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屈強な島津軍団を指揮した「島津義久」を歴史通サラリーマンが徹底わかりやすく解説

今回は父の島津貴久を意志を継ぎ薩摩を平定し九州地域をあと一歩で支配することができた島津義久について学んでいきます。

島津義久は登録兄弟をまとめ上げ、島津家固有戦法の釣り野伏を考案したことでも知られている。また祖父の忠良と貴久を手本として二十か条の掟作りをして民からも信頼されていた。

そんな島津義久について歴史ライターwhat0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

学生時代は、沢山の歴史本を読み知識を深めた歴史好きのサラリーマン。特に、戦国時代が大好きであり、武士に憧れている。父貴久の子供として長男として誕生した義久。今回は祖父の忠良からも総大将の器有と称された義久の幼少期から見ていく。

島津家四兄弟の長男

島津四兄弟として後に名をはせた長男義久。まずは義久の生い立ちと初陣のところを見ていきましょう。

貴久の嫡男

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By Ginger1192投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

1533年3月4日に忠良の拠点だった伊作城で誕生しました。この頃の薩摩一帯は島津分家同士で争いが絶えない状態で、忠良と貴久は動乱の世を渡り歩いていきます。

義久が誕生した同年は、貴久が初陣していて薩摩守護職だった島津実久と争っていました。幼少期は虎寿丸と名付けられていて、大人しい性格をしていてとても戦場で生き残れるような子供ではなかったようです。

次男の義弘と共に元服

1546年に弟だった義弘と共に元服の式を済ませ晴れて大人の仲間入りを果たします。元服時には名を虎寿丸から又三郎忠良と祖父と同じ名を命名されました。名前から分かる通りで忠良は、特に義久を溺愛していたことが伺えます。

また溺愛はしていたものの、島津家次期当主として厳しく接していき日頃の振る舞いから徹底して叩き込まれていたため大人達の前では物静にしていました。祖父からは人との接し方を学び、父からは戦を学んでいったことで兄弟を家臣を大事にしていく総大将となったのでしょう。

薩摩の平定に向けて

1554年に貴久が大隈の蒲生氏らを攻め入る時に、初陣をかざります。弟だった義久と歳久も同様に初陣を果たし岩剣城攻めに参陣していきました。

岩剣城緒戦にて奮戦する

image by PIXTA / 48888539

1554年に貴久と因縁の関係にあった実久が亡くなり、まず薩摩平定に向けて準備をしていきます。この時に立ちふさがっていたのは、蒲生氏と渋谷一族でした。まず岩剣城を攻略することを決めた貴久は、三兄弟に対して着陣場所を指示をして無駄死にならないようしっかりと奮戦し負けそうになったら恥を忍んでも逃げてくれといい伝えます。

そして岩剣城の緒戦として、重富の地で祁答院氏と対峙しました。貴久の弟だった忠将が先鋒役で鉄砲を撃ちかけて開始すると兵力で優位と思った祁答院軍が帖佐城から討って出てきました。これを見た三兄弟もすかさず兵を率いて討って出ていき、目付け役の川上忠克の掛け声もあって敵将を討つため猛追すると祁答院軍は気迫に押され忽ち帖佐城に逃げ帰っていきます。

帖佐で鉄砲の初運用

臆することなく戦い島津軍を勝利に導いた義久ら兄弟でした。これにより岩剣城を包囲していた島津軍の士気も上がり、島津方が優勢となります。

しかし祁答院氏が守る岩剣城は、三方が岩山で囲まれている堅城で容易に落とせる城ではありませんでした。貴久と義久兄弟達が祁答院氏と一進一退を繰り返していると、援軍として祁答院重経が加治木城の兵を一部割いて岩剣城に向かっている知らせが入ります。

これに伏兵で対応するべく、思川に通りがかった時に横から鉄砲を撃ちつけ三千あまりの兵達は恐怖で四方八方に逃げ島津軍が追い打ちをかけ見事打ち負かしました。

岩剣城決着

援軍を初の鉄砲運用で撃退したところ、岩剣城の攻撃が弱まったため義久らが岩剣城の包囲網に加わりました。城から弓矢攻撃が無くなり義久と義弘らが手勢を引き連れて移動していると、島津軍の上から化粧箱が降り注いてきます。

そのうち攻撃が止むと女性達とその子供は、城から身投げをしていき深い谷底に落ち自害していきました。義久らが岩剣城へ到着し城内を見ると、城主の祁答院良重が夜のうちに逃げたことが残された兵によって明らかになります。

こうして堅城と呼ばれた岩剣城が落城しました。

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