今回は父の島津貴久を意志を継ぎ薩摩を平定し九州地域をあと一歩で支配することができた島津義久について学んでいきます。

島津義久は登録兄弟をまとめ上げ、島津家固有戦法の釣り野伏を考案したことでも知られている。また祖父の忠良と貴久を手本として二十か条の掟作りをして民からも信頼されていた。

そんな島津義久について歴史ライターwhat0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

学生時代は、沢山の歴史本を読み知識を深めた歴史好きのサラリーマン。特に、戦国時代が大好きであり、武士に憧れている。父貴久の子供として長男として誕生した義久。今回は祖父の忠良からも総大将の器有と称された義久の幼少期から見ていく。

島津家四兄弟の長男

島津四兄弟として後に名をはせた長男義久。まずは義久の生い立ちと初陣のところを見ていきましょう。

貴久の嫡男

Yoshihisa shimadzu.jpg
By Ginger1192 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

1533年3月4日に忠良の拠点だった伊作城で誕生しました。この頃の薩摩一帯は島津分家同士で争いが絶えない状態で、忠良と貴久は動乱の世を渡り歩いていきます。

義久が誕生した同年は、貴久が初陣していて薩摩守護職だった島津実久と争っていました。幼少期は虎寿丸と名付けられていて、大人しい性格をしていてとても戦場で生き残れるような子供ではなかったようです。

次男の義弘と共に元服

1546年に弟だった義弘と共に元服の式を済ませ晴れて大人の仲間入りを果たします。元服時には名を虎寿丸から又三郎忠良と祖父と同じ名を命名されました。名前から分かる通りで忠良は、特に義久を溺愛していたことが伺えます。

また溺愛はしていたものの、島津家次期当主として厳しく接していき日頃の振る舞いから徹底して叩き込まれていたため大人達の前では物静にしていました。祖父からは人との接し方を学び、父からは戦を学んでいったことで兄弟を家臣を大事にしていく総大将となったのでしょう。

薩摩の平定に向けて

1554年に貴久が大隈の蒲生氏らを攻め入る時に、初陣をかざります。弟だった義久と歳久も同様に初陣を果たし岩剣城攻めに参陣していきました。

岩剣城緒戦にて奮戦する

image by PIXTA / 48888539

1554年に貴久と因縁の関係にあった実久が亡くなり、まず薩摩平定に向けて準備をしていきます。この時に立ちふさがっていたのは、蒲生氏と渋谷一族でした。まず岩剣城を攻略することを決めた貴久は、三兄弟に対して着陣場所を指示をして無駄死にならないようしっかりと奮戦し負けそうになったら恥を忍んでも逃げてくれといい伝えます。

そして岩剣城の緒戦として、重富の地で祁答院氏と対峙しました。貴久の弟だった忠将が先鋒役で鉄砲を撃ちかけて開始すると兵力で優位と思った祁答院軍が帖佐城から討って出てきました。これを見た三兄弟もすかさず兵を率いて討って出ていき、目付け役の川上忠克の掛け声もあって敵将を討つため猛追すると祁答院軍は気迫に押され忽ち帖佐城に逃げ帰っていきます。

帖佐で鉄砲の初運用

臆することなく戦い島津軍を勝利に導いた義久ら兄弟でした。これにより岩剣城を包囲していた島津軍の士気も上がり、島津方が優勢となります。

しかし祁答院氏が守る岩剣城は、三方が岩山で囲まれている堅城で容易に落とせる城ではありませんでした。貴久と義久兄弟達が祁答院氏と一進一退を繰り返していると、援軍として祁答院重経が加治木城の兵を一部割いて岩剣城に向かっている知らせが入ります。

これに伏兵で対応するべく、思川に通りがかった時に横から鉄砲を撃ちつけ三千あまりの兵達は恐怖で四方八方に逃げ島津軍が追い打ちをかけ見事打ち負かしました。

岩剣城決着

援軍を初の鉄砲運用で撃退したところ、岩剣城の攻撃が弱まったため義久らが岩剣城の包囲網に加わりました。城から弓矢攻撃が無くなり義久と義弘らが手勢を引き連れて移動していると、島津軍の上から化粧箱が降り注いてきます。

