10月革命にてボリシェビキが権力を獲得
帝政ロシアの終わりを決定づけたのが十月革命。革命の中心となったのが社会主義左派勢力であるボリシェヴィキでした。この時期になると、ロシアの軍隊が革命側の支持を表明するようになり、軍隊を発動することが難しくなっていきます。
ボリシェヴィキは武装蜂起の準備をすすめ、1917年10月24日にペトログラードの政府施設を占拠することに成功。ロシア帝国の宮殿である冬宮を制圧するに至ります。そこでついにボリシェビキに権力が移ったことが宣言されました。
社会主義国家であるソビエト連邦が樹立
その結果、ボリシェヴィキが中心となるソビエトに権力が集中されます。首相にあたる議長となったのがウラジーミル・レーニン。外務人民委員がレフ・トロツキー、そして民族問題人民委員としてヨシフ・スターリンが就任しました。
ソビエトとは「労働者、農民、兵士の評議会」という意味であり、ひとつの国家名というわけではありません。各地でソビエト政権が乱立して混乱状態になりました。最終的に全ロシアソビエト大会と全ロシア中央執行委員会を最高機関とする「連邦制」が採択されるに至ります。
帝政ロシア時代の耽美的な芸術はダブー視される
ロシア革命の中心人物たちは、政治をつかさどる者だけではなく、芸術のあり方を根本的に変えることを試みました。耽美的で高級感あふれる貴族の芸術はダブー。帝政ロシア時代に活躍した芸術家たちは亡命することを余儀なくされました。
労働者の国家にとってブルジョワジーの芸術はご法度
ロマノフ家の時代に発達したのが音楽とバレエ。バレエ専用のボリショイ劇場やマリインスキー劇場がつくられたのも帝政ロシア時代です。とくに有名なダンサーがアンナ・マトヴェーヴナ・パヴロワ。マリインスキー劇場を拠点に世界で活躍しました。
演劇や映画も壮大で美しいセットによる貴族の物語が中心。西洋のスタイルを取り入れた豪華な宮殿や劇場がたくさん建てられました。ロシア革命のあとになると、これらは豪華絢爛なブルジョワジーの芸術であるとタブー視されるようになります。
帝政ロシア時代の俳優イワン・モジューヒンはパリに亡命
帝政ロシア時代の人気映画俳優がイワン・モジューヒン。ロシア革命後は、映画や演劇仲間と一緒にパリに亡命して映画を作り続けます。1920年代のフランスでは、帝政ロシア関係者の映画が一大ジャンルとして君臨するほど人気となりました。
イワン・モジューヒンの映画は日本にも輸出。「青い目の亡命ロシア人」として人気をはくします。モジューヒンは、サウンド映画に適応できなかったことと、整形の失敗で顔が変わってしまったことで、1930年代以降は姿を見ることはなくなりました。
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