義久に対して追い風が吹く
このままでは宗麟との戦に集中出来なかったため、伊東氏を先に掃討することを決意した義久。8月には伊東氏の家臣団が守る日向上野城と隈城を9月には攻略することができ勢いづくと室町幕府足利義昭将軍から文が届きました。
内容は、織田信長を包囲するにあたり毛利氏が動いてくれないのは宗麟に背後を脅かされているからだと思うといい義久に対して宗麟が毛利領を攻めさせないようにと書かれています。これを読んだ義久は、朝廷の大義名分を得たことで宗麟を撃退するべく更に兵を動員しました。
島津方の猛攻に耐えられず石ノ城は降伏している間に大友軍は、耳川を南下し島津要衝の高城を包囲します。
囮先鋒
高城包囲をされる前に佐土原城の家久は、三千の兵を率いて山田有信と共に籠城し大友軍の鉄砲そして大筒攻撃を懸命に耐えきりました。義久も三万の兵を率いて鹿児島を出立していて先に義弘が財部城に入り軍議をします。
松原に布陣する大友軍は宗麟が不在のため、団結力に欠けていた状態で田北鎮周が無断で攻撃を仕掛けていきまんまと策略にはまり撃退されてしまいました。これが義久が考案したとされる釣り野伏で、島津軍を大きく勢い付かせます。
緒戦で敗走した大友軍は、講和を願い出る者と交戦を主張する者に分かれてしまいますが結果として交戦することになりました。一方で軍議内容を知った義久は事前に兵を伏せておき手筈通りに攻撃していき大友軍は壊滅し大友軍軍師の角隈石宗らを討ち取り勝利した義久。
釣り野伏
野戦において囮部隊と伏兵部隊の三部隊に分けて、まず中央部隊を囮部隊で編制し逃走ルートになる左右に兵を伏せておきます。そして中央の囮部隊が敵軍中央から攻撃を仕掛けていき、少し戦い敗走を装いながら予め兵がいる地点まで逃げていき敵兵が伏兵地点までくると一斉に攻撃を仕掛け撃退する戦法。
島津義久によって発案し実践された戦法ですが、類似した戦法を立花道雪なども行っていました。
大友氏の衰退と龍造寺氏の台頭
耳川で壊滅した宗麟は有力な将らが討ち取られたり、離反者が相次ぎ衰退していきます。そこに勢力を拡大してきたのが龍造寺隆信でした。耳川の戦いが起きる前には宗麟と和睦していたことで立場的には宗麟のほうが上でしたが、義久によって宗麟は衰退しその後を継いだかのように隆信が義久に対抗していきます。
有馬晴信が隆信から離反し晴信は義久に援軍要請をかけていきました。それに応じた島津軍は龍造寺方の城を次々と攻略していき森岳城へと入城し晴信と共に軍議を行います。晴信は最初に大軍を待ってから攻めたほうがいいのではというも家久が、これまで劣勢な状況でも勝利していきたので防御しつつも攻撃に転じていくといい納得した晴信。
これにより森岳城を中心に兵を伏せていきました。
隆信との決着
隆信は島津・有馬連合軍の兵が少ないことを知ると、容易に勝利できると思い敵軍と軽視しました。1584年8月4日の八時頃に戦が始まり前線の島津軍は、敗走したふりをして伏兵地点まで誘い込み左右から鉄砲隊が龍造寺軍に対して玉を撃ち込み混乱させることに成功します。
龍造寺軍前線が崩れたことを知ると隆信は、前線の様子を吉田清内に見に行かせると諸将に対して命を惜しまず戦えと隆信がいってもいないことを伝令したことで島津軍の更なる伏兵攻撃を受けていまい壊滅に陥りました。午後の二時頃には、本陣まで攻め込み大将だった隆信が討ち取られ龍造寺軍は敗走し佐賀城へ撤退していきます。
こうして隆信を討ち取り二千人以上の兵をも討ち取った連合軍の圧勝となりました。
豊臣秀吉に臣従
大友氏と龍造寺氏を打ち破り、九州制覇も目前まで迫っていた義久に対して豊臣秀吉が立ちふさがってきます。秀吉を前にして義久はどう動いていくのでしょうか。
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九州制覇目前
龍造寺氏も義久に下り、隣国諸将も服従若しくは和睦をしていきましたが衰退していたとはいえ宗麟は義久に抵抗していきました。そして宗麟は豊臣秀吉に助けを求めると秀吉は義久に対して九州での戦を禁じる文が届きます。
ところが義久は秀吉のことを無視し大友氏所有の国を次々と攻めていきました。残すは筑前・筑後のみとなり宗麟の配下だった高橋紹運・高橋統増・立花宗茂が抗戦姿勢を見せるも大軍を前に紹運は三万の兵力に耐え切れず討死するも島津軍に千人以上の兵被害を出したことで立花城を諦め豊後げ方向転換します。
緒戦を勝利するが追い込まれていく
戦を禁止にもかかわらず、一向に戦を止めない義久に向けて仙石久秀を軍監とした約六千の兵が先鋒として向かい戸次川で対峙することになりました。豊臣軍では軍議が行われ軍を待ってから仕掛けるべきだと長宗我部元親らが意見するも久秀は、川を渡り攻撃すべきであるといい久秀に従うこととなった元親達。
1587年1月20日に戸次川を渡っていく豊臣軍でしたが、島津軍が得意とする釣り野伏の策略にはまり久秀は軍を置いて先に敗走し元親の嫡男だった信親らが討死したため島津軍の圧勝で緒戦を終えました。敗北の報を受けた秀吉は、秀長率いる十万の兵を薩摩国へ向けて出立させます。
九州に上陸した豊臣軍に国人衆は義久から離れ、豊臣軍に下っていきました。
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