名言集を調べるとよく登場する人物が「ベンジャミン・フランクリン」。規律正しい生活を推奨したことでも知られる人物です。彼は、実業家、発明家、政治家、科学者など、いろいろな顔をもった人物。アメリカ独立宣言の草稿作成にもかかわった。

それじゃ、「ベンジャミン・フランクリン」の多岐にたるキャリアや功績を世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。アメリカ文化を見ていくとき「ベンジャミン・フランクリン」を避けて通ることはできない。「ベンジャミン・フランクリン」はアメリカ独立宣言の草稿作成にかかわった人物。彼の多彩なキャリアと功績について解説していく。

「ベンジャミン・フランクリン」は1706年にボストンで生まれる

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1706年にボストンで生まれたベンジャミン・フランクリン。父親のジョサイアは2度の結婚をしており、合計17人の子供をもうけます。ベンジャミン・フランクリンは15番目の子供でした。このような大家族だったからこそ、自分の力で身をたてる彼の自立性が生まれたと言えます。

12歳で印刷業界に入り身をたてる

10才で小学校を卒業したフランクリンは、家を出て自立した生活をするために12才で印刷業に就職。印刷業を営む兄の弟子になるという形でした。頭がよく文才に秀でていたフランクリンはすぐに記者・編集者として力を発揮するようになります。

その後、兄とケンカ別れをしたフランクリンは、いくつかの職を転々としたのち、植民地の人気雑誌である「ペンシルベニア・ガゼット」を買収。アメリカではじめてタブロイド誌を発行します。印刷業は大きな成功をおさめ、彼の知名度がペンシルベニアで高まるきっかけとなりました。

アメリカではじめて公共図書館を成功させた

さらにベンジャミン・フランクリンは、印刷物を自由に読める場として、アメリカではじめて公共図書館を設立します。この試みは大成功。他の都市部でも、同じような公共図書館が作られるようになりました。

彼の功績のひとつなるのが「公共」の場を作り出したこと。本を読むことが好きだったベンジャミン・フランクリンは、活字を流通させることにより、植民者の政治・経済活動を活発にしようと考えたと言われています。

若き日の「ベンジャミン・フランクリン」はアメリカン・ドリームの体現者

Franklin the printer.jpg
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くわえてベンジャミン・フランクリンは、地道にコツコツ努力することで必ず社会的・経済的に成功できると信じる「アメリカン・ドリーム」の体現者として位置づけられました。とくに彼の『自伝』は立身出世のマニュアル本として広く読まれるようになります。

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勤勉さと地道な努力が成功の道すじをつくる

ベンジャミン・フランクリンの幼少期は決して裕福とは言えず、教育を受けたのも小学校まで。彼自身も大家族のなかで、小さいころから自立することを強く意識して育ちました。12才で入った印刷業界では下っ端の見習い印刷工として、地道に技術を磨いていきます。

植民地時代のアメリカは、イギリスの支配下にあり、植民者の境遇も恵まれたものではありませんでした。アメリカが国家として成長していく過程で、ベンジャミン・フランクリンの立身出世は「理想的なアメリカ人」として典型化されていきます。

「13の徳目」をまとめて日々の習慣とする

Pedro Américo - Voltaire abençoando o neto de Franklin em nome de Deus e da Liberdade.jpg
By Pedro Américo - Flickr., Public Domain, Link

『自伝』にてフランクリンは、職を転々とするなかでも必ず自分の成長につながることを発見。時間を無駄にせず有意義に活用する生き方は、彼を有名にした「13の徳目」のなかにもしっかりと反映されていきます。

彼は、自分が仕事や生活のなかで学んだことを「13の徳目」としてリストアップ。毎週1つの徳目をピックアップし、一週間それを実行することに専念するようになります。それを1年に4回繰り返して「13の徳目」を習慣化することを課題にしました。

13の徳目の概要

【節制】食べ過ぎ、飲み過ぎを慎む
【沈黙】自分や他人の利益にならない無駄口は慎む
【規律】整理整頓、スケジュール管理をしっかりする
【決断】いちどやると決めたことは必ず実行する
【節約】意味もなくお金を浪費しない
【勤勉】時間を有意義に活用する
【誠実】人をだますことなく、公正な立場にたつ
【正義】他人に不利益を与えない
【中庸】バランス感覚を大切にし、怒ることを慎む
【平静】ささいなことに心を乱さない
【純潔】性交は子作りのためにのみ行う
【謙遜】イエスとソクラテスを見習う

