日本史

81歳まで生きた大長老「蜂須賀家政」豊臣・徳川の狭間で翻弄した武将を歴女が解説

蜂須賀至鎮の死で再び政権を握る

Hachisuka Yoshishige.jpg
By 不明 – 『特別展 水の都徳島再発見 秀吉の町 家康の町 川と人の織りなす歴史・文化』 徳島市立徳島城博物館所蔵, パブリック・ドメイン, Link

令和6年(1620年)、元々病弱であった至鎮が35歳で逝去。至鎮の嫡男、忠英は僅か9歳の幼子でした。そのため、家政は江戸幕府より忠英の後見人を命じられます。一度は隠居生活を送っていた家政でしたが、忠英が成人するまでの間、再び蜂須賀家の実権を握ることになりました。至鎮と言えば、家臣思いの優しい武将だったと言われています。そんな至鎮のエピソードを少しご紹介。

お供をする家臣を待たせるのを嫌い、自分のポケットマネーから「町で遊んで来い」と小遣いを渡していたそうです。また、綿などを染める顔料、藍(あい)の栽培にも力を入れており、農民からは名君と慕われていました。

その後、忠英は10歳で阿波徳島藩の2代藩主となり、元和9年(1623年)に元服。従四位下阿波守を授けられます。 忠英が成人するまでの間、後見人としての役目を果たした家政ですが、その後は第3代将軍、徳川家光の御伽衆として、江戸城にも入城していたそうですよ。そして寛永15年(1639年)81歳と言う大往生でこの世を去った家政。もし、家政が至鎮より早く亡くなっていたら、蜂須賀家の行く末は変わっていたのかもしれませんね。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

至鎮が若くして亡くなったことで、家政の運命もまた変わってしまったんだな。ゆっくりとした余生を送りたかっただろうに。えっ81歳?すまんすまん、家政が亡くなった年齢に驚いて大きい声を出してしまったが。当時、これだけ長生きした武将をあまり見たことがないぞ。忠英成人後は、家光の御伽衆をしたりと、そこそこゆっくりできる時間はあったようだが。俺も長寿のために、たまには息抜きしてストレス発散でもするかな。

81歳の大往生でお家存続に貢献した蜂須賀家政

伊達政宗からは、阿波の古狸と称され「豊臣」「徳川」の間で翻弄した蜂須賀家政。今の時代の言葉に例えるなら言い方は悪いかもしれませんが、優柔不断な武将だったのかもしれません。父の小六は秀吉が出世する前からの家臣で、大名の話も断り秀吉に尽くしたほど。家政も父に従い、幼い頃より秀吉に仕えました。しかし、小六、秀吉が亡くなると石田三成との対立。至鎮が家康の養女と結婚するなど、どちらを選択するかで悩むことになります。

関ヶ原の戦いでは上手に切り抜け、両立の立場を取ったことで蜂須賀家は安泰。しかし、大坂の陣では豊臣側からの誘いにまたしても、選択を余儀なくされますが、至鎮の説得を受け「自分は無二の関東方」と家康に味方することを決意します。家政にしてみれば、徳川に付くことは、恩を仇で返すような気持ちだったのかもしれませんね。

そう考えると「義」を重んじる勇将だったとも言えます。敦盛(あつもり)にもあるように「人間50年」と言われた時代に、81歳まで生きた家政。ある意味こんな大往生の人生は珍しいことでしょう。至鎮が早くに亡くなり、忠英の後見人を任されたことで、蜂須賀家存続のために奮起したのかもしれませんね。父の陰に隠れ、あまり知名度は高くありませんが、小六から引き継いだ蜂須賀家を存続させたのは、家政の力であったことに間違いありません

1 2 3
Share: