九州征伐で秀吉に降伏
上陸してきたことで退却を余儀なくされ、退却するも大友軍の追撃されながら撤退しました。また有信が守る高城も包囲されるも容易に落とすことができない城だと判断した秀長は兵糧攻めに切り替えたことと有信の救援に来るであろう根白坂を抑えていきました。
大将を任されていた義弘は、秀吉から和議交渉の文が届くも受け入れず抗戦する構えを取ります。更に土豪達も秀吉に下っていき窮地に立たされていた義久は、有信を見捨てる分けにもいかず根白坂で豊臣軍と交戦していきました。
義弘が夜襲作戦で攻め立てるも藤堂高虎と黒田如水の援軍によって失敗に終わり、島津家臣達も降伏し遂に秀吉の降伏。1587年5月中旬に義久が秀吉と面会し正式な降伏となり義久は髪を剃り落とし龍伯と名を改めました。
関ヶ原で西軍として加担から義久の最後
秀吉によって九州が平定されたことで九州制覇を成し遂げられなかった義久。そして秀吉の元で、反感を買いながらも臣従していき関ヶ原に無理やり参戦していくことになります。
朝鮮出兵と弟の死
秀吉に臣従したことで薩摩一国を安緒されるも、島津家中内で秀吉に対しての反発が強い状態にありました。そして明国を手中に収めたいと思った秀吉は、朝鮮出兵を決意し各国大名を明へ派遣することになります。
この時に義久にも派遣要請がくるも義弘に一万程度の兵しか預けず軍役を果たしておりませんでした。また朝鮮出兵時に家久家臣の梅北国兼が一揆を起こし加藤清正の城を攻め落とす梅北一揆が発生します。島津氏がと秀吉に対して不服姿と思った秀吉は、家久の首を要求し義久は兵を仕向け家久を自刃させました。
家久が亡くなったことで赴いた島津兵は声を上げて涙をこぼしたとされています。
秀吉亡き後
朝鮮出兵は秀吉が亡くなったことで大名らが帰国してきますが、義弘と忠恒の現地での活躍もあり五万石加増されました。秀吉亡き後は嫡男秀頼が継ぎ後見人として徳川家康と前田利家の二人に任されます。
更に秀吉の遺言として、何を行うにも五大老と五奉行の元で話し合いによって決めることになっていましたが家康は勝手に諸大名と縁組をしてしまいました。これを見た利家は追及するべく家康を問い詰めていくも誓書を交換するなどして戦は回避されます。
しかし、1599年に利家が亡くなったことで家康に対抗できる大老がいなかったことに加え奉行派と武断派の関係が更に悪化していきました。
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東軍に加わる予定だった島津氏
兼ねてから家康から東軍に与するよういわれていた義弘は、軍を率いて鳥居元忠が守る伏見城へいくと元忠はそんなことは聞いていないといい入城を拒否されます。この時既に輝元が家康に対して挙兵し三成ら西軍が伏見城に迫っていました。
この状況で東軍に加勢することが出来ないと判断した義弘は、西軍に加わり共に伏見城を攻略していきます。義久と恒忠は小西行長の所領が清正に攻められた時に救援を送り交戦していました。しかし、宇土城を攻め落とされ小西行重らを受け入れた後に撤退し佐敷城を攻撃していきます。
長引くと思われていた関ヶ原もわずか一日で雌雄を決し家康の勝利となりました。
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所領が減らされることがなかった唯一の大名
西軍の敗北となり徳川家忠が薩摩征伐の総大将に任命されました。九州では争いが続いていた状態で、黒田如水を筆頭とする薩摩攻めが計画された後に家康に書状を送ります。しかし薩摩攻めを計画していたものの、並行して和議交渉も進められていて1600年11月11日に義久は和議を了承し薩摩攻めが中止となりました。
その後、義久は家康との講和交渉を始めていき病や金銭不足など様々な理由を付けて上洛をせずに忠長や恒忠らを上洛させます。また如水や清正や宗茂が朝鮮出兵で助けられた恩義から島津氏の所領安堵に向けて積極的に動いていったことで家康が折れ改易されることなく本領安堵が下りました。
義久の晩年
改易を免れてた後に、島津当主の証だった御重物を正式に恒忠に渡し隠居しましたが依然家中内では発言力がありました。そして隠居先として舞鶴城を築き移り住みました。家督を継いだ恒忠でしたが義久の娘だった亀寿との間に子供が出来ず島津久信を次期当主にしようとするも家臣の反対にあい失敗に終わります。
1610年頃には、義弘と恒忠との不仲が噂されるも逸話として三人で談笑したと記録されていて実際のところは分かりませんが島津内で三人の権力体制があったため不仲という噂が立ったとも考えられました。そして舞鶴城で病により1611年に亡くなります。
島津氏の最大勢力を築き上げた
貴久の代で島津基盤を作り義久にて九州制覇をあと一歩まで迫り島津家を大いに盛り立てた義久でした。義久の手腕は戦だけに限らず、鹿児島でタバコを奨励し貴重な収入源としたことに加えて島津二十か条の掟を作り民の豊かな暮らしにするため尽力したともされています。
また兄弟思いな一面も残されていて島津四兄弟と称されているものの、家久だけは腹違いで生い立ちを気にしていると重要なことは心の徳であり学問などを磨くことによって父や母に劣らない存在になるであろうといったようです。
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