ペンシルベニア植民地のために働いた「ベンジャミン・フランクリン」

Benjamin Franklin statue in front of College Hall.JPG
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ベンジャミン・フランクリンは印刷業を営む事業家として成功します。しかし繁盛していた印刷業をたたむことを決断。ペンシルベニア植民地の公職に専念するようになります。

ペンシルベニア大学の前身となるカレッジを創設

ベンジャミン・フランクリンが創設したのがフィラデルフィア・アカデミー・アンド・カレッジ。現在のペンシルベニア大学の前身となる教育研究機関です。このとき創立に尽力した人には、 独立宣言の9人の署名者および合衆国憲法の11人の署名者が含まれていました。

このカレッジは、他の大学と大きく異なる点が。それが実学教育に力を入れたことです。通常の古典と神学だけではなく、商業や公務に必要とされる実学教育がカリキュラムにもりこまれました。まさにフランクリンのキャリアを反映させた教育が展開されたと言えます。

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ペンシルベニアの代理人としてイギリスに駐在

さらにベンジャミン・フランクリンはペンシルベニア植民地の議員としても活躍。フレンチ・インディアン戦争が起こったときは、イギリス軍に軍需品を提供するために尽力。さらにバラバラであった13の植民地をまとめるために奔走しました。

イギリスの支配下にあった北米13植民地。それらの待遇を改善するためにペンシルベニア植民地の代表としてイギリスにも駐在しました。植民地の連合とイギリスとの交渉の中軸として、アメリカ独立の流れを作ることに貢献します。

アメリカ独立宣言の起草者のひとりに抜擢

Independence Hall Assembly Room.jpg
By Rdsmith4 - Own work, CC BY-SA 2.5, Link

アメリカの偉人としてのベンジャミン・フランクリンのポジションを決定づけたのがアメリカ独立宣言。13植民地の地位向上を目指して奔走していたフランクリンは、独立宣言の草稿をつくる過程にも中心人物のひとりとして関与します。

13植民地のイギリスからの独立を宣言

北米13植民地はそれぞれ独自の発展を遂げていました。それがベンジャミン・フランクリンの努力もあり通信連絡委員会が発足、本国との交渉が本格化します。交渉は難航するものの、独立宣言の草稿案をつくる準備が進められました。

その内容は「全ての人間は平等に造られている」ということ。さらに、「生命、自由、幸福を追求する」権利があることを宣言するものでした。独立宣言の内容は、その後の政治・経済の思想に大きな影響を与え続けることになります。

われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づい て正当な権力を得る。
~略~
従ってわれわれアメリカ連合諸邦の代表は、大陸会議に参集し、われわれの意図が公正であることを、世界の最高の審判者に対して訴え、これらの植民地の善良な人民の名において、そしてその権威において、以下のことを厳粛に公表し宣言する。すなわち―これらの連合した植民地は自由な独立した国家であり、そうあるべき当然の権利を有する。

引用:American Center Japan「米国の歴史と民主主義の基本文書」

のちの大統領となるジョン・アダムズやトーマス・ジェファーソンらと共に署名

Declaration of Independence (1819), by John Trumbull.jpg
By John Trumbull - US Capitol, Public Domain, Link

独立宣言起草委員会のメンバーは、トーマス・ジェファーソン、ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリン、ロジャー・シャーマン、ロバート・R・リビングストンの5人。独立宣言は1776年7月に大陸会議にて採択されました。

署名者のひとりであるジョン・アダムズは2代目の大統領。マサチューセッツ湾植民地の議員でした。トーマス・ジェファーソンは、バージニア植民地の議員でしたが、その後、アメリカ第3代大統領になります。

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科学者・発明家としての才能を発揮した「ベンジャミン・フランクリン」

image by PIXTA / 44936336

「アメリカ建国の父」として、実業家・政治家のシンボル的存在となったベンジャミン・フランクリン。実は科学者・発明家として多彩な才能を発揮したことでも知られています。とくに気象・電気の分野の研究を熱心に進めました。

命懸けの実験により雷の電気のメカニズムを解明

ベンジャミン・フランクリンが命懸けで行ったとされる実験が雷に関わるもの。雷がとどろく日にライデン瓶を接続した凧をあげて、雷雲の帯電を証明するというものでした。この実験により、雷の電気のなかにプラスとマイナスがあることが分かったそうです。

