日本史

81歳まで生きた大長老「蜂須賀家政」豊臣・徳川の狭間で翻弄した武将を歴女が解説

関ヶ原の戦いでは、両立の立場をとる

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小六の代から秀吉の家臣として仕えていた蜂須賀家ですが、秀吉が逝去したことにより、進退も変わってきていました。家政の嫡男、蜂須賀 至鎮(はちすか よししげ)は徳川家康の養女である敬台院(きょうだいいん/小笠原秀政の娘)と結婚。秀吉の遺言である、(勝手に大名同士の縁組をしてはいけない)と言う掟に背き、行われた縁組だったのです。慶長5年(1600年)、豊臣政権vs徳川幕府・関ヶ原の合戦が始まろうとしていました。小六は豊臣恩顧の家臣でもあり、家政も父と一緒に秀吉に仕えていました。しかし、対立する石田三成がいる西軍に付くのは納得いかない。しかし、徳川とは親戚関係であるため裏切る事も出来ない…

家政は豊臣側に付くか、徳川方に付くかで悩みます。その頃、至鎮は家康の会津征伐に初陣として参加。後に、石田三成が挙兵した事で会津征伐は中止。もちろん、至鎮は東軍として関ヶ原の戦いに参戦します。豊臣側から、西軍につくようにとの要請があった家政は、病気を理由に大坂城に残り、阿波の領地を返上。大谷吉継の指揮下に入り加賀への出向を命じられた家政の軍2千は、摂津から京に向かう途中、西軍敗退の知らせを聞き至鎮軍と合流。家政は、軍に参加せず剃髪し蓬庵と号して、高野山に出家。東軍勝利で終結した関ヶ原の戦いですが、蜂須賀家は東軍に味方したと判断され処罰は免れます。家康から所領を安堵され、家政は家督を至鎮に継承し隠居しました。

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文禄・慶長の役は大した成果もなく終わってしまい、家臣たちの疲労もピークだったようだな。結局、これが石田三成率いる文治派、加藤清正らの武断派の争いにも発展していくわけだ。家政も慶長の役での恨みから武断派に属しており、石田三成を襲撃した、七将襲撃事件にも関与していたと言われている。関ヶ原の戦いでの家政は、どっちつかずの選択だったが、このような家政の行動に、伊達政宗から「阿波の古狸」と呼ばれていたらしいぞ。

大阪の陣では徳川方に味方し蜂須賀家は安泰

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関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、着々と力をつけ、慶長8年(1603年)には征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開きます。1605年に息子秀忠に征夷大将軍の座を譲りました。豊臣側は、秀吉と淀殿の息子、秀頼を関白に就任させたいところではありましたが、秀頼が成人するまでには10年もあったのです。
※関白とは天皇を補佐する役目であるため、幼子ではなることが認められない
家康側としても、秀頼が成人するまでの間に天下を取ろうと言う欲望があったと思われます。慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件が発生。
※ 方広寺鐘銘事件とは、豊臣秀頼によって京都の方広寺が復興。この時鐘に「 国家安康」「君臣豊楽」の文字が刻まれたことに対し、国家安康とは家康の文字を二つに引き離し、豊臣を讃えているとクレームをつける

徳川サイドから豊臣側に出した要望を淀殿が却下したことで、同年11月、豊臣政権vs徳川幕府による大坂冬の陣は勃発します。家政は秀頼からの誘いを受け、豊臣側に味方しようと考えますが、至鎮から説得され徳川に付くことを決意。「自分は無二の関東方」と称し、家康に豊臣から送られた密書を提出します。結果、徳川幕府の勝利。武功を挙げた至鎮の活躍もあり、蜂須賀家は戦後、淡路国25万7千石を与えられました。

復帰を果たした蜂須賀家政

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By 不明 – 徳島県立徳島城博物館所蔵, パブリック・ドメイン, Link

元和6年(1620年)、至鎮が35歳の若さで亡くなります。至鎮の嫡男、蜂須賀忠英( はちすかただてる)が10歳で家督を継承しますが、幼子だったことから、江戸幕府により忠英の後見人として家政が復帰するように命じられました。一度は隠居していた身でありましたが、60歳を過ぎ、再び蜂須賀家の実権を握ることになります。人間50年と言われた時代に蜂須賀家を任された家政も、ゆっくりと余生をすごしたかったことでしょうね。

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