今日は刀狩りについて勉強していきます。戦国武将の晴れ舞台は戦ですが、天下統一を果たした豊臣秀吉を覚える上では戦だけに注目していてはならない。

例えば豊臣秀吉は法令も作っており、それが1588年の刀狩りです。そこで、今回は豊臣秀吉をテーマにして戦ではなく刀狩りの法令について、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から刀狩りをわかりやすくまとめた。

刀狩りの歴史

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日本の刀狩りの歴史

刀狩りとは、武士以外の者……つまり、農民や僧侶などに対して武器の所有を放棄させることであり、天下統一を果たした豊臣秀吉が安土桃山時代の1588年に刀狩り令を出して行いました。最も、刀狩り令を出したのは豊臣秀吉ですが、実は過去にも似たような政策が行われています。

例えば1250年、鎌倉幕府の第5代・執権であった北条時瀬は、市中の庶民の帯刀・総員の夜間弓矢の所持を禁止しました。 つまり、刀狩り令を出したのは豊臣秀吉ですが、庶民の武器の所持の放棄・禁止は過去の日本の歴史においても行われているのです

また、豊臣秀吉が行った刀狩りでは文字どおり農民の帯刀を禁止しており、農民が武装を解除されることになりました。しかし、刀以外の武器の所持について禁じられておらず、そのため刀狩りは「武器の所持を禁止する」ではなく「刀の所持を禁止する」が正しい解釈です

豊臣秀吉の刀狩り

では、豊臣秀吉の行った刀狩りについて解説していきましょう。まず「武士・農民」ですが、これらは「戦う職業・戦わない職業」と言い換えることができますね。言うまでもなく戦う職業とは武士であり、そしてそのための武器が刀になります。さて、一見当然のように思えるこの解説ですが、実は間違っているのです

と言うのも、当時農民が刀を持って戦うことは稀ではなく、そのため農民は地侍と呼ばれたほどでした。ですから武士と農民は区別がしにくく、豊臣秀吉はこの区別を明確なものにしようと考えます。そこで行ったのが兵農分離であり、これは文字どおり武士と農民を身分で分ける政治政策で、この兵農分離が刀狩りと深く関わってくるのです。

ちなみに「身分制度=士農工商」のイメージがありますが、士農工商はもっと先……江戸時代における身分制度であり、兵農分離はその基盤となったものだと捉えれば良いでしょう。また、近年では江戸時代で士農工商の制度はなかったともされていますね。では、そもそもなぜ豊臣秀吉は兵農分離を行ったのでしょうか。

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兵農分離と刀狩りの関係

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武士と農民の差を明確にした兵農分離

兵農分離を行った目的の一つは戦の常備軍を設置することであり、つまり「常に戦を行える状況を確保する」という天下統一を果たした豊臣秀吉らしい目的ですね。当時の日本の財政の要となっていたのはであり、そのため収穫の時期において米の収穫は戦以上に重要なものでした

ですから、例え戦で生きる戦国大名であろうとも、収穫の時期には戦を中止して自らの領地に戻っていくのが常だったのです。しかし、戦を専門とする武士農作業を専門とする農民を明確に分ければ、戦国大名も収穫を気にせず戦を続けられるでしょう。

要するに、米の状況や時期関係なく戦ができるようになり、つまり兵農分離を行うことで戦をするための常備軍の設置が実現します。これが豊臣秀吉が兵農分離を行った大きな理由で、「国のために戦う者=武士」と「国のために農業をする者=農民」を明確に分けたのです。

農民の一揆を防ぐための刀狩り

兵農分離を行ったもう一つの目的、これが刀狩りに深く関係してきます。戦を専門とする武士……ましてや天下統一を果たした豊臣秀吉によって農民は怖れる存在とは思えませんが、実際にはそうでもありませんでした。と言うのも、戦国時代ではたびたび農民による一揆が起こっていたからです。

農民が団結して引き起こす一揆は豊臣秀吉にとって厄介な悩みであり、国と政治を安定させるため、豊臣秀吉は農民に一揆を引き起こさせないための手段を考えました。そして、その手段こそ農民から刀を奪うことであり、そのための法令が刀狩りというわけですね。