この実験の成果は高く評価され、フランクリンはロンドン王立協会の会員になりました。ただ、この実験を行ったところ雷に感電して命を落とした人が。そのため現在は、真似をする人がでないようにほとんど紹介されません。

「フランクリン・ストーブ」は特許を取得せずに社会に還元

もうひとつのベンジャミン・フランクリンの偉大な発明品となるがストーブ。それまでのストーブは熱伝導率が良いとはいえず、あたたまるまでにかなりの時間を要しました。フランクリンは熱伝導率を改善することで、さらに性能がいいストーブを開発します。

このストーブはアメリカの企業が注目し、どんどん商品化していきました。アメリカの家庭に浸透し「フランクリン・ストーブ」として愛されるように。フランクリンはあえて特許を取得せず、発明を社会に無償で還元する道を選びました。

スーパー公務員「ベンジャミン・フランクリン」の教えや生き方は現代にも活かされる

ベンジャミン・フランクリンは今の100ドル紙幣の顔。アメリカ国民に愛されている存在です。それは彼が単なる政治家・実業家ではなく、道徳的な面でも大きな影響を与えているからでしょう。ベンジャミン・フランクリンの『自伝』は、彼の成功哲学のエッセンスが詰まっており、ビジネス書などで引用されることも多々あります。フランクリンは過去の歴史上の人物にとどまらず、現代の私たちの生き方や仕事の仕方に数多くのヒントを与えてくれる存在。だからこそ、リアルタイムで彼の教えや生き方が活かさされているんですね。『自伝』は日本語に翻訳されており、文章も難しくないので、ぜひ、手に取ってみることをおすすめします。

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アメリカ独立の父「ベンジャミン・フランクリン」のスーパー公務員的生き方を元大学教員がわかりやすく解説

名言集を調べるとよく登場する人物が「ベンジャミン・フランクリン」。規律正しい生活を推奨したことでも知られる人物です。彼は、実業家、発明家、政治家、科学者など、いろいろな顔をもった人物。アメリカ独立宣言の草稿作成にもかかわった。

それじゃ、「ベンジャミン・フランクリン」の多岐にたるキャリアや功績を世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。アメリカ文化を見ていくとき「ベンジャミン・フランクリン」を避けて通ることはできない。「ベンジャミン・フランクリン」はアメリカ独立宣言の草稿作成にかかわった人物。彼の多彩なキャリアと功績について解説していく。

「ベンジャミン・フランクリン」は1706年にボストンで生まれる

image by PIXTA / 49512410

1706年にボストンで生まれたベンジャミン・フランクリン。父親のジョサイアは2度の結婚をしており、合計17人の子供をもうけます。ベンジャミン・フランクリンは15番目の子供でした。このような大家族だったからこそ、自分の力で身をたてる彼の自立性が生まれたと言えます。

12歳で印刷業界に入り身をたてる

10才で小学校を卒業したフランクリンは、家を出て自立した生活をするために12才で印刷業に就職。印刷業を営む兄の弟子になるという形でした。頭がよく文才に秀でていたフランクリンはすぐに記者・編集者として力を発揮するようになります。

その後、兄とケンカ別れをしたフランクリンは、いくつかの職を転々としたのち、植民地の人気雑誌である「ペンシルベニア・ガゼット」を買収。アメリカではじめてタブロイド誌を発行します。印刷業は大きな成功をおさめ、彼の知名度がペンシルベニアで高まるきっかけとなりました。

アメリカではじめて公共図書館を成功させた

さらにベンジャミン・フランクリンは、印刷物を自由に読める場として、アメリカではじめて公共図書館を設立します。この試みは大成功。他の都市部でも、同じような公共図書館が作られるようになりました。

彼の功績のひとつなるのが「公共」の場を作り出したこと。本を読むことが好きだったベンジャミン・フランクリンは、活字を流通させることにより、植民者の政治・経済活動を活発にしようと考えたと言われています。

若き日の「ベンジャミン・フランクリン」はアメリカン・ドリームの体現者

Franklin the printer.jpg
By Charles E. Mills – This image is available from the United States Library of Congress‘s Prints and Photographs division under the digital ID cph.3g07217. This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., Public Domain, Link

くわえてベンジャミン・フランクリンは、地道にコツコツ努力することで必ず社会的・経済的に成功できると信じる「アメリカン・ドリーム」の体現者として位置づけられました。とくに彼の『自伝』は立身出世のマニュアル本として広く読まれるようになります。

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