ベトナム戦争は冷戦期の米ソの代理戦争。ベトナムを南北に分断させただけではなく、アメリカでは戦争支持者と反対者の対立が深刻になった。それにより、これまでの伝統的な考え方や権力に異議を唱える若者も増えてくる。「名誉ある撤退」と表現しながらも、実質アメリカは敗北する結果となった。

それじゃ、ベトナム戦争が激しくなる経緯とアメリカをとりまく状況の変化、その後の影響などを世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。冷戦期の世界を見ていくとき「ベトナム戦争」を避けて通ることはできない。「ベトナム戦争」から、南北ベトナム、米ソ、反戦運動などさまざまな対立する状況が生まれた。「ベトナム戦争」にてアメリカがいかに弱体化したのか、その経緯を解説していく。

冷戦期の米ソの代理戦争であった「ベトナム戦争」

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ベトナム戦争は社会主義国家を目指す北ベトナムと資本主義国家を目指す南ベトナムのあいだの戦闘の総称です。1946年から1954年にかけてのフランスからの独立運動であるインドシナ戦争にてベトナムは南北分裂。その延長上で行われた戦争です。

資本主義を支持する南ベトナムの独立宣言

1954年、反共産主義の立場をとるゴ・ディン・ジエムがベトナム共和国を樹立したことを宣言。南ベトナムと呼ばれるようになりました。この時点で形式的に存在していたベトナム王朝は消滅。最後の皇帝であるバオ・ダイはフランスに亡命します。

第一次インドシナ戦争を停止するために締結されたのがジュネーヴ協定。南北統一総選挙を行うことで合意していましたがジエム政権は拒否。東南アジアに共産化の波が広がることを懸念してのことでした。

北ベトナムのホー・チ・ミンが南北の統一を試みる

北ベトナムのホー・チ・ミンは、南ベトナムをアメリカの「傀儡政権」であるとらえて打倒を宣言。ハノイで第15回ベトナム労働党中央委員会拡大総会にて、南ベトナムをアメリカから解放するために武力を行使することを決議します。

そこでジエム政権に反対する勢力をあつめて南ベトナム解放民族戦線を結成。これをきっかけにベトナムは内乱状態になりました。ベトナム戦争のはじまりは明確ではありませんが、解放戦線の結成からベトナム戦争に突入したとする見方が有力です。

「ベトナム戦争」に対する関与を強めていくアメリカ

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By Originally from U.S. Army Operations in Vietnam R.W. Trewyn, Ph.D. , (11) Huey Defoliation National Archives: 111-CC-59948, originally found in Box 1 Folder 9 of Admiral Elmo R. Zumwalt, Jr. Collection: Agent Orange Subject Files. - Item Number: VA042084 , Public Domain, Link

フランスに代わってベトナムの政権争への関与を深めていくアメリカ。これほどまでにベトナムに執着したのは、同じ時期にアメリカはソ連と冷戦状態にあったからです。ベトナムの社会主義政権=北ベトナムの勢力が拡大することで、共産主義が近隣諸国に広がることをアメリカは恐れました。

ジョン・F・ケネディが南ベトナムの支援を決定する

南ベトナムの支援を最初に決定したのがケネディ政権。アメリカでは、ひとつの国が共産主義化すると他の国々も次々と共産主義化されるという考えが浸透。これは「ドミノ理論」と言われ、アメリカの対ソ政策に一定の影響を与えました。

国内への共産主義の浸透を止めるため、特殊作戦部隊600人を派遣すること、軍事物資の支援を増やすことを決定。南ベトナム解放民族戦線を壊滅させるために、クラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤などの投入を開始しました。

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過度な干渉によりジエム政権との間にも溝ができる

もともとアメリカは軍事顧問団の派遣という形をとっていました。しかしケネディ政権は南ベトナムに駐留する米軍の数を一気に増やすことを決断。武器、航空機、戦車を送り込むことで、実質、正規軍の派遣と同じだけの規模としていきます。

ケネディ政権がベトナム戦争に深入りしたことで、支援しているはずのジエム政権と溝を深めることに。次第に南ベトナムはアメリカに対する不信感を強めていきます。それに対してアメリカは、支援の規模を減らすと発表。ジエム政権にゆさぶりをかけてまで関与に執着しました。

アメリカでは若者のベトナム反戦運動がもりあがる

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By Woodstock Whisperer - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

1960年代の後半になるとアメリカ国内の反戦運動はさらに熱を帯びていきます。映画にくわえてテレビが家庭に浸透した時期だったこともあり、戦闘の様子を目撃する機会が増加。反戦の機運が高揚するなか、とくに世界中の若者たちが強い反発を示しました。

