

ここからは盆踊りが得意?なライター、すのうと一緒に学習していこう。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。
ライター/すのう
大河ドラマにはまり、特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。蜂須賀家政は温厚で心優しい武将だったと言われる。見た目より性格重視のライターすのうが解説していく。
蜂須賀小六の嫡男として誕生
By 不明 – 『特別展 水の都徳島再発見 秀吉の町 家康の町 川と人の織りなす歴史・文化』 個人蔵, パブリック・ドメイン, Link
蜂須賀家政は、永禄元年(1558年)蜂須賀正勝(蜂須賀小六)の嫡男として、尾張国丹羽郡宮後村(現在の愛知県江南市)の宮後城(みやうしろじょう)に誕生。別名、蜂須賀屋敷とも呼ばれています。父である小六は、豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎を名乗っていた時代からの古参の家臣。家政も幼い頃より秀吉に仕えます。母親のまつ(大匠院/だいしょういん)は、宮後村八幡社の神官の家系に生まれ、伊勢国第8代当主・北畠具教(きたばたけとものり)の側室でしたが、離縁した後に小六と結婚。その後、家政が生まれました。妹に黒田長政の元妻であった糸姫がいます。正室は慈光院(じこういん/織田信長の側室・生駒吉乃の姪)
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豊臣秀吉家臣として、小六と色々な戦に参戦
By 不詳 – 東京大学史料編纂所データベース, パブリック・ドメイン, Link
父の小六と秀吉に従軍していた家政は、秀吉家臣として数多くの戦に参戦。元亀元年(1570年)、13歳の時に織田・徳川連合軍vs浅井・朝倉連合軍が戦った姉川の合戦で初陣を果たします。その後は、毛利の中国攻め、明智光秀を討った山崎の戦いなど次々と参戦。特に中国攻めでは、黄母衣衆として参加。
※黄母衣衆(きぼろしゅう)は、豊臣秀吉が馬廻から選抜した武者で、武者揃えの際に名誉となる黄色の母衣指物の着用を許された者。
小六と長水城を攻撃、城主の宇野重清を討ち取り、その武功を認められた家政には、月毛の名馬が送られます。
※ 月毛の名馬とは、クリーム色から淡い黄白色の被毛を持つ馬のこと。(上杉謙信の愛馬も月毛の名馬と言われた)
天正11年(1583年)羽柴秀吉vs柴田勝家による賤ヶ岳の戦いで活躍した家政は、翌年播磨佐用郡(現在の兵庫県)に3千石の所領を与えられました。この後、はっきりとした時期は不明ですが、小六より家督を継承したと思われます。
阿波国18万石の大名になる

秀吉が天下統一までに戦った多くの戦に従軍し、着々と力を付けていた蜂須賀家。天正13年(1585年)、四国征伐での活躍により、秀吉は小六に阿波18万石を与えようとしますが、小六は秀吉の側近としての道を選択し、所領を拒否。そのため、18万石は息子である家政に与えられました。従五位下・阿波守という官位も授かり、29歳で大名へと出世した家政は、一宮城(現在の徳島県)に入城します。同年、徳島城建築に取りかかり翌年に完成。
この時、築城祝いの席で家政は、築城に携わった家臣たちに酒を盛り「好きに踊れ」とお触れを出したことが、徳島の有名な「阿波踊り」発祥の由来になったとも言われています。天正15年(1587年)九州征伐の緒戦である、耳川の戦いで、島津勢の家臣である山田有信が籠城する高城(現在の宮崎県)攻めに貢献。天正18年(1590年)小田原征伐では、北条氏規が籠城する韮山城(現在の静岡県)を福島正則と共に先鋒を務め、開城させるなどの武功を挙げました。

小六が拒否したことで、家政は大名になれたのか。少し寂しい成り行きだが、大名に出世できたことは凄いことだぞ。しかし、小六は欲のないやつだよな。どれだけ秀吉大好きなんだか(笑)阿波踊りも今ではバッチリと振り付けされているが、好きに踊った家臣の振りは少しでも残っているのか気になるよな。
文禄・慶長の役で活躍するも謹慎処分となる
豊臣秀吉が行った文禄・慶長の役(朝鮮出兵)は、文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)に休戦を交え行われ、秀吉が死去したことで日本軍が撤退し終結。家政も二度に渡り7200人の兵を率いて渡航。文禄の役では、五番隊の主力を務めます。1598年の蔚山城の戦い(うるさんじょうのたたかい)では、明・朝鮮軍5万7千の兵から攻撃され10日間城を攻守し、籠城していた浅野幸長を救出する手柄を挙げました。
※ 蔚山城とは、朝鮮南部に位置する城で加藤清正が主として築いた城。日本軍はその地を守ることを目標としていた。
ところが、蔚山城の戦いに参戦していた家政は、撤退する明・朝鮮軍を追撃するも、戦闘していないと石田三成の部下によって秀吉に報告されてしまいます。家政は蔚山城の戦いが激戦であったことを理由に、秀吉に戦線の縮小を訴えました。この二つのことが秀吉の怒りに触れてしまい、帰国命令が出ます。阿波に戻った家政は謹慎処分となり、これが後に起こる石田三成七将襲撃事件に発展していくこととなるのです。
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