日本史

81歳まで生きた大長老「蜂須賀家政」豊臣・徳川の狭間で翻弄した武将を歴女が解説

よぉ、桜木建二だ。今回は豊臣秀吉恩顧の家臣と言われた蜂須賀小六の息子、蜂須賀家政を紹介するぞ。父親の名前は知っているが、息子の名前は初めて耳にした…なんて声が聞こえてきそうだな。あまり知名度はないかもしれないが、家政は徳島の有名な「阿波踊り」発祥の人物とも言われているぞ。俺もダンスは苦手だが、阿波踊りなら見よう見まねで出来るかもしれないな。

ここからは盆踊りが得意?なライター、すのうと一緒に学習していこう。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/すのう

大河ドラマにはまり、特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。蜂須賀家政は温厚で心優しい武将だったと言われる。見た目より性格重視のライターすのうが解説していく。

蜂須賀小六の嫡男として誕生

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By 不明 – 『特別展 水の都徳島再発見 秀吉の町 家康の町 川と人の織りなす歴史・文化』 個人蔵, パブリック・ドメイン, Link

蜂須賀家政は、永禄元年(1558年)蜂須賀正勝(蜂須賀小六)の嫡男として、尾張国丹羽郡宮後村(現在の愛知県江南市)の宮後城(みやうしろじょう)に誕生。別名、蜂須賀屋敷とも呼ばれています。父である小六は、豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎を名乗っていた時代からの古参の家臣。家政も幼い頃より秀吉に仕えます。母親のまつ(大匠院/だいしょういん)は、宮後村八幡社の神官の家系に生まれ、伊勢国第8代当主・北畠具教(きたばたけとものり)の側室でしたが、離縁した後に小六と結婚。その後、家政が生まれました。妹に黒田長政の元妻であった糸姫がいます。正室は慈光院(じこういん/織田信長の側室・生駒吉乃の姪)

豊臣秀吉家臣として、小六と色々な戦に参戦

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By 不詳 – 東京大学史料編纂所データベース, パブリック・ドメイン, Link

父の小六と秀吉に従軍していた家政は、秀吉家臣として数多くの戦に参戦。元亀元年(1570年)、13歳の時に織田・徳川連合軍vs浅井・朝倉連合軍が戦った姉川の合戦で初陣を果たします。その後は、毛利の中国攻め、明智光秀を討った山崎の戦いなど次々と参戦。特に中国攻めでは、黄母衣衆として参加。
※黄母衣衆(きぼろしゅう)は、豊臣秀吉が馬廻から選抜した武者で、武者揃えの際に名誉となる黄色の母衣指物の着用を許された者。
小六と長水城を攻撃、城主の宇野重清を討ち取り、その武功を認められた家政には、月毛の名馬が送られます。
※ 月毛の名馬とは、クリーム色から淡い黄白色の被毛を持つ馬のこと。(上杉謙信の愛馬も月毛の名馬と言われた)

天正11年(1583年)羽柴秀吉vs柴田勝家による賤ヶ岳の戦いで活躍した家政は、翌年播磨佐用郡(現在の兵庫県)に3千石の所領を与えられました。この後、はっきりとした時期は不明ですが、小六より家督を継承したと思われます。

阿波国18万石の大名になる

image by PIXTA / 43466398

秀吉が天下統一までに戦った多くの戦に従軍し、着々と力を付けていた蜂須賀家。天正13年(1585年)、四国征伐での活躍により、秀吉は小六に阿波18万石を与えようとしますが、小六は秀吉の側近としての道を選択し、所領を拒否。そのため、18万石は息子である家政に与えられました。従五位下・阿波守という官位も授かり、29歳で大名へと出世した家政は、一宮城(現在の徳島県)に入城します。同年、徳島城建築に取りかかり翌年に完成。

この時、築城祝いの席で家政は、築城に携わった家臣たちに酒を盛り「好きに踊れ」とお触れを出したことが、徳島の有名な「阿波踊り」発祥の由来になったとも言われています。天正15年(1587年)九州征伐の緒戦である、耳川の戦いで、島津勢の家臣である山田有信が籠城する高城(現在の宮崎県)攻めに貢献。天正18年(1590年)小田原征伐では、北条氏規が籠城する韮山城(現在の静岡県)を福島正則と共に先鋒を務め、開城させるなどの武功を挙げました。

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小六が拒否したことで、家政は大名になれたのか。少し寂しい成り行きだが、大名に出世できたことは凄いことだぞ。しかし、小六は欲のないやつだよな。どれだけ秀吉大好きなんだか(笑)阿波踊りも今ではバッチリと振り付けされているが、好きに踊った家臣の振りは少しでも残っているのか気になるよな。

