日本史

島津家の基盤作りをした「島津貴久」を戦国通サラリーマンが徹底解説

「よぉ、桜木建二だ。」今回は、九州地域で名をはせた島津貴久について紹介していくぞ。九州の薩摩を貴久の代で統一させ島津家を台頭させた人物であるとともに戦国時代で一番最初に火縄銃を使ったことで知られている。

島津家を大きくしていく様子を歴史ライターwhat_0831と一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/what

島津を始め西国の将が大好きな戦国通のサラリーマン。今回島津の英雄と呼ばれた貴久の逸話や戦などを解説していく。

島津家の分家として誕生した貴久

image by PIXTA / 54705302

島津家は非常に分家が多く、貴久も分家で生まれて生きていきます。貴久が生まれた時代の薩摩は多くの国人が自勢力を持っていたため戦が多かったようです。

一族での争いが絶えない島津家に生まれる

1514年5月14日に島津氏の分家だった島津忠良の下に生まれてくる貴久。父である忠良は伊作家の出身でもあり伊作忠良と呼ばれていることもあれば、日新斎と称されていることもあります。日新斎と称されていた理由は、桂庵玄樹から薩南学派の祖を学び独自に儒学・神学・仏学の三教を合体させた一流を日新と呼ばれていたことで日新斎と称されていたようです。

幼少期の名は、虎寿丸と名付けられ幼い時から利発に優れた子供であり将としての器量も高いと周りから評価されていました。室町時代から島津家は同族同士で争いが続いており十一代目の島津忠昌は状況を変えるために桂庵玄樹を呼び学問を学ぶも相次いで国人衆が挙兵し国を変えることができないと思い自害してしまいます。

その後も十二代・十三代と相続していく島津家でしたが、早世したことで弱体の一途を辿っていました。

十五代目を相続し当主となった貴久

島津家十四代目の勝久が継いだ形となるも、弱体化をしていて基盤は弱まりつつあったことに加え薩州家の五代目当主だった島津実久が急激に勢力拡大をしていました。この影響により自身だけで勢力を保てないと判断した勝久は、伊作家を頼り忠良の力を借りることにします。

そして、伊作家の老中がつ多く起用されたことで勝久ではなく貴久を推進する者達が増えていき貴久を勝久の養子に迎え入れ国政を委ねて隠居してしまいました。こうして十五代目島津氏を十三歳という若さで引継ぎ当主となります。

当主となるも反対派によって追い出されてしまう

忠良と共に勢力を拡大することを目的に動いていこうとするも実久は、家督相続に不満を持っていました。そこで自身が収めていた実久方の伊集院重貞らを叛旗させるも忠良が迎え討ちます。その間に兵を動かし忠良所領の城を攻め落としていき、実久方の将によって勝久は守護職へ復帰するように説かれると1527年5月には勝久と貴久の養子縁組が解消されてしまいました。

自らの領土と名声を回復していくと思われた勝久でしたが、部下との関係性は悪い状態で後に反感を買うことになります。

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戦だけでなく、学問に秀でいたことでも知られていて島津家の基盤作りを成すうえで欠かさないことになったようだな。また勝久から家督を引き継いだとあるが、勝久の周りには忠良縁の老中がいたことと家の立て直しが重要となりを貴久を当主にさせたことだといわれているようだ。

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