そのうち攻撃が止むと女性達とその子供は、城から身投げをしていき深い谷底に落ち自害していきました。義久らが岩剣城へ到着し城内を見ると、城主の祁答院良重が夜のうちに逃げたことが残された兵によって明らかになります。

こうして堅城と呼ばれた岩剣城が落城しました。

\次のページで「残す反島津勢力」を解説!/

残す反島津勢力

祁答院氏は敗れたものの、本拠地のあった祁答院地方へ逃げていき北村城に入っていました。忠良は岩剣城の身投げが起きてしまったことを聞くと島津に不徳があったからだといい、降伏をするよう貴久に命じます。

貴久と義久兄弟が手勢を連れて北村城へ向かう途中で、祁答院方が兵を伏せていたため島津勢は混乱に陥り新納忠元が殿を務め命からがらに自国へ戻るも歳久が重症を負ってしまいました。この出来事で反勢力を滅ぼすことを決めた貴久は龍ヶ城を攻め落とし、薩摩平定まで後わずかに迫ります。

薩摩平定

蒲生氏が降伏しましたが、相良氏・菱刈氏らが残っていたことに加えて肝付氏が謀反を起こしたことによって島津家重臣だった忠将・尚久と相次いで亡くなってしまい島津家内部の士気は下がっていました。

しかし、兵を総動員して相良氏らを駆逐し1570年には東郷氏らが降伏したことによって薩摩国を平定させます。また1566年に貴久から家督を継ぎ十六代島津家当主となった義久。

三国統一

薩摩を平定し残すは日向国と大隈国だけとなります。また薩摩平定の前に貴久が亡くなり三国平定をするため、意志を受け継ぐ義久でした。

伊東氏との激闘

薩摩を平定するよりも前に、日向国の伊東氏にも兵を進めさせていました。貴久が亡くなったことで飯野地方を奪還するべく動き出していく伊東氏。飯野城を居城としていた義弘と対峙していくも義弘の手勢は僅か三百と少なく、対する伊東氏は約三千と十倍の兵力差がありました。

三千の兵を率いていたのは伊東祐武の嫡男祐安は、まず飯野城の先にある加久藤城を攻め込もうとします。祐安らは加久藤城の民家に火を付け義弘を挑発していきました。

妻子が守る加久藤城

民家に火が放たれ家臣からの呼び出しでようやく起きた義弘は、こうなることを既に知っていたため冷静な状態でいました。伊東氏内部に間者を紛れ込ませていて逐一情報を入手していたので伊東方の動きは筒抜けです。

この時の加久藤城は義弘の継室だった実窓夫人がわずか五十の兵と共に籠城していました。早朝に義弘は六十人ほどの兵を遠矢良賢に預け加久藤城の救援にあたらせ自らは約百三十人の兵を率いて飯野城と加久藤城の間に陣を構えます。

事前に察知した情報を元に、手薄になっているところを攻めていく祐信は暗さのあまり誤った場所を攻めてしまい島津軍から攻撃を受けてしまい撤退を余儀なくされ米良重方ら一部の将を討ち取ることに成功しました。

劣勢状況を乗り切り敵を圧倒した義弘

加久藤城から撤退していた祐信に追い打ちをかけるようにして、池島川で油断している伊東軍に真っ正面から切り込み兵を討っていき祐信と一騎打ちを行い勝利した義弘。戦況を見て深追いはせずに兵を引き返していく義弘に対して、祐信が討たれたことで急ぎ本隊と合流する伊東軍でした。

伊東軍は祐信部隊を纏め高原城へ退却するために、白鳥山を抜けようとします。移動ルートも先読みしていた義弘は、僧侶と農民に伏兵を装わせて慌てふためく伊東軍攻め込むも兵力に差があり過ぎていたため一時的に後退するも義久考案の釣り野伏戦法を使用し伊東軍の壊滅に追いやりました。

伊東軍の総大将だった祐安は遅れて到着した新納忠元が討ち取り、勝利を飾った島津方でしたが将兵らを半分以上失ってしまいます。また、この戦いによって後に起きる戦の遠因となりました。

遂に三国を平定する

伊東方の敗戦聞いて反島津連合軍だった禰寝氏が島津方に寝返ったことで、残された肝付氏と伊地知氏でしたが降伏する気配はありませんでした。1573年7月には家久が守る小浜城に夜襲をしかけた肝付氏。しかし、夜襲だったにもかかわらず家久の掛け声によって機能していく島津兵は奮戦し肝付氏を撃退しました。