文禄・慶長の役で活躍するも謹慎処分となる

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By 不明宇治主水, パブリック・ドメイン, Link

豊臣秀吉が行った文禄・慶長の役(朝鮮出兵)は、文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)に休戦を交え行われ、秀吉が死去したことで日本軍が撤退し終結。家政も二度に渡り7200人の兵を率いて渡航。文禄の役では、五番隊の主力を務めます。1598年の蔚山城の戦い(うるさんじょうのたたかい)では、明・朝鮮軍5万7千の兵から攻撃され10日間城を攻守し、籠城していた浅野幸長を救出する手柄を挙げました。
※ 蔚山城とは、朝鮮南部に位置する城で加藤清正が主として築いた城。日本軍はその地を守ることを目標としていた。

ところが、蔚山城の戦いに参戦していた家政は、撤退する明・朝鮮軍を追撃するも、戦闘していないと石田三成の部下によって秀吉に報告されてしまいます。家政は蔚山城の戦いが激戦であったことを理由に、秀吉に戦線の縮小を訴えました。この二つのことが秀吉の怒りに触れてしまい、帰国命令が出ます。阿波に戻った家政は謹慎処分となり、これが後に起こる石田三成七将襲撃事件に発展していくこととなるのです。

関ヶ原の戦いでは、両立の立場をとる

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小六の代から秀吉の家臣として仕えていた蜂須賀家ですが、秀吉が逝去したことにより、進退も変わってきていました。家政の嫡男、蜂須賀 至鎮(はちすか よししげ)は徳川家康の養女である敬台院(きょうだいいん/小笠原秀政の娘)と結婚。秀吉の遺言である、(勝手に大名同士の縁組をしてはいけない)と言う掟に背き、行われた縁組だったのです。慶長5年(1600年)、豊臣政権vs徳川幕府・関ヶ原の合戦が始まろうとしていました。小六は豊臣恩顧の家臣でもあり、家政も父と一緒に秀吉に仕えていました。しかし、対立する石田三成がいる西軍に付くのは納得いかない。しかし、徳川とは親戚関係であるため裏切る事も出来ない…

家政は豊臣側に付くか、徳川方に付くかで悩みます。その頃、至鎮は家康の会津征伐に初陣として参加。後に、石田三成が挙兵した事で会津征伐は中止。もちろん、至鎮は東軍として関ヶ原の戦いに参戦します。豊臣側から、西軍につくようにとの要請があった家政は、病気を理由に大坂城に残り、阿波の領地を返上。大谷吉継の指揮下に入り加賀への出向を命じられた家政の軍2千は、摂津から京に向かう途中、西軍敗退の知らせを聞き至鎮軍と合流。家政は、軍に参加せず剃髪し蓬庵と号して、高野山に出家。東軍勝利で終結した関ヶ原の戦いですが、蜂須賀家は東軍に味方したと判断され処罰は免れます。家康から所領を安堵され、家政は家督を至鎮に継承し隠居しました。

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文禄・慶長の役は大した成果もなく終わってしまい、家臣たちの疲労もピークだったようだな。結局、これが石田三成率いる文治派、加藤清正らの武断派の争いにも発展していくわけだ。家政も慶長の役での恨みから武断派に属しており、石田三成を襲撃した、七将襲撃事件にも関与していたと言われている。関ヶ原の戦いでの家政は、どっちつかずの選択だったが、このような家政の行動に、伊達政宗から「阿波の古狸」と呼ばれていたらしいぞ。

大阪の陣では徳川方に味方し蜂須賀家は安泰

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関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、着々と力をつけ、慶長8年(1603年)には征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開きます。1605年に息子秀忠に征夷大将軍の座を譲りました。豊臣側は、秀吉と淀殿の息子、秀頼を関白に就任させたいところではありましたが、秀頼が成人するまでには10年もあったのです。
※関白とは天皇を補佐する役目であるため、幼子ではなることが認められない
家康側としても、秀頼が成人するまでの間に天下を取ろうと言う欲望があったと思われます。慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件が発生。
※ 方広寺鐘銘事件とは、豊臣秀頼によって京都の方広寺が復興。この時鐘に「 国家安康」「君臣豊楽」の文字が刻まれたことに対し、国家安康とは家康の文字を二つに引き離し、豊臣を讃えているとクレームをつける

