここまで差が出たのは斎藤道三が国主になるまでの経緯の問題、さらに重臣の西美濃三人衆をはじめとする家中の大半が斎藤義龍を支持していたのが原因とされています。

合戦は義龍軍の突撃によって始まりますが、乱戦となって意外にも斎藤道三が優勢に進みました。とは言え、膨大な兵力差によって形成は逆転、斎藤道三の戦死によって長良川の戦いは終戦となりました。

この戦いの後、斎藤義龍は「我が身の不徳より出た罪」と出家を宣言すると、以後「はんか」と名乗ります。また、合戦には間に合わなかったのですが、斎藤道三の娘婿が援軍を派遣しており、そしてその娘婿こそ織田信長でした。

織田信長に仕えることとなる明智光秀

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織田信長に仕える明智光秀 室町幕府の滅亡まで

明智光秀は足利義昭(あしかがよしあき)と織田信長の家臣となり、1568年に足利義昭の上洛に加わりました。その後、明智光秀は数々の戦いで功績を残します。金ヶ崎の戦いでは織田信長が浅井長政(あざいながまさ)の裏切りによって危機に陥りますが、撤退時の防戦に成功して織田信長を救ったのです。

さらに、かの有名な比叡山焼き討ちにおいては中心的な実行部隊となって武功を上げると、近江国の滋賀軍を与えられて坂本城の築城に取りかかりました。1573年には足利義昭が挙兵しますが、この時明智光秀は石山城、今堅田城の戦いにおいて足利義昭との関係を絶って織田信長の直臣として参加します。

最も、織田信長は将軍を重んじていたため、足利義昭との講和交渉を望んで進めていました。しかし、これは松永久秀(まつながひさひで)に妨害されて破綻となります。最終的に足利義昭は降伏、その後追放処分されて室町幕府は滅亡したのです。

織田信長に仕える明智光秀 丹波国攻略まで

1575年、明智光秀は惟任の賜姓と従五位下日向守に任官を受けたことで惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)となりました。明智光秀を明智惟任日向守光秀などと呼ぶことがありますが、これはこの任官によるものです。

こうして功績を繰り返して出世していった明智光秀は、織田家の家臣の中で新参でありながら、織田信長に気に入られる存在になっていきました。その後も、高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆の殲滅戦にも参加、やがて丹波国攻略まで任されることになります。

そして1579年、とうとう丹波攻略も佳境に入り、八上城が落城と黒井城を落として丹波国を平定すると、さらに丹後国も平定した明智光秀を織田信長は絶賛して褒めたたえました。明智光秀を信頼する織田信長と、織田信長に仕える明智光秀……良好に思える二人の関係から、この3年後に本能寺の変が起こることは誰も予想できなかったのではないでしょうか。

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明智光秀の象徴である本能寺の変

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本能寺に宿泊中の織田信長を包囲

1582年、徳川家康の饗応役だった明智光秀はその任務を解かれて羽柴秀吉(はしばひでよし)……つまり豊臣秀吉の毛利討伐の支援を命じられました。饗応役とは「きょうおうやく」と読み、これは江戸幕府が設けた役職で、天皇・上皇・女院より派遣された江戸に下向してきた使者の接待をするのが役割です。

さて、支援を命じられた明智光秀は早朝に出陣しますが、その道中で重臣にのみ織田信長を討伐する意思を伝えたとされています。この明智光秀の意思は一般の兵士達には知らされていませんでした。出陣して進軍中の明智光秀は、軍を京都に向けて転進させたのです。

この時、京都に向かう口実として「森蘭丸(もりらんまる)からの使いがあり、織田信長が明智軍の軍曹などを検分するらしい」と告げました。この時、織田信長は京都の本能寺に宿泊しており、明智軍は本能寺を包囲したのです。

本能寺の変と織田信長の最期

明智光秀の襲撃の知らせを聞いた織田信長でしたが、それに対抗するのは不可能な状況でした。なぜなら兵力に大きな差があり、諸説によるとおよそ10000以上とされる明智光秀の軍勢に対して、織田信長が本能寺に連れてきた兵は100前後しかなかったからです。

絶望的な状況の中で織田信長は自ら死を選んで自害、本能寺に火を放ちました。また、明智光秀は織田信長の長男である織田信忠(おだのぶただ)がいた二条御所も襲撃します。一旦は逃れて徹底抗戦の構えを見せた織田信忠でしたが、父である織田信長が自害した報告を聞くと、後を追う形で自害したのです。

自害とは言え、圧倒的軍勢で織田信長を倒した明智光秀でしたが、この時織田信長の遺体は発見されず、また織田信忠の遺体もまた同様に発見されませんでした。これが本能寺の変ですが、最大の謎とされているのは明智光秀の謀反の理由であり、現在でも様々な説が挙げられています。

