1917年に帝政ロシアで起こったのがロシア革命。社会主義が樹立したきっかけとしても知られている。ロシア革命は、政治、経済、そして芸術の分野に大きな影響を与えた。その影響はロシア内だけではなく日本を含めた世界各国におよぶ。

それじゃ、世界史に詳しいライターひこすけと一緒にロシア革命が世界にあたえた影響を解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。芸術史を見ていくとき、避けて通ることができないのが「ロシア革命」。政治経済はもちろんのこと芸術の概念を大きく変えた芸術の革命でもある。そこで、「ロシア革命」がどのような変革をもたらしたのか、いろいろな視点から解説していく。

1917年に帝政ロシアで起こった「ロシア革命」

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ロシア革命とはロマノフ王朝の排斥と社会主義国家樹立をもたらした革命のことを指します。その年代は1917年。しかし、その先駆けとなる「血の日曜日事件」を含むとする考え方も。その場合、1905年からその運動が起こっているという解釈になります。

二つの段階を経て革命が進む

ロシア革命は、1917年に起こった主に二つの事件を経て達成されます。ひとつは二月革命。国際婦人デーに食用配給の改善を訴えるデモが起こります。警官隊の鎮圧により多数の死者が出ました。これに反発した兵士の一部が暴徒化し、一般民衆を巻き込んで反乱を起こします。

もうひとつが十月革命。労働者や兵士らが武装蜂起したことで拡大しました。十月革命の特徴は中心的な革命家が存在したこと。革命家は理論的にも武装しており、ロシア革命をアカデミックに意味づけする役割も果たしました。

社会主義国家の樹立につながった革命

資本主義は、自由な競争を通じて各自が利益を追求。それが結果として国家の成長につながると言う考えです。ただ資本主義は、成功者とそうではない者が出てくるため、貧富の格差が広がるという問題がありました。

帝政ロシア末期はまさにそんな状況。そこであらわれたのが社会主義という発想です。経済活動を管理するのは国。社会主義とは、資本家と労働者の区別をなくして労働者の国を作ろうという考えに基づきます。社会主義国家を初めて実現したのがロシア革命でした。

帝政ロシアとはロマノフ家が統治した時代

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ロシア革命が起こったのは帝政ロシア時代。このとき国を統治していたのはロマノフ家でした。ロマノフ家がツァーリ=皇帝に初めてなったのは1613年。ロシア革命が起こる1917年まではロマノフ王朝時代とも言われています。

ツァーリ=皇帝による専制政治が基本

ロマノフ家は政治家というより大富豪。ロシアの支配地であったシベリアの毛皮の売買で財を成した一族でした。同じ時期、他の貴族階級が没落したこともありロマノフ家に権力が集中。大富豪が皇帝として政治をつかさどる専制政治が実現します。

大富豪の一族による専制政治は、その他の一般民衆との格差を拡大させていきました。失業率が増加し、食料も十分に得られない状況になります。貧しい生活を強いられた人々は徐々に不満を抱くように。それが血の日曜日事件の引き金となりました。

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厳格な身分制度がロシア革命をうながす

帝政ロシア時代、国の人々は「貴族」「聖職者」「名誉市民」「商人」「町人」「職人」「カザーク」「農民」から構成。厳格な身分制度で区別されていました。とくに農民は、貴族の領地ではたらく奴隷としての立場を強いられます。

このような身分制社会に対する不満から階級の区別をとりはらう社会主義の発想が受け入れられるように。すべてを「労働者」として平等にとらえようとしました。そして、皇帝のような特定の人物ではなく、経済の法則が国を動かすという発想が生み出されます。

血の日曜日事件をきっかけにロシア革命の動きが始まる

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Автор: неизвестен - Первая русская революция 1905 года. М., 1925 г., Общественное достояние, Ссылка

ロシア革命が起こったのは1917年。しかしその予兆が見られるのが1905年に起こった血の日曜日事件。そのためロシア革命は、広い意味では血の日曜日事件から始まっていると言われるようになりました。

労働者の平和的な請願行進に対して軍隊が発砲

帝政ロシア時代の首都はサンクトペテルブルク。そこで、労働者たちが皇宮に向かって平和的な請願行進を行います。彼らが求めたのは、憲法を制定する、労働者の権利を保障する、日露戦争をやめるなど平和と人権にかかわるものでした。

労働者の請願行進に対して政府がとった行動が軍隊の出動。中心街に入らないように軍隊が発砲、多くの人々が亡くなりました。この行進を組織したと言われているのがガポン神父。血の日曜日以降、すぐにロシアを離れます。しかし、翌年に帰国したときに暗殺されました。

