残す反島津勢力
祁答院氏は敗れたものの、本拠地のあった祁答院地方へ逃げていき北村城に入っていました。忠良は岩剣城の身投げが起きてしまったことを聞くと島津に不徳があったからだといい、降伏をするよう貴久に命じます。
貴久と義久兄弟が手勢を連れて北村城へ向かう途中で、祁答院方が兵を伏せていたため島津勢は混乱に陥り新納忠元が殿を務め命からがらに自国へ戻るも歳久が重症を負ってしまいました。この出来事で反勢力を滅ぼすことを決めた貴久は龍ヶ城を攻め落とし、薩摩平定まで後わずかに迫ります。
薩摩平定
蒲生氏が降伏しましたが、相良氏・菱刈氏らが残っていたことに加えて肝付氏が謀反を起こしたことによって島津家重臣だった忠将・尚久と相次いで亡くなってしまい島津家内部の士気は下がっていました。
しかし、兵を総動員して相良氏らを駆逐し1570年には東郷氏らが降伏したことによって薩摩国を平定させます。また1566年に貴久から家督を継ぎ十六代島津家当主となった義久。
三国統一
薩摩を平定し残すは日向国と大隈国だけとなります。また薩摩平定の前に貴久が亡くなり三国平定をするため、意志を受け継ぐ義久でした。
伊東氏との激闘
薩摩を平定するよりも前に、日向国の伊東氏にも兵を進めさせていました。貴久が亡くなったことで飯野地方を奪還するべく動き出していく伊東氏。飯野城を居城としていた義弘と対峙していくも義弘の手勢は僅か三百と少なく、対する伊東氏は約三千と十倍の兵力差がありました。
三千の兵を率いていたのは伊東祐武の嫡男祐安は、まず飯野城の先にある加久藤城を攻め込もうとします。祐安らは加久藤城の民家に火を付け義弘を挑発していきました。
妻子が守る加久藤城
民家に火が放たれ家臣からの呼び出しでようやく起きた義弘は、こうなることを既に知っていたため冷静な状態でいました。伊東氏内部に間者を紛れ込ませていて逐一情報を入手していたので伊東方の動きは筒抜けです。
この時の加久藤城は義弘の継室だった実窓夫人がわずか五十の兵と共に籠城していました。早朝に義弘は六十人ほどの兵を遠矢良賢に預け加久藤城の救援にあたらせ自らは約百三十人の兵を率いて飯野城と加久藤城の間に陣を構えます。
事前に察知した情報を元に、手薄になっているところを攻めていく祐信は暗さのあまり誤った場所を攻めてしまい島津軍から攻撃を受けてしまい撤退を余儀なくされ米良重方ら一部の将を討ち取ることに成功しました。
劣勢状況を乗り切り敵を圧倒した義弘
加久藤城から撤退していた祐信に追い打ちをかけるようにして、池島川で油断している伊東軍に真っ正面から切り込み兵を討っていき祐信と一騎打ちを行い勝利した義弘。戦況を見て深追いはせずに兵を引き返していく義弘に対して、祐信が討たれたことで急ぎ本隊と合流する伊東軍でした。
伊東軍は祐信部隊を纏め高原城へ退却するために、白鳥山を抜けようとします。移動ルートも先読みしていた義弘は、僧侶と農民に伏兵を装わせて慌てふためく伊東軍攻め込むも兵力に差があり過ぎていたため一時的に後退するも義久考案の釣り野伏戦法を使用し伊東軍の壊滅に追いやりました。
伊東軍の総大将だった祐安は遅れて到着した新納忠元が討ち取り、勝利を飾った島津方でしたが将兵らを半分以上失ってしまいます。また、この戦いによって後に起きる戦の遠因となりました。
遂に三国を平定する
伊東方の敗戦聞いて反島津連合軍だった禰寝氏が島津方に寝返ったことで、残された肝付氏と伊地知氏でしたが降伏する気配はありませんでした。1573年7月には家久が守る小浜城に夜襲をしかけた肝付氏。しかし、夜襲だったにもかかわらず家久の掛け声によって機能していく島津兵は奮戦し肝付氏を撃退しました。
その後は、牛根城とは人質を送ることで開城し島津に下り伊地知氏も牛根城陥落の知らせを聞き義久に降伏します。残る肝付氏は徹底抗戦か臣従するか悩んでいたところ、貴久の娘で肝付氏に嫁いだ御南は臣従を進言し肝付兼亮は義久に臣従することになりました。
そして高原城にて残る伊東義祐を降伏させ支城だった伊東方の将らが相次ぎ離反したため、薩摩・大隈・日向の三国を平定することができた義久。
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大友氏と龍造寺氏との交戦
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降伏した伊東氏は大友宗麟の下に亡命したことで、宗麟が大軍を率いて島津領土へ侵攻してきました。宗麟は軍を二つに分けて進軍していき先鋒部隊は日向国へ入り伊東家元家臣団も加わり長倉佑政は国人衆を調略し米良氏などを調略することに成功します。
縣城主の智勇兼備の将だった土持親成を囲い込み義久のとの連絡を絶ち攻撃を仕掛けていきました。どうすることもできない親成は降伏を願いでるも聞き入れてもらえず討ち取られてしまいます。耳川北部を制圧されてしまった義久は、耳川南側まで後退するも島津忠長らを佑政がいる石ノ城攻めを任せるも五百人ほどの死傷者の被害が出たため止む無くまで撤退しました。
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