日本史

島津家の基盤作りをした「島津貴久」を戦国通サラリーマンが徹底解説

立ち塞がる渋谷一族と蒲生氏

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三国平定まであと少しというところまで来ていましたが、肝付氏と共に降伏した渋谷一族と蒲生氏。両氏は降伏したにもかかわらず貴久に臣従することなく五年間に渡り力を蓄えていました。兵力が整ったところで先手で貴久を攻めるために挙兵します。

渋谷一族の取りまとめ役を担っていた祁答院良重は、堅城と呼び声高い岩剣城を拠点としていました。岩剣城を囲い緒戦を勝利した貴久でしたが、守りの硬く一進一退を繰り返していた形で膠着状態になります。しかし祁答院氏の援軍として嫡男の重経が兵を率いて加治木平野で貴久と対峙してきました。

この戦で鉄砲を戦術として初めて利用し三段構えで配置を行い、鉄砲の空き時間を無駄にすることなく連射したことで重経の軍勢は瞬く間に退いていきます。この様子の目の当たりにした良重は、城内の民を置き去りしたまま退却していき岩剣城を攻略し加治木城を包囲していた兵も蒲生氏の拠点まで退却しました。

蒲生氏との決着

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祁答院氏を退かせることはできたものの、蒲生家当主の蒲生範清が健在でした。貴久は蒲生氏が守る龍ヶ城の支城から攻略していくことを決め、祁答院氏が守る帖佐平佐城を攻略し松坂城と北村城と続け様に攻略していき残るは龍ヶ城のみとなります。

龍ヶ城にて激しい攻撃を重ねていき遂に、蒲生氏から降伏する書状が届くも北村城攻めにて騙し討ちをされた経緯があり貴久は悩んでました。議論している最中に、龍ヶ城に火を放ち退却していきます。これにより大隈西国を手中に収めた貴久は、領土拡大への足掛かりとしていき途中で家督を義久に譲りました。

旧領を平定させることを義久が継ぐ形で、領土を拡大させていくも裏切りが相次ぐ中で肝付氏の加治木城を攻略中に死去します。

貴久の子供達

貴久は一度、肝付氏の娘を正室に向かえるも早死してしまい入来院氏の雪窓夫人を後妻にします。そして後世に名を轟かせる島津四兄弟が誕生しました。四男の家久だけは側室から生まれているので雪窓夫人からは三人誕生しています。

貴久は四兄弟に平等に接していき兄弟内で争いが起きないようにしていました。また忠良からは、義久は総大将としての素質が備わり義弘は武力を持って傑出し歳久は知略が秀でていて家久は軍法戦術に妙を得たりと四人を高く評価しています。

危機的な立場から自国の領土回復

若くして一時的な当主になるも薩摩一帯で、戦が頻発していたことと島津家の同族争いがあり三十八歳にてようやく島津家の当主に返り咲きました。この年齢で当主となった大名は、調べた限りですと貴久しかおらず自国を平和にするのも容易ではなかったでしょう。

また子宝に恵まれていたことと、実久方だった将らを老中として起用していき徐々に懐柔させていき義久が当主となっていた後も島津家のために奔走してくれたことで一枚岩の島津軍団となることができました。また忠良との二人三脚で勢力を拡大していき、暴動が起きないように掟を定められたことも日学を開いた忠良がいてこそ貴久が自由に行動できたのだと思います。

教学関連では織田信長が初めて鉄砲を扱い長篠の戦いで勝利したことが一般的ですが、一番最初に実戦で利用したのは貴久であり三段構えも貴久が発案したものでした。地方歴史を正確に知ると今までの知られていることは違った歴史発見ができるのではないかと思います。

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