皇帝の専制政治から立憲君主制に移行する

血に日曜日事件でいちどは労働者の運動は沈静化されました。しかし、人々の反発がおさまることはなく各地で労働運動が活発に。また、ストライキがたびたび行われるなど、ロシア国内は混乱した状態になっていきました。

そこで帝政ロシア政府は憲法を公布することを決断、国家評議会とドゥーマによる二院制議会が確立しました。これにより皇帝による専制政治から立憲君主制に移行します。しかし、それは表面的なものにすぎず、実際は皇帝の力が巨大なままでした。

大規模な暴動によりロマノフ王朝は終わりを告げる

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By Boasson and Eggler St. Petersburg Nevsky 24. - Uploaded from ru.wikipedia; description page is/was here., パブリック・ドメイン, Link

1917年、2度にわたって大規模な暴動が起きたことによりロマノフ家は窮地に立たされます。1918年にエカテリンブルクのイパチェフ館にてロマノフ家の人々は処刑。射殺、銃剣突き、銃床で殴るなど残忍極まりないものでした。この痛ましい処刑には5人の子供も含まれています。

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10月革命にてボリシェビキが権力を獲得

帝政ロシアの終わりを決定づけたのが十月革命。革命の中心となったのが社会主義左派勢力であるボリシェヴィキでした。この時期になると、ロシアの軍隊が革命側の支持を表明するようになり、軍隊を発動することが難しくなっていきます。

ボリシェヴィキは武装蜂起の準備をすすめ、1917年10月24日にペトログラードの政府施設を占拠することに成功。ロシア帝国の宮殿である冬宮を制圧するに至ります。そこでついにボリシェビキに権力が移ったことが宣言されました。

社会主義国家であるソビエト連邦が樹立

その結果、ボリシェヴィキが中心となるソビエトに権力が集中されます。首相にあたる議長となったのがウラジーミル・レーニン。外務人民委員がレフ・トロツキー、そして民族問題人民委員としてヨシフ・スターリンが就任しました。

ソビエトとは「労働者、農民、兵士の評議会」という意味であり、ひとつの国家名というわけではありません。各地でソビエト政権が乱立して混乱状態になりました。最終的に全ロシアソビエト大会と全ロシア中央執行委員会を最高機関とする「連邦制」が採択されるに至ります。

帝政ロシア時代の耽美的な芸術はダブー視される

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By ミハイ・ジチ - Alexander II. Coronation Book of 1856, パブリック・ドメイン, Link

ロシア革命の中心人物たちは、政治をつかさどる者だけではなく、芸術のあり方を根本的に変えることを試みました。耽美的で高級感あふれる貴族の芸術はダブー。帝政ロシア時代に活躍した芸術家たちは亡命することを余儀なくされました。

労働者の国家にとってブルジョワジーの芸術はご法度

ロマノフ家の時代に発達したのが音楽とバレエ。バレエ専用のボリショイ劇場やマリインスキー劇場がつくられたのも帝政ロシア時代です。とくに有名なダンサーがアンナ・マトヴェーヴナ・パヴロワ。マリインスキー劇場を拠点に世界で活躍しました。

演劇や映画も壮大で美しいセットによる貴族の物語が中心。西洋のスタイルを取り入れた豪華な宮殿や劇場がたくさん建てられました。ロシア革命のあとになると、これらは豪華絢爛なブルジョワジーの芸術であるとタブー視されるようになります。

帝政ロシア時代の俳優イワン・モジューヒンはパリに亡命

帝政ロシア時代の人気映画俳優がイワン・モジューヒン。ロシア革命後は、映画や演劇仲間と一緒にパリに亡命して映画を作り続けます。1920年代のフランスでは、帝政ロシア関係者の映画が一大ジャンルとして君臨するほど人気となりました。

イワン・モジューヒンの映画は日本にも輸出。「青い目の亡命ロシア人」として人気をはくします。モジューヒンは、サウンド映画に適応できなかったことと、整形の失敗で顔が変わってしまったことで、1930年代以降は姿を見ることはなくなりました。

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民衆を革命に導くロジカルな新芸術を確立

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帝政ロシア時代の耽美的な芸術に代わり、民衆を革命に導く扇動的な芸術が代わり台頭。貴族ではなく労働者の芸術として発展しました。また、社会主義の基礎となるマルクス主義のロジックが芸術分野に取り入れられたことも大きな特徴です。

マルクスの唯物論的歴史観を表現する芸術を推奨

ロシア革命はボリシェビキによるクーデーターに近いもの。それと同時にしっかりと理論武装された知的な革命でもありました。革命の中心人物たちが重視したがのマルクスの唯物論的歴史観。人間社会には、あらかじめ決まった発展の法則があるとする考えです。