徳川サイドから豊臣側に出した要望を淀殿が却下したことで、同年11月、豊臣政権vs徳川幕府による大坂冬の陣は勃発します。家政は秀頼からの誘いを受け、豊臣側に味方しようと考えますが、至鎮から説得され徳川に付くことを決意。「自分は無二の関東方」と称し、家康に豊臣から送られた密書を提出します。結果、徳川幕府の勝利。武功を挙げた至鎮の活躍もあり、蜂須賀家は戦後、淡路国25万7千石を与えられました。

復帰を果たした蜂須賀家政

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By 不明 – 徳島県立徳島城博物館所蔵, パブリック・ドメイン, Link

元和6年(1620年)、至鎮が35歳の若さで亡くなります。至鎮の嫡男、蜂須賀忠英( はちすかただてる)が10歳で家督を継承しますが、幼子だったことから、江戸幕府により忠英の後見人として家政が復帰するように命じられました。一度は隠居していた身でありましたが、60歳を過ぎ、再び蜂須賀家の実権を握ることになります。人間50年と言われた時代に蜂須賀家を任された家政も、ゆっくりと余生をすごしたかったことでしょうね。

蜂須賀至鎮の死で再び政権を握る

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By 不明 – 『特別展 水の都徳島再発見 秀吉の町 家康の町 川と人の織りなす歴史・文化』 徳島市立徳島城博物館所蔵, パブリック・ドメイン, Link

令和6年(1620年)、元々病弱であった至鎮が35歳で逝去。至鎮の嫡男、忠英は僅か9歳の幼子でした。そのため、家政は江戸幕府より忠英の後見人を命じられます。一度は隠居生活を送っていた家政でしたが、忠英が成人するまでの間、再び蜂須賀家の実権を握ることになりました。至鎮と言えば、家臣思いの優しい武将だったと言われています。そんな至鎮のエピソードを少しご紹介。

お供をする家臣を待たせるのを嫌い、自分のポケットマネーから「町で遊んで来い」と小遣いを渡していたそうです。また、綿などを染める顔料、藍(あい)の栽培にも力を入れており、農民からは名君と慕われていました。

その後、忠英は10歳で阿波徳島藩の2代藩主となり、元和9年(1623年)に元服。従四位下阿波守を授けられます。 忠英が成人するまでの間、後見人としての役目を果たした家政ですが、その後は第3代将軍、徳川家光の御伽衆として、江戸城にも入城していたそうですよ。そして寛永15年(1639年)81歳と言う大往生でこの世を去った家政。もし、家政が至鎮より早く亡くなっていたら、蜂須賀家の行く末は変わっていたのかもしれませんね。

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至鎮が若くして亡くなったことで、家政の運命もまた変わってしまったんだな。ゆっくりとした余生を送りたかっただろうに。えっ81歳?すまんすまん、家政が亡くなった年齢に驚いて大きい声を出してしまったが。当時、これだけ長生きした武将をあまり見たことがないぞ。忠英成人後は、家光の御伽衆をしたりと、そこそこゆっくりできる時間はあったようだが。俺も長寿のために、たまには息抜きしてストレス発散でもするかな。

81歳の大往生でお家存続に貢献した蜂須賀家政

伊達政宗からは、阿波の古狸と称され「豊臣」「徳川」の間で翻弄した蜂須賀家政。今の時代の言葉に例えるなら言い方は悪いかもしれませんが、優柔不断な武将だったのかもしれません。父の小六は秀吉が出世する前からの家臣で、大名の話も断り秀吉に尽くしたほど。家政も父に従い、幼い頃より秀吉に仕えました。しかし、小六、秀吉が亡くなると石田三成との対立。至鎮が家康の養女と結婚するなど、どちらを選択するかで悩むことになります。

関ヶ原の戦いでは上手に切り抜け、両立の立場を取ったことで蜂須賀家は安泰。しかし、大坂の陣では豊臣側からの誘いにまたしても、選択を余儀なくされますが、至鎮の説得を受け「自分は無二の関東方」と家康に味方することを決意します。家政にしてみれば、徳川に付くことは、恩を仇で返すような気持ちだったのかもしれませんね。

そう考えると「義」を重んじる勇将だったとも言えます。敦盛(あつもり)にもあるように「人間50年」と言われた時代に、81歳まで生きた家政。ある意味こんな大往生の人生は珍しいことでしょう。至鎮が早くに亡くなり、忠英の後見人を任されたことで、蜂須賀家存続のために奮起したのかもしれませんね。父の陰に隠れ、あまり知名度は高くありませんが、小六から引き継いだ蜂須賀家を存続させたのは、家政の力であったことに間違いありません

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