実久との対立
実久と勝久によって島津家を追放されてしまった貴久。しかし、再起を図るべく忠良と共に実久らを倒すために反撃していきます。
勝久と老中問題
勝久を実久のおかげで再び守護職へ復帰し、自分の力を発揮していくつもりでいましたが老中との関係が改善されていない状態でした。老中との問題は、勝久の代からでなく先代からで自身が当主となった時にも自分に近い部下を起用する動きを見せています。
この動きにも反感を持っていたことと、貴久が養子となることも反対しておりました。貴久が当主となるよりも前に、老中達は実久と繋がっていて実久に肩入れをしていたようです。老中との関係性は最後まで改善されることはありませんでした。
老中達の謀反
関係が改善が見込めない老中達は、新しい宗本家の当主を実久とするために勝久を追い出す準備をしていきました。1535年に実久を擁立した形で勝久に謀反を起こしていき勝久は追放され新当主として実久を起用します。また、薩摩守護職も引き継がせていて一時ではありましたが名声ともに薩摩守護としての地位を確立させました。
その間に忠良は、薩摩半島の伊集院氏などを味方にして実久に対して挙兵します。1536年に一宇治城を攻略し鹿児島攻めの拠点としていきました。また追放されていた勝久もこのまま黙っているわけにもいかなったため、北原氏らと協力して老中達へ反撃していくも初戦に勝利したものの徐々に追い込まれていき忠良と貴久を頼ります。
忠良と貴久らによって実久の勢力を次々と落としていき、勢力を拡大させていきました。
実久を打ち破る
鹿児島へ向けて攻めていく忠良と貴久を脅威となり追い込まれていく実久。また実久の本拠地だった出水と鹿児島までは距離があったため、牽制役として渋谷氏一族と同盟しました。1538年に南薩摩に置ける重要拠点だった加世田城へ侵攻していきます。
何としても落とされたくなかった最大拠点でしたが、大山内蔵介が守る加世田城を新納康久らの活躍により見事攻め落とすことができました。そして1539年の3月に忠良は、実久方が守る苦辛城から谷山本城・神前城をことごとく攻略していき実久は敗戦に次ぐ敗戦で出水へと撤退していきます。
同年6月には市来鶴丸城を貴久が攻めていくも難攻不落の城だったため、落城させるまでに六十日要して攻略しました。これにより、実久領土はほぼ忠良と貴久に制圧されてしまい守護職を失い隠居。
遂に島津家当主へ
実久を倒し、急激な台頭に隣国大名達は驚いていました。しかしながら薩摩の中でも忠良と貴久に屈服しようと思わず、戦を仕掛けていく国人達がいます。
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