山崎の戦いと明智光秀の最期

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山崎の戦いを前にした明智光秀の誤算

本能寺の変の襲撃に成功した明智光秀でしたが、この後想定外の出来事が多々起こり、それが命取りとなってしまいます。まず羽柴秀吉の行動が予想以上に早かったことで、明智光秀は織田信長の家臣達が自分の元に到着するには時間がかかると読んでいました。

と言うのも、この時織田信長の家臣達は戦の真っ最中でしたし、羽柴秀吉に至っては中国地方で毛利家を攻めていたのです。しかし、羽柴秀吉は織田信長の自害を知らされると毛利家と講和、わずかな期間で京都に近い距離まで戻ってきました。

さらに明智光秀に味方する者も少なく、瀬田橋が焼かれたことの修復にも時間がかかったことも痛手でした。このため、充分な兵力を準備できない状態で羽柴秀吉を迎え撃たなければならなくなったのです。当然、新政権を整える充分な準備もできていませんでした。

山崎の戦いと明智光秀の最期

山崎の戦いとは、1582年の羽柴秀吉と明智光秀の軍勢の戦いで、この戦いで明智光秀は死亡しました。ただ、死亡の経緯については複数の諸説があり、「落ち武者狩りに遭遇して殺害された」や「家臣に介錯によって死亡した」などと伝えられています。

また、山崎の戦いには明確になっていない部分がいくつかあり、例えば羽柴軍と明智軍の兵力数です。羽柴軍がおよそ27000だったことに対して明智軍はおよそ17000とされていますが、これにも複数の諸説があり、羽柴軍が40000以上だったという説もあります。

とは言え、明智軍が準備不足だったのは確かであり、不利な状況で羽柴軍と戦ったのは間違いないでしょう。また、安土城で留守を預かっていた明智光秀の重臣の明智秀満(あけちひでみつ)も城に火を放って自害します。この山崎の戦いが起こったのは1582年の6月13日であり、同年6月2日の本能寺の変からわずか11日後の出来事でした。

明智光秀の一生のメインは織田信長に仕えてから

誕生、幼年期、青年期において明智光秀は不詳の部分が多く、そのため一生のメインはやはり織田信長に仕えてからになります。数々の戦いとその功績、明智光秀が織田信長に信頼されるまでに至った経緯はしっかり覚えておきましょう。

また、本能寺の変以降の明智光秀はすぐ後の山崎の戦いで死亡するため、それほど覚えることはありません。明智光秀の束の間の時代が終わり、すぐに豊臣秀吉の時代がやってくることになるのです。

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安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史

本能寺の変だけじゃない「明智光秀」の一生を元塾講師がわかりやすく解説!

「敵は本能寺にあり!」のセリフで有名な明智光秀は、本能寺の変で信長を倒したことで有名です。ですがそれが有名すぎる余り、明智光秀それ以外については知らない人が多いのではないでしょうか。

しかし明智光秀は戦国時代の武将なのだ!武将であるからには参加した戦いは本能寺の変だけではなく、また信長に仕える以前や本能寺の変以降の行動についても気になるところです。今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から明智光秀をわかりやすくまとめた。

信長に仕える以前の明智光秀

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不明点の多い明智光秀の誕生

日本の歴史は後世の史料などで明らかになりますが、実は明智光秀の誕生から青年期について明確には分かっていません。例えば誕生についてですが、明智光秀を主人公とする軍記物「明智軍記」では1528年、史書「当代記」では1516年の説になっているのです。

さらに、明智光秀の妻である妻木煕子(つまきひろこ)の記述から推測すると、1540年以降なのではないかという説もあります。生まれた地は岐阜県で、可児市の明智城と言われており、岐阜県南部にあたる美濃国辺りで誕生したのは事実とされているようです。

また、明智光秀は清和源氏の土岐氏の支流である明智氏に誕生しましたが、父については明確になっておらず、これはそれほど低い身分の土岐支流だったのが理由ではないでしょうか。ちなみに、諸説として父は明智光継(あけちみつつぐ)の子である明智光綱(あけちみつつな)などが挙がっています。

明智光秀の青年期と織田信長に仕えるまで

明智光秀の幼年期と青年期は誕生同様に多くの不明点があります。青年期においては斎藤道三(さいとうどうさん)に仕えており、明智光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族、斎藤道三は土岐氏にかわって美濃の国主となった人物です。

さて、ここで明智光秀に大きな運命が訪れます。1556年に斎藤道三と斎藤義龍(さいとうよしたつ)の親子の争いである長良川の戦いが起こったのです。明智光秀は斎藤道三に仕える道三側でしたから、それが理由で斎藤義龍に明智城を攻められてしまいました。

その結果一家は離散、明智光秀は浪人となって各地を転々として過ごし、やがて越前国の朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼って10年の間彼に仕えたとされています。その後、明智光秀は朝倉義景から織田信長に仕えることになりますが、これは明智光秀が40歳ほどの時でした。

長良川の戦いについて解説

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