つまり刀狩りを行った最大の目的は一揆の防止であり、そのため兵農分離によって武士と農民を明確に分け、その上で農民から武器となる刀を没収したのです。実際、農民は武装できなくなったことで一揆を起こしづらくなり一揆の発生率は減少、一方で農業の生産率が高まり、刀狩りは豊臣秀吉が思ったとおりの成果を出しました。

刀狩り・一揆の防止以外の目的

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安定した年貢の収入の実現

刀狩りは一揆を防ぐために行われたものですが、目的はそれだけではありません。確かに、刀狩りの最大の目的は一揆の防止ですが、豊臣秀吉は他にも考えがあったのです。まず年貢を安定して確保すること、言い換えれば経済の安定でしょう。

太閤検地を行ったことから分かるとおり、豊臣秀吉は安定した年貢の収入を望んでいました。しかし、安定した年貢の収入を実現するにはそれだけ農業をしっかりと行う必要があり、そのためには常に農業を行える者……つまり農民の存在が欠かせないでしょう。

しかし、農民が戦に参加していては農業への集中もできないため、そのため農民は戦と無縁にして農業に従事できる方が得策と考えました。そこで豊臣秀吉は兵農分離を行って武士と農民を分け、刀狩りによって農民から刀を奪い、農業に従事する者を把握しやすくしたのです

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治安の安定の実現

豊臣秀吉は治安を守る意味でも刀狩りを行いました。これは言うまでもないことで、武器を使用できる状況でトラブルが起これば、それを使って武力による解決をはかろうとするのは目に見えていますし、そうなると大きな事件になってしまうでしょう。

これは現代で例えると分かりやすく、「武器を持った人間同士の争い」「武器を持たない人間同士の争い」、事件に発展しやすいのは当然前者のケースですからね。そこで豊臣秀吉は治安を守るため刀狩りを行い、そのためあわせるように喧嘩停止令も出しています。

刀狩りで没収したのはあくまで刀のみですから、農民の武装が完全に解除されたわけではなく、依然武力行使の行動を起こす可能性はゼロではありませんでした。喧嘩停止令は、そのような残った武器の使用を抑制するために制定されたと一説では考えられています。

刀狩りを行った表向きの理由

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刀を大仏作りの材料にした

実際に出された刀狩りの内容は次のとおりであり、三つの条文が記されています。まず、条文その一は「百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する」です。

次に条文その二は「取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹(かすがい)にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる」になります。そして、条文その三は「百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め」です。

ここで注目すべきなのは条文その二の「取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹(かすがい)にする」の部分ですね。豊臣秀吉は大仏を作るための材料として刀を集めており、実はこれが刀狩りを行った表向きの理由とされているのです。

方広寺鐘名事件の梵鐘は刀狩りの大仏と一緒に作られた

ちなみにまだ先のことになりますが、豊臣秀吉の死後は徳川家康が日本を統一して江戸時代が訪れます。豊臣秀吉は刀狩りで集めた刀を材料にして大仏を作りますが、この時合わせて梵鐘(大きな鐘)を作っており、そこに「君臣豊楽」・「国家安康」の文字を彫りました。

徳川家康はこれを見て「家康」の文字を引き裂いた呪いの文字を意味していると激怒、これが1614年の方広寺鐘名事件であり、大阪の陣が起こるきっかけ、そして豊臣家が滅亡するきっかけにもなったのです。ただ肝心の大仏ですが、もちろんこちらも作ったものの、ただこの大仏は地震が起こったことで壊れてしまいました。

徳川家康は当初こそ豊臣家と協力する姿勢を見せていましたが、この文字を見たことがきっかけで豊臣家を追い込んでいったのです。つまり方広寺鐘名事件の梵鐘は大仏とともに作られたものであり、その大仏の材料を集めるために行われたのが刀狩りということになります。

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刀狩りの影響とまとめ

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刀狩りの影響

兵農分離における刀狩りによって武士と農民は明確に分けられ、その三年後となる1591年には身分統制令が出ます。これによって武士は農民になることはできず、また農民も武士になることができなくなり、より明確に身分が分けられるようになりました

江戸時代の士農工商はこの兵農分離や身分統制令が基盤になっているとされており、刀狩りもまたその考えを受け継いで明治時代に廃刀令が出されています。考えてみれば、現在の銃刀法違反も「武器の所持を禁止する」という意味で刀狩りの考えが活かされていますね。