その後は、牛根城とは人質を送ることで開城し島津に下り伊地知氏も牛根城陥落の知らせを聞き義久に降伏します。残る肝付氏は徹底抗戦か臣従するか悩んでいたところ、貴久の娘で肝付氏に嫁いだ御南は臣従を進言し肝付兼亮は義久に臣従することになりました。

そして高原城にて残る伊東義祐を降伏させ支城だった伊東方の将らが相次ぎ離反したため、薩摩・大隈・日向の三国を平定することができた義久。

大友氏と龍造寺氏との交戦

三国を平定させた後に伊東氏が大友氏に亡命したことで、大友宗麟と対峙してきます。また、肥前の熊の異名で知られる龍造寺隆信とも争っていきました。

大友宗麟へ亡命

降伏した伊東氏は大友宗麟の下に亡命したことで、宗麟が大軍を率いて島津領土へ侵攻してきました。宗麟は軍を二つに分けて進軍していき先鋒部隊は日向国へ入り伊東家元家臣団も加わり長倉佑政は国人衆を調略し米良氏などを調略することに成功します。

縣城主の智勇兼備の将だった土持親成を囲い込み義久のとの連絡を絶ち攻撃を仕掛けていきました。どうすることもできない親成は降伏を願いでるも聞き入れてもらえず討ち取られてしまいます。耳川北部を制圧されてしまった義久は、耳川南側まで後退するも島津忠長らを佑政がいる石ノ城攻めを任せるも五百人ほどの死傷者の被害が出たため止む無くまで撤退しました。

\次のページで「義久に対して追い風が吹く」を解説!/

義久に対して追い風が吹く

このままでは宗麟との戦に集中出来なかったため、伊東氏を先に掃討することを決意した義久。8月には伊東氏の家臣団が守る日向上野城と隈城を9月には攻略することができ勢いづくと室町幕府足利義昭将軍から文が届きました。

内容は、織田信長を包囲するにあたり毛利氏が動いてくれないのは宗麟に背後を脅かされているからだと思うといい義久に対して宗麟が毛利領を攻めさせないようにと書かれています。これを読んだ義久は、朝廷の大義名分を得たことで宗麟を撃退するべく更に兵を動員しました。

島津方の猛攻に耐えられず石ノ城は降伏している間に大友軍は、耳川を南下し島津要衝の高城を包囲します。

囮先鋒

高城包囲をされる前に佐土原城の家久は、三千の兵を率いて山田有信と共に籠城し大友軍の鉄砲そして大筒攻撃を懸命に耐えきりました。義久も三万の兵を率いて鹿児島を出立していて先に義弘が財部城に入り軍議をします。

松原に布陣する大友軍は宗麟が不在のため、団結力に欠けていた状態で田北鎮周が無断で攻撃を仕掛けていきまんまと策略にはまり撃退されてしまいました。これが義久が考案したとされる釣り野伏で、島津軍を大きく勢い付かせます。

緒戦で敗走した大友軍は、講和を願い出る者と交戦を主張する者に分かれてしまいますが結果として交戦することになりました。一方で軍議内容を知った義久は事前に兵を伏せておき手筈通りに攻撃していき大友軍は壊滅し大友軍軍師の角隈石宗らを討ち取り勝利した義久。

釣り野伏

野戦において囮部隊と伏兵部隊の三部隊に分けて、まず中央部隊を囮部隊で編制し逃走ルートになる左右に兵を伏せておきます。そして中央の囮部隊が敵軍中央から攻撃を仕掛けていき、少し戦い敗走を装いながら予め兵がいる地点まで逃げていき敵兵が伏兵地点までくると一斉に攻撃を仕掛け撃退する戦法。

島津義久によって発案し実践された戦法ですが、類似した戦法を立花道雪なども行っていました。

大友氏の衰退と龍造寺氏の台頭

耳川で壊滅した宗麟は有力な将らが討ち取られたり、離反者が相次ぎ衰退していきます。そこに勢力を拡大してきたのが龍造寺隆信でした。耳川の戦いが起きる前には宗麟と和睦していたことで立場的には宗麟のほうが上でしたが、義久によって宗麟は衰退しその後を継いだかのように隆信が義久に対抗していきます。

