日本史

島津家の基盤作りをした「島津貴久」を戦国通サラリーマンが徹底解説

守護職の行方

実久との戦いの後に、自国領民に対して守るべき掟を作り上げ領民達は掟をしっかりと守っていきます。また実久と勝久の二人を隠居させるまで追い込み、有していた領地を貴久は自国領土としました。しかし、勝久から養子解消されている状態で正式な守護職かどうか分からない状態になっていたようです。

この状況を見た勝久の老中を担っていた、肝付兼演や島津忠弘ら勝久の嫡男だった益房を擁護し忠良と貴久に対抗するべく挙兵しました。初めに生別府の樺山善久を攻めていくも手勢も僅かならも奮戦し撃退することに成功します。

そして益房の擁護で動いていた本田薫親も善久の空領地を与えるといい忠良は、益房方の崩すことに成功し反貴久連合は瓦解していくことになりました。

大型船が座礁したことで新たな武器が見つかる

image by PIXTA / 13073617

反貴久連合を破り薩摩平定へと歩みを進めていく貴久でしたが、1543年8月に大型船が種子島付近で座礁してしまいます。よく調べていくと異国船だと分かり、乗船している人に確認していくとポルトガルから明へ向けて船を進めていたところ岩場に乗り上げてしまいました。

この時の種子島の領主は種子島時堯です。時堯に確認を取り船内を見ていくと鉄の筒なるものがあり、使い方を聞いてみると弓矢よりも力を使わず凄まじい威力を見せられた時堯は鉄砲を二丁買い付けました。

買い付けた鉄砲の複製を作るべく時堯は、家臣に命じて複製を作らせたうえに硝石も作ることに成功し貴久に使い方を教えた後に室町幕府にも献上されたようです。

朝廷からの勅使

鉄砲を発見した二年後の1545年に、朝廷からの勅使を持って貴久の下にやってきました。朝廷からの勅使によって貴久は薩摩の国主として認められることになり、正式な官職の修理大夫を授かります。長きにわたり戦を続けてきた貴久はようやく正式な島津家当主となり隣国の国人達も認める形で従軍していきました。

それでも、貴久に反抗する勢力が無くなったわけでないことと和睦していた本田薫親も独断行動が多く手を焼いていた状態です。

反抗する勢力を討ち取る

長い年月をかけてようやく当主へと返り咲くことができた貴久。しかし未だ反抗する勢力が多く和睦した将も離反する事件が起きました。度重なる戦で勝利を重ねていくところを見ていきましょう。

領土拡大への障害

隣国の国人達が相次いで貴久の軍門に下っていくと、貴久の知らないところで独断行動をして朝廷から官職を授かろうとしていた薫親。また貴久に下った将らに貴久を討ち取ろうとけしかけた書状を送り貴久を討ち取ろうとしていました。

この書状を持った本田氏の飛脚を捕まえた忠良は、薫親を討ち取ることを決意。清水城を貴久の弟だった忠将を先鋒として攻め落城させるも薫親は、逃げ出してしまい北郷氏を頼ったとされていますが行方しれずとなってしまいます。

また、出水に隠居していた実久も細々と貴久に抵抗しておりましたが1553年に病死し後を継いだ義虎は貴久を守護として認め臣従しました。

残る旧体制派の一掃

本田氏が雲隠れするも、書状が送られたことで反旗を翻した肝付氏。加治木城を攻略するため、伊集院忠朗が先鋒となり日木山川を挟んで肝付兼演と対峙しました。川で距離が詰められないため両軍とも弓矢で攻撃を仕掛けていく状態が続いています。

弓矢が射られている最中に凄まじい怒号がなり肝付方の兵が討ち取られていき、何が起きたか分かっていない兼演は撤退していきました。忠朗はこの戦いで初めて鉄砲を使用するよう、貴久からの言付けがあり試験運用されます。

肝付方は加治木城まで撤退していき守りを固めました。その間に北郷忠相が降伏するよう使者を送るも兼演は頑なに拒否します。そして重臣忠朗の嫡男だった忠蒼が火計を推進し1549年12月に加治木城から火の手が上がり肝付氏は遂に降伏し実久から続いていた旧体制派を一掃しました。

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