大学のキャンパスがベトナム反戦運動の舞台

当時の大学では「フリースピーチ運動」が過熱。カリフォリニア大学バークレー校にて、学生の政治運動を禁止した大学当局に反発した学生たちが、自分の主張を訴える場を設けたことがはじまりです。こうした背景もあり、若者によるベトナム反戦運動の主な舞台となったのが大学のキャンパスでした。

国内の各地の大学にてベトナム戦争反対を訴えるフリースピーチが行われるようにカリスマ的な人気をほこる学生運動家も登場。同時に学生によるデモやイベントも開催されます。これらは、音楽やファッションの革命と結びつき、派手なパフォーマンスを伴うという特徴がありました。

ウッドストック・フェスティバルで若者のアクションはピークに

若者の反戦運動のピークとなったのがウッドストック・フェスティバル。1969年8月15日から17日にかけて行われた野外フェスです。開催の表向きの理由は、ボブ・ディランをはじめとするスターがウッドストックにレコーディングスタジオをつくる資金集めとなっていました。

このフェスティバルに集まったのは「愛」「平和」「反戦」を支持する若者たち。ヒッピーと呼ばれるカウンターカルチャーの一派も集結しました。想定以上の参加者が殺到したこともあり会場は混乱。予定されていたスケジュールは大幅に短縮されました。

「ベトナム戦争」をめぐり迷走するジョンソン政権

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By Yoichi Okamoto - This media is available in the holdings of the National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 192508., パブリック・ドメイン, Link

アメリカにて大統領選挙の一般選挙が行われたのが1964年11月3日。これは、ジエム政権がクーデターによって倒され、ケネディ大統領が暗殺されたあと。北ベトナムの魚雷艇がアメリカ海軍に魚雷攻撃をしたトンキン湾事件が起こった直後でもありました。一連の緊張が続く時期に大統領となったのがリンドン・ジョンソンです。

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アフリカ系アメリカ人の公民権運動家も反戦運動に参戦

ジョンソン政権のあいだはベトナム戦争をめぐるアメリカ国内の対立がとくに激化。公民権運動や女性解放運動にくわえ、環境問題、福祉問題、貧困問題なども流れ込み、あらゆることに異議を唱える風潮が強まりました。

アフリカ系アメリカ人の公民権運動の立役者であるキング牧師も反戦運動に参戦。この理由が、福祉予算が圧縮されている現状に不満を持ったこと。戦争介入が長期化することで待遇改善が先送りされることを懸念しての行動でした。

ソ連の軍事援助の本格化がジョンソン政権の首をしめる

このような情勢下、ソ連が北ベトナムに対する軍事援助を本格化することを表明します。これに呼応して中国も軍事援助を拡大。それにより北ベトナム軍は、戦闘機、戦車、大砲などを投入することが可能になりました。

ゲリラ的な戦法を脱却した北ベトナム軍は、圧倒的な軍事力にて南ベトナムを攻撃。それを迎え撃つためにジョンソン政権はダナンに大量の軍隊を投入。なかばやけくそのように軍事規模を拡大

政権交代により「名誉ある撤退」と戦争の終結を模索するように

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アメリカがベトナムの内戦に積極的に関与した期間は10年を越えることに。世論の支持も得られなくなり、ジョンソン大統領は再出馬しないことを表明。アメリカは「名誉ある撤退」を決断しました。

共和党のニクソンが勝利、アメリカは保守化を強める

民主党政権に対する不信感が高まったことで共和党が躍進。1969年にリチャード・ニクソンが第37代大統領に就任します。反戦運動をおさめて国の秩序を回復させるため、最初に行ったのがベトナムに駐留する軍隊の規模縮小でした。

反戦運動は政権に対する不信感を声高に叫ぶにとどまり、政治を変えるまでには至りませんでした。ニクソン大統領は、反戦運動が活発になっていた時期に姿を隠していた保守層にアピール。保守化の流れを強めていきました。

アメリカ国内向けのパフォーマンスとしてのパリ和平協定

アメリカは講和条約を有利にすすめるために、北ベトナムの力を弱体化させることを試みます。そこで、北ベトナムに対する爆撃を継続。カンボジアやラオスに対する侵攻にも加担します。北ベトナムが交渉に応じるように方向づけることがその狙いでした。

ニクソン政権は、ソ連と友好な関係を保ちつつ、水面下で中国とも手を組みます。外堀を固めたうえで、南ベトナムや北ベトナムの代表者と共にパリ和平協定を締結。1973年、アメリカ国内に「ベトナム戦争が終わった」ことを高らかに宣言しました。

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南北統一後のベトナム社会主義共和国のいま

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ジュネーブ協定にて取り決められていた南北統一選挙が実現したのはパリ和平協定の3年後の1976年。ベトナム社会主義共和国が成立して現在に至ります。その後のベトナムは、急速に産業を発展させると共に、アメリカが残した負の遺産に苦しめられることになりました。