有馬晴信が隆信から離反し晴信は義久に援軍要請をかけていきました。それに応じた島津軍は龍造寺方の城を次々と攻略していき森岳城へと入城し晴信と共に軍議を行います。晴信は最初に大軍を待ってから攻めたほうがいいのではというも家久が、これまで劣勢な状況でも勝利していきたので防御しつつも攻撃に転じていくといい納得した晴信。

これにより森岳城を中心に兵を伏せていきました。

隆信との決着

隆信は島津・有馬連合軍の兵が少ないことを知ると、容易に勝利できると思い敵軍と軽視しました。1584年8月4日の八時頃に戦が始まり前線の島津軍は、敗走したふりをして伏兵地点まで誘い込み左右から鉄砲隊が龍造寺軍に対して玉を撃ち込み混乱させることに成功します。

龍造寺軍前線が崩れたことを知ると隆信は、前線の様子を吉田清内に見に行かせると諸将に対して命を惜しまず戦えと隆信がいってもいないことを伝令したことで島津軍の更なる伏兵攻撃を受けていまい壊滅に陥りました。午後の二時頃には、本陣まで攻め込み大将だった隆信が討ち取られ龍造寺軍は敗走し佐賀城へ撤退していきます。

こうして隆信を討ち取り二千人以上の兵をも討ち取った連合軍の圧勝となりました。

豊臣秀吉に臣従

大友氏と龍造寺氏を打ち破り、九州制覇も目前まで迫っていた義久に対して豊臣秀吉が立ちふさがってきます。秀吉を前にして義久はどう動いていくのでしょうか。

九州制覇目前

龍造寺氏も義久に下り、隣国諸将も服従若しくは和睦をしていきましたが衰退していたとはいえ宗麟は義久に抵抗していきました。そして宗麟は豊臣秀吉に助けを求めると秀吉は義久に対して九州での戦を禁じる文が届きます。

ところが義久は秀吉のことを無視し大友氏所有の国を次々と攻めていきました。残すは筑前・筑後のみとなり宗麟の配下だった高橋紹運・高橋統増・立花宗茂が抗戦姿勢を見せるも大軍を前に紹運は三万の兵力に耐え切れず討死するも島津軍に千人以上の兵被害を出したことで立花城を諦め豊後げ方向転換します。

緒戦を勝利するが追い込まれていく

戦を禁止にもかかわらず、一向に戦を止めない義久に向けて仙石久秀を軍監とした約六千の兵が先鋒として向かい戸次川で対峙することになりました。豊臣軍では軍議が行われ軍を待ってから仕掛けるべきだと長宗我部元親らが意見するも久秀は、川を渡り攻撃すべきであるといい久秀に従うこととなった元親達。

1587年1月20日に戸次川を渡っていく豊臣軍でしたが、島津軍が得意とする釣り野伏の策略にはまり久秀は軍を置いて先に敗走し元親の嫡男だった信親らが討死したため島津軍の圧勝で緒戦を終えました。敗北の報を受けた秀吉は、秀長率いる十万の兵を薩摩国へ向けて出立させます。

九州に上陸した豊臣軍に国人衆は義久から離れ、豊臣軍に下っていきました。

\次のページで「九州征伐で秀吉に降伏」を解説!/

九州征伐で秀吉に降伏

上陸してきたことで退却を余儀なくされ、退却するも大友軍の追撃されながら撤退しました。また有信が守る高城も包囲されるも容易に落とすことができない城だと判断した秀長は兵糧攻めに切り替えたことと有信の救援に来るであろう根白坂を抑えていきました。

大将を任されていた義弘は、秀吉から和議交渉の文が届くも受け入れず抗戦する構えを取ります。更に土豪達も秀吉に下っていき窮地に立たされていた義久は、有信を見捨てる分けにもいかず根白坂で豊臣軍と交戦していきました。

義弘が夜襲作戦で攻め立てるも藤堂高虎と黒田如水の援軍によって失敗に終わり、島津家臣達も降伏し遂に秀吉の降伏。1587年5月中旬に義久が秀吉と面会し正式な降伏となり義久は髪を剃り落とし龍伯と名を改めました。

関ヶ原で西軍として加担から義久の最後

秀吉によって九州が平定されたことで九州制覇を成し遂げられなかった義久。そして秀吉の元で、反感を買いながらも臣従していき関ヶ原に無理やり参戦していくことになります。

