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政治経済と芸術の革命「ロシア革命」がもたらした変化を元大学教員がわかりやすく解説

厳格な身分制度がロシア革命をうながす

帝政ロシア時代、国の人々は「貴族」「聖職者」「名誉市民」「商人」「町人」「職人」「カザーク」「農民」から構成。厳格な身分制度で区別されていました。とくに農民は、貴族の領地ではたらく奴隷としての立場を強いられます。

このような身分制社会に対する不満から階級の区別をとりはらう社会主義の発想が受け入れられるように。すべてを「労働者」として平等にとらえようとしました。そして、皇帝のような特定の人物ではなく、経済の法則が国を動かすという発想が生み出されます。

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ロシア革命を突き動かした革命家たちは、自分たちが皇帝になろうという考えではなかった。社会主義国家を実現させる経済の法則を国に適応させることが狙い。そのため経済学に精通した学術肌の革命家も多かった。

血の日曜日事件をきっかけにロシア革命の動きが始まる

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Автор: неизвестен – Первая русская революция 1905 года. М., 1925 г., Общественное достояние, Ссылка

ロシア革命が起こったのは1917年。しかしその予兆が見られるのが1905年に起こった血の日曜日事件。そのためロシア革命は、広い意味では血の日曜日事件から始まっていると言われるようになりました。

労働者の平和的な請願行進に対して軍隊が発砲

帝政ロシア時代の首都はサンクトペテルブルク。そこで、労働者たちが皇宮に向かって平和的な請願行進を行います。彼らが求めたのは、憲法を制定する、労働者の権利を保障する、日露戦争をやめるなど平和と人権にかかわるものでした。

労働者の請願行進に対して政府がとった行動が軍隊の出動。中心街に入らないように軍隊が発砲、多くの人々が亡くなりました。この行進を組織したと言われているのがガポン神父。血の日曜日以降、すぐにロシアを離れます。しかし、翌年に帰国したときに暗殺されました。

皇帝の専制政治から立憲君主制に移行する

血に日曜日事件でいちどは労働者の運動は沈静化されました。しかし、人々の反発がおさまることはなく各地で労働運動が活発に。また、ストライキがたびたび行われるなど、ロシア国内は混乱した状態になっていきました。

そこで帝政ロシア政府は憲法を公布することを決断、国家評議会とドゥーマによる二院制議会が確立しました。これにより皇帝による専制政治から立憲君主制に移行します。しかし、それは表面的なものにすぎず、実際は皇帝の力が巨大なままでした。

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血の日曜日事件に始まる革命の動きのクライマックスとなるのが「戦艦ポチョムキンの反乱」。不満を持つ水平たちの武装蜂起だ。この事件はロシア革命後に映画化され、映画史の金字塔のひとつになった。あとで解説するから覚えておいてくれ。

大規模な暴動によりロマノフ王朝は終わりを告げる

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By Boasson and Eggler St. Petersburg Nevsky 24. – Uploaded from ru.wikipedia; description page is/was here., パブリック・ドメイン, Link

1917年、2度にわたって大規模な暴動が起きたことによりロマノフ家は窮地に立たされます。1918年にエカテリンブルクのイパチェフ館にてロマノフ家の人々は処刑。射殺、銃剣突き、銃床で殴るなど残忍極まりないものでした。この痛ましい処刑には5人の子供も含まれています。

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