「ベトナム戦争」の続きを意識させたベトちゃん・ドクちゃんの姿

最も深刻な被害をもたらしたのがアメリカ軍がまき散らした枯れ葉剤。ベトナム国民だけではなくアメリカ兵が枯葉剤の影響により健康を害したという報告が相次ぎます。さらに結合双生児のような奇形児出産など、戦争の負の影響が次世代に引き継がれることに。

日本では下半身がつながったベトちゃん・ドクちゃんの姿を大々的に報道。分離手術するための支援活動がはじまります。ホーチミン市内の病院で分離手術をするときに日本は医師団を派遣。ふたつの国が協力して手術を行いました。

ホー・チ・ミンの肖像画であふれるベトナムの街

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くわえて現在のベトナムが社会主義国家であることもベトナム戦争の影響と言えます。ベトナムの街を歩くと、学校の校舎の真ん中には北ベトナムの中心人物であるホー・チ・ミンの肖像画が。ベトナムで使用されている紙幣に印刷されている人物もすべてホー・チ・ミンです。

学校では、ベトナム戦争とホー・チ・ミンの業績をしっかりと学習。そのためベトナム国民の多くは、アメリカに勝利した戦争に対する誇りを持っようになりました。とはいえ、最近はインターネットや留学を通じていろいろな情報に触れられるようになり、水面下では歴史観が多様化しつつあります。

アメリカを分裂させた「ベトナム戦争」はベトナムに何を残したのか

アメリカは長きに渡って「ベトナム戦争」に関与。目的がはっきりしないまま巨額の軍事費を投入したことで、ベトナムだけではなくアメリカの分裂も深めていきました。アメリカがベトナムに執着した理由は冷戦期におけるソ連や共産主義の脅威という「幻想」に取りつかれたから。だからこそ最後まで「栄誉ある撤退」にこだわり、ベトナム国内の被害を拡大させました。現在のベトナムは社会主義共和国。アメリカに唯一勝利した国としての力強さを、今の急速な発展から垣間見ることができます。

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アメリカの歴史世界史歴史独立後

どうしてアメリカは「ベトナム戦争」にて敗北したのか?その経緯を元大学教員がわかりやすく解説

アフリカ系アメリカ人の公民権運動家も反戦運動に参戦

ジョンソン政権のあいだはベトナム戦争をめぐるアメリカ国内の対立がとくに激化。公民権運動や女性解放運動にくわえ、環境問題、福祉問題、貧困問題なども流れ込み、あらゆることに異議を唱える風潮が強まりました。

アフリカ系アメリカ人の公民権運動の立役者であるキング牧師も反戦運動に参戦。この理由が、福祉予算が圧縮されている現状に不満を持ったこと。戦争介入が長期化することで待遇改善が先送りされることを懸念しての行動でした。

ソ連の軍事援助の本格化がジョンソン政権の首をしめる

このような情勢下、ソ連が北ベトナムに対する軍事援助を本格化することを表明します。これに呼応して中国も軍事援助を拡大。それにより北ベトナム軍は、戦闘機、戦車、大砲などを投入することが可能になりました。

ゲリラ的な戦法を脱却した北ベトナム軍は、圧倒的な軍事力にて南ベトナムを攻撃。それを迎え撃つためにジョンソン政権はダナンに大量の軍隊を投入。なかばやけくそのように軍事規模を拡大

政権交代により「名誉ある撤退」と戦争の終結を模索するように

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アメリカがベトナムの内戦に積極的に関与した期間は10年を越えることに。世論の支持も得られなくなり、ジョンソン大統領は再出馬しないことを表明。アメリカは「名誉ある撤退」を決断しました。

共和党のニクソンが勝利、アメリカは保守化を強める

民主党政権に対する不信感が高まったことで共和党が躍進。1969年にリチャード・ニクソンが第37代大統領に就任します。反戦運動をおさめて国の秩序を回復させるため、最初に行ったのがベトナムに駐留する軍隊の規模縮小でした。

反戦運動は政権に対する不信感を声高に叫ぶにとどまり、政治を変えるまでには至りませんでした。ニクソン大統領は、反戦運動が活発になっていた時期に姿を隠していた保守層にアピール。保守化の流れを強めていきました。

アメリカ国内向けのパフォーマンスとしてのパリ和平協定

アメリカは講和条約を有利にすすめるために、北ベトナムの力を弱体化させることを試みます。そこで、北ベトナムに対する爆撃を継続。カンボジアやラオスに対する侵攻にも加担します。北ベトナムが交渉に応じるように方向づけることがその狙いでした。

ニクソン政権は、ソ連と友好な関係を保ちつつ、水面下で中国とも手を組みます。外堀を固めたうえで、南ベトナムや北ベトナムの代表者と共にパリ和平協定を締結。1973年、アメリカ国内に「ベトナム戦争が終わった」ことを高らかに宣言しました。

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