朝鮮出兵と弟の死

秀吉に臣従したことで薩摩一国を安緒されるも、島津家中内で秀吉に対しての反発が強い状態にありました。そして明国を手中に収めたいと思った秀吉は、朝鮮出兵を決意し各国大名を明へ派遣することになります。

この時に義久にも派遣要請がくるも義弘に一万程度の兵しか預けず軍役を果たしておりませんでした。また朝鮮出兵時に家久家臣の梅北国兼が一揆を起こし加藤清正の城を攻め落とす梅北一揆が発生します。島津氏がと秀吉に対して不服姿と思った秀吉は、家久の首を要求し義久は兵を仕向け家久を自刃させました。

家久が亡くなったことで赴いた島津兵は声を上げて涙をこぼしたとされています。

秀吉亡き後

朝鮮出兵は秀吉が亡くなったことで大名らが帰国してきますが、義弘と忠恒の現地での活躍もあり五万石加増されました。秀吉亡き後は嫡男秀頼が継ぎ後見人として徳川家康と前田利家の二人に任されます。

更に秀吉の遺言として、何を行うにも五大老と五奉行の元で話し合いによって決めることになっていましたが家康は勝手に諸大名と縁組をしてしまいました。これを見た利家は追及するべく家康を問い詰めていくも誓書を交換するなどして戦は回避されます。

しかし、1599年に利家が亡くなったことで家康に対抗できる大老がいなかったことに加え奉行派と武断派の関係が更に悪化していきました。

東軍に加わる予定だった島津氏

兼ねてから家康から東軍に与するよういわれていた義弘は、軍を率いて鳥居元忠が守る伏見城へいくと元忠はそんなことは聞いていないといい入城を拒否されます。この時既に輝元が家康に対して挙兵し三成ら西軍が伏見城に迫っていました。

この状況で東軍に加勢することが出来ないと判断した義弘は、西軍に加わり共に伏見城を攻略していきます。義久と恒忠は小西行長の所領が清正に攻められた時に救援を送り交戦していました。しかし、宇土城を攻め落とされ小西行重らを受け入れた後に撤退し佐敷城を攻撃していきます。

長引くと思われていた関ヶ原もわずか一日で雌雄を決し家康の勝利となりました。

所領が減らされることがなかった唯一の大名

西軍の敗北となり徳川家忠が薩摩征伐の総大将に任命されました。九州では争いが続いていた状態で、黒田如水を筆頭とする薩摩攻めが計画された後に家康に書状を送ります。しかし薩摩攻めを計画していたものの、並行して和議交渉も進められていて1600年11月11日に義久は和議を了承し薩摩攻めが中止となりました。

その後、義久は家康との講和交渉を始めていき病や金銭不足など様々な理由を付けて上洛をせずに忠長や恒忠らを上洛させます。また如水や清正や宗茂が朝鮮出兵で助けられた恩義から島津氏の所領安堵に向けて積極的に動いていったことで家康が折れ改易されることなく本領安堵が下りました。

義久の晩年

改易を免れてた後に、島津当主の証だった御重物を正式に恒忠に渡し隠居しましたが依然家中内では発言力がありました。そして隠居先として舞鶴城を築き移り住みました。家督を継いだ恒忠でしたが義久の娘だった亀寿との間に子供が出来ず島津久信を次期当主にしようとするも家臣の反対にあい失敗に終わります。

1610年頃には、義弘と恒忠との不仲が噂されるも逸話として三人で談笑したと記録されていて実際のところは分かりませんが島津内で三人の権力体制があったため不仲という噂が立ったとも考えられました。そして舞鶴城で病により1611年に亡くなります。

島津氏の最大勢力を築き上げた

貴久の代で島津基盤を作り義久にて九州制覇をあと一歩まで迫り島津家を大いに盛り立てた義久でした。義久の手腕は戦だけに限らず、鹿児島でタバコを奨励し貴重な収入源としたことに加えて島津二十か条の掟を作り民の豊かな暮らしにするため尽力したともされています。

また兄弟思いな一面も残されていて島津四兄弟と称されているものの、家久だけは腹違いで生い立ちを気にしていると重要なことは心の徳であり学問などを磨くことによって父や母に劣らない存在になるであろうといったようです。