シンプルに表現すると、AとBのあいだに矛盾が生じると2つは衝突。それにより新しい段階である Cが生まれます。この「弁証法」と呼ばれるプロセスを繰り返していくと、限界がきたときに革命が発生。この法則を芸術上で表現するプロパガンダが展開されました。

「戦艦ポチョムキン」は革命までの道のりを視覚的に表現

ロシア革命の法則を表している名作が「戦艦ポチョムキン」(1925)です。監督はセルゲイ・エイゼンシュテイン。1905年に起きた戦艦ポチョムキンの反乱から血の日曜日事件に至るまでの、人々が革命意識に目覚めるまでのプロセスが表現されました。

最も有名なのが「オデッサの階段」というシーン。虐殺された子供を抱いて泣く母親、無慈悲に銃を向ける兵士、赤ちゃんを乗せて転がり落ちる乳母車、メガネが割れた女性の叫びなどのショットがスピーディーに反復。革命意識がわきあがる過程をあらわしました。

「ロシア革命」が生んだ芸術は今でも輝きをはなっている

「ロシア革命」によりソビエト連邦が樹立。社会主義を基礎とする政治体制は1991年まで続きます。クーデータ等により混乱したソビエト連邦は、最終的に諸国が連邦を離脱することにより幕を下ろすことに。最後の大統領はミハエル・ゴルバチョフでした。ソビエト連邦は崩壊するものの、ロシア革命に関連する芸術はいまでも人気が高く、日本でもたびたび展覧会や映画上映会が開催されています。機会があったらぜひ参加してみてはどうでしょうか。ロシア革命が残した文化的遺産のパワーを実感できるでしょう。

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ヨーロッパの歴史ロシアロシア革命ロマノフ朝世界史歴史

政治経済と芸術の革命「ロシア革命」がもたらした変化を元大学教員がわかりやすく解説

10月革命にてボリシェビキが権力を獲得

帝政ロシアの終わりを決定づけたのが十月革命。革命の中心となったのが社会主義左派勢力であるボリシェヴィキでした。この時期になると、ロシアの軍隊が革命側の支持を表明するようになり、軍隊を発動することが難しくなっていきます。

ボリシェヴィキは武装蜂起の準備をすすめ、1917年10月24日にペトログラードの政府施設を占拠することに成功。ロシア帝国の宮殿である冬宮を制圧するに至ります。そこでついにボリシェビキに権力が移ったことが宣言されました。

社会主義国家であるソビエト連邦が樹立

その結果、ボリシェヴィキが中心となるソビエトに権力が集中されます。首相にあたる議長となったのがウラジーミル・レーニン。外務人民委員がレフ・トロツキー、そして民族問題人民委員としてヨシフ・スターリンが就任しました。

ソビエトとは「労働者、農民、兵士の評議会」という意味であり、ひとつの国家名というわけではありません。各地でソビエト政権が乱立して混乱状態になりました。最終的に全ロシアソビエト大会と全ロシア中央執行委員会を最高機関とする「連邦制」が採択されるに至ります。

帝政ロシア時代の耽美的な芸術はダブー視される

Performance in the Bolshoi Theatre.JPG
By ミハイ・ジチ – Alexander II. Coronation Book of 1856, パブリック・ドメイン, Link

ロシア革命の中心人物たちは、政治をつかさどる者だけではなく、芸術のあり方を根本的に変えることを試みました。耽美的で高級感あふれる貴族の芸術はダブー。帝政ロシア時代に活躍した芸術家たちは亡命することを余儀なくされました。

労働者の国家にとってブルジョワジーの芸術はご法度

ロマノフ家の時代に発達したのが音楽とバレエ。バレエ専用のボリショイ劇場やマリインスキー劇場がつくられたのも帝政ロシア時代です。とくに有名なダンサーがアンナ・マトヴェーヴナ・パヴロワ。マリインスキー劇場を拠点に世界で活躍しました。

演劇や映画も壮大で美しいセットによる貴族の物語が中心。西洋のスタイルを取り入れた豪華な宮殿や劇場がたくさん建てられました。ロシア革命のあとになると、これらは豪華絢爛なブルジョワジーの芸術であるとタブー視されるようになります。

帝政ロシア時代の俳優イワン・モジューヒンはパリに亡命

帝政ロシア時代の人気映画俳優がイワン・モジューヒン。ロシア革命後は、映画や演劇仲間と一緒にパリに亡命して映画を作り続けます。1920年代のフランスでは、帝政ロシア関係者の映画が一大ジャンルとして君臨するほど人気となりました。

イワン・モジューヒンの映画は日本にも輸出。「青い目の亡命ロシア人」として人気をはくします。モジューヒンは、サウンド映画に適応できなかったことと、整形の失敗で顔が変わってしまったことで、1930年代以降は姿を見ることはなくなりました。

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