アフリカ系アメリカ人の公民権運動家も反戦運動に参戦
ジョンソン政権のあいだはベトナム戦争をめぐるアメリカ国内の対立がとくに激化。公民権運動や女性解放運動にくわえ、環境問題、福祉問題、貧困問題なども流れ込み、あらゆることに異議を唱える風潮が強まりました。
アフリカ系アメリカ人の公民権運動の立役者であるキング牧師も反戦運動に参戦。この理由が、福祉予算が圧縮されている現状に不満を持ったこと。戦争介入が長期化することで待遇改善が先送りされることを懸念しての行動でした。
ソ連の軍事援助の本格化がジョンソン政権の首をしめる
このような情勢下、ソ連が北ベトナムに対する軍事援助を本格化することを表明します。これに呼応して中国も軍事援助を拡大。それにより北ベトナム軍は、戦闘機、戦車、大砲などを投入することが可能になりました。
ゲリラ的な戦法を脱却した北ベトナム軍は、圧倒的な軍事力にて南ベトナムを攻撃。それを迎え撃つためにジョンソン政権はダナンに大量の軍隊を投入。なかばやけくそのように軍事規模を拡大
政権交代により「名誉ある撤退」と戦争の終結を模索するように
アメリカがベトナムの内戦に積極的に関与した期間は10年を越えることに。世論の支持も得られなくなり、ジョンソン大統領は再出馬しないことを表明。アメリカは「名誉ある撤退」を決断しました。
共和党のニクソンが勝利、アメリカは保守化を強める
民主党政権に対する不信感が高まったことで共和党が躍進。1969年にリチャード・ニクソンが第37代大統領に就任します。反戦運動をおさめて国の秩序を回復させるため、最初に行ったのがベトナムに駐留する軍隊の規模縮小でした。
反戦運動は政権に対する不信感を声高に叫ぶにとどまり、政治を変えるまでには至りませんでした。ニクソン大統領は、反戦運動が活発になっていた時期に姿を隠していた保守層にアピール。保守化の流れを強めていきました。
アメリカ国内向けのパフォーマンスとしてのパリ和平協定
アメリカは講和条約を有利にすすめるために、北ベトナムの力を弱体化させることを試みます。そこで、北ベトナムに対する爆撃を継続。カンボジアやラオスに対する侵攻にも加担します。北ベトナムが交渉に応じるように方向づけることがその狙いでした。
ニクソン政権は、ソ連と友好な関係を保ちつつ、水面下で中国とも手を組みます。外堀を固めたうえで、南ベトナムや北ベトナムの代表者と共にパリ和平協定を締結。1973年、アメリカ国内に「ベトナム戦争が終わった」ことを高らかに宣言しました。
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