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今回は父の島津貴久を意志を継ぎ薩摩を平定し九州地域をあと一歩で支配することができた島津義久について学んでいきます。

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そんな島津義久について歴史ライターwhat0831と一緒に解説していきます。

ライター/what

学生時代は、沢山の歴史本を読み知識を深めた歴史好きのサラリーマン。特に、戦国時代が大好きであり、武士に憧れている。父貴久の子供として長男として誕生した義久。今回は祖父の忠良からも総大将の器有と称された義久の幼少期から見ていく。

島津家四兄弟の長男

島津四兄弟として後に名をはせた長男義久。まずは義久の生い立ちと初陣のところを見ていきましょう。

貴久の嫡男

Yoshihisa shimadzu.jpg
By Ginger1192投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

1533年3月4日に忠良の拠点だった伊作城で誕生しました。この頃の薩摩一帯は島津分家同士で争いが絶えない状態で、忠良と貴久は動乱の世を渡り歩いていきます。

義久が誕生した同年は、貴久が初陣していて薩摩守護職だった島津実久と争っていました。幼少期は虎寿丸と名付けられていて、大人しい性格をしていてとても戦場で生き残れるような子供ではなかったようです。

次男の義弘と共に元服

1546年に弟だった義弘と共に元服の式を済ませ晴れて大人の仲間入りを果たします。元服時には名を虎寿丸から又三郎忠良と祖父と同じ名を命名されました。名前から分かる通りで忠良は、特に義久を溺愛していたことが伺えます。

また溺愛はしていたものの、島津家次期当主として厳しく接していき日頃の振る舞いから徹底して叩き込まれていたため大人達の前では物静にしていました。祖父からは人との接し方を学び、父からは戦を学んでいったことで兄弟を家臣を大事にしていく総大将となったのでしょう。

薩摩の平定に向けて

1554年に貴久が大隈の蒲生氏らを攻め入る時に、初陣をかざります。弟だった義久と歳久も同様に初陣を果たし岩剣城攻めに参陣していきました。

岩剣城緒戦にて奮戦する

image by PIXTA / 48888539

1554年に貴久と因縁の関係にあった実久が亡くなり、まず薩摩平定に向けて準備をしていきます。この時に立ちふさがっていたのは、蒲生氏と渋谷一族でした。まず岩剣城を攻略することを決めた貴久は、三兄弟に対して着陣場所を指示をして無駄死にならないようしっかりと奮戦し負けそうになったら恥を忍んでも逃げてくれといい伝えます。

そして岩剣城の緒戦として、重富の地で祁答院氏と対峙しました。貴久の弟だった忠将が先鋒役で鉄砲を撃ちかけて開始すると兵力で優位と思った祁答院軍が帖佐城から討って出てきました。これを見た三兄弟もすかさず兵を率いて討って出ていき、目付け役の川上忠克の掛け声もあって敵将を討つため猛追すると祁答院軍は気迫に押され忽ち帖佐城に逃げ帰っていきます。

帖佐で鉄砲の初運用

臆することなく戦い島津軍を勝利に導いた義久ら兄弟でした。これにより岩剣城を包囲していた島津軍の士気も上がり、島津方が優勢となります。

しかし祁答院氏が守る岩剣城は、三方が岩山で囲まれている堅城で容易に落とせる城ではありませんでした。貴久と義久兄弟達が祁答院氏と一進一退を繰り返していると、援軍として祁答院重経が加治木城の兵を一部割いて岩剣城に向かっている知らせが入ります。

これに伏兵で対応するべく、思川に通りがかった時に横から鉄砲を撃ちつけ三千あまりの兵達は恐怖で四方八方に逃げ島津軍が追い打ちをかけ見事打ち負かしました。

岩剣城決着

援軍を初の鉄砲運用で撃退したところ、岩剣城の攻撃が弱まったため義久らが岩剣城の包囲網に加わりました。城から弓矢攻撃が無くなり義久と義弘らが手勢を引き連れて移動していると、島津軍の上から化粧箱が降り注いてきます。

そのうち攻撃が止むと女性達とその子供は、城から身投げをしていき深い谷底に落ち自害していきました。義久らが岩剣城へ到着し城内を見ると、城主の祁答院良重が夜のうちに逃げたことが残された兵によって明らかになります。

こうして堅城と呼ばれた岩剣城が落城しました。

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