つまり、刀狩りはその後の日本の歴史に大きな影響を与えており、江戸時代になった後も農民が刀を所持できない方針は変わりませんでした。最も、それで一揆を完全に防げたわけではなく、特に江戸時代の初期には島原の乱と呼ばれる大きな一揆が起こっています。

刀狩りのまとめ

刀狩りについてまとめると、刀狩りは1588年に豊臣秀吉が出した法令です。問題はこの法令……つまり刀狩りを行った理由ですが、それは武士と農民を明確に分けること、農民による一揆を防止すること、大仏を作るための材料にすることで、ただ三つ目の理由は表向きのものになります。

刀狩りを行った成果はしっかりと出て、農民による一揆が減少した上に米の生産量も高くなりました。その意味で刀狩りの政策は成功しており、そのため江戸時代や明治時代においてもその考えが活かされていますし、現代における銃刀法違反も同様と言えるでしょう。

ただ、刀狩りは豊臣秀吉だけが行ったものではありません。日本の歴史ではそれ以前にも刀狩りが行われており、そのため「刀狩り=豊臣秀吉」と安易に考えることはできないでしょう。しかし、刀狩りの代表的な例はやはり豊臣秀吉による1588年の刀狩り令になります。

1588年の刀狩り、意外に盲点なのが「1588年」

刀狩りを勉強する上で意外と盲点になるのが、その法令が出された年です。これは1588年が正解ですが、この年を忘れずに覚えておいてください。なぜなら、刀狩りを行ったのは豊臣秀吉だけではないからです。

刀狩りで有名なのは確かに豊臣秀吉が行った刀狩り令ですが、農民から武器を奪う政策はその前にも後にも行われています。このため、刀狩りの意味を覚えるだけでは、全く違う時代の刀狩りと区別がつかなくなってしまうのです。

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安土桃山時代日本史歴史

その目的とは?豊臣秀吉の「刀狩り」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は刀狩りについて勉強していきます。戦国武将の晴れ舞台は戦ですが、天下統一を果たした豊臣秀吉を覚える上では戦だけに注目していてはならない。

例えば豊臣秀吉は法令も作っており、それが1588年の刀狩りです。そこで、今回は豊臣秀吉をテーマにして戦ではなく刀狩りの法令について、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から刀狩りをわかりやすくまとめた。

刀狩りの歴史

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日本の刀狩りの歴史

刀狩りとは、武士以外の者……つまり、農民や僧侶などに対して武器の所有を放棄させることであり、天下統一を果たした豊臣秀吉が安土桃山時代の1588年に刀狩り令を出して行いました。最も、刀狩り令を出したのは豊臣秀吉ですが、実は過去にも似たような政策が行われています。

例えば1250年、鎌倉幕府の第5代・執権であった北条時瀬は、市中の庶民の帯刀・総員の夜間弓矢の所持を禁止しました。 つまり、刀狩り令を出したのは豊臣秀吉ですが、庶民の武器の所持の放棄・禁止は過去の日本の歴史においても行われているのです

また、豊臣秀吉が行った刀狩りでは文字どおり農民の帯刀を禁止しており、農民が武装を解除されることになりました。しかし、刀以外の武器の所持について禁じられておらず、そのため刀狩りは「武器の所持を禁止する」ではなく「刀の所持を禁止する」が正しい解釈です

豊臣秀吉の刀狩り

では、豊臣秀吉の行った刀狩りについて解説していきましょう。まず「武士・農民」ですが、これらは「戦う職業・戦わない職業」と言い換えることができますね。言うまでもなく戦う職業とは武士であり、そしてそのための武器が刀になります。さて、一見当然のように思えるこの解説ですが、実は間違っているのです

と言うのも、当時農民が刀を持って戦うことは稀ではなく、そのため農民は地侍と呼ばれたほどでした。ですから武士と農民は区別がしにくく、豊臣秀吉はこの区別を明確なものにしようと考えます。そこで行ったのが兵農分離であり、これは文字どおり武士と農民を身分で分ける政治政策で、この兵農分離が刀狩りと深く関わってくるのです。

ちなみに「身分制度=士農工商」のイメージがありますが、士農工商はもっと先……江戸時代における身分制度であり、兵農分離はその基盤となったものだと捉えれば良いでしょう。また、近年では江戸時代で士農工商の制度はなかったともされていますね。では、そもそもなぜ豊臣秀吉は兵農分離を行ったのでしょうか。

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