日本史

伝統芸能「歌舞伎」の成り立ちを歴史マニアが5分でわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ。日本の伝統芸能にして、重要無形文化財およびユネスコの無形文化遺産に指定されている「歌舞伎」だが、観に行ったことはあるか?

若者には敷居が高く感じるかもしれないが、今回はそんな歌舞伎について歴史マニアで義経関連の歌舞伎演目の研究をしていたライターのリリー・リリコと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。義経関連の歌舞伎演目の研究をしていた。

歌舞伎はどこから来たの?

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歌舞伎の原点・出雲阿国

歌舞伎の草創は1603年(慶長八年)、出雲大社の巫女・阿国(おくに)が京都の五条や三条、北野神社で興行を始めたのが最初とされています。阿国の興行では、黒い法衣に首から吊った鉦(かね)を叩きながら念仏踊を踊ったり、派手な衣装で男装をして胸に十字架を付けて踊ったりと、現代の「歌舞伎」とはちょっと違いました。また、そのころは「歌舞伎」ではなく「かぶき踊」と呼ばれます。

そして、ちょうどこの頃、京都を中心に「かぶき者」と呼ばれる若者が増えていました。「かぶき」とは、「傾(かぶ)く」という意味で、つまり、江戸幕府の体制や規範を拒否したアウトローたちのことです。幕府にとっては悩みの種である彼らは、しかし、庶民には恰好よく思われ人気がありました。

阿国が演じた「かぶき踊」は、まさに、この「かぶき者」を模したものであり、さらにそこに男装など性別的倒錯が加わって、彼女の踊りは爆発的な大ヒットとなります。四年後には、江戸城中で勧進(お寺の建立、修繕の寄付を募ること)のための「かぶき踊」を演じるまでになったのです。

遊女歌舞伎、若衆歌舞伎の登場

阿国の人気にあやかって登場したのが遊女歌舞伎です。六条三筋町の遊郭の楼主たちがお抱えの遊女たちを男装させ、四条河原に作った劇場で演じさせました。遊女歌舞伎には当時最新の楽器だった三味線や、高級な虎の毛皮などが使われています。この贅沢さが人々に受け、多くの観客が激情に足を運びました。遊女歌舞伎はこれまでの阿国歌舞伎に取って変わって大流行したのです。

また、遊女歌舞伎と同時期に若衆歌舞伎も登場しています。「若衆」というのはいわゆる美少年のことであり、遊女と同じような立場の少年たちでした。

しかし、遊女歌舞伎と若衆歌舞伎は、遊女や若衆が演じるものであり、目的は廓に通ってもらうことです。そのため、彼らを巡っての喧嘩や風紀上のトラブルが絶えず、1629年(寛永六年)に徳川幕府によって遊女歌舞伎・若衆歌舞伎の一切が禁止されてしまいます。

成人男性男性限定の野郎歌舞伎

ここまできてようやく現代に続く野郎歌舞伎が登場します。若衆たちは前髪を垂らした少年だったのに対し、野郎歌舞伎の役者たちは前髪を落として、月代(さかやき)を剃りました。この「野郎頭」の男子しか、舞台に上がることを許されなかったのです。

若衆たちのシンボルだった前髪を落としたので、若衆歌舞伎のような官能的な踊りだけでは当然流行りません。そこで役者たちは技芸を磨きはじめます。初期の阿国のかぶき踊などは短い踊りと寸劇、フィナーレの大踊りという構成でしたが、野郎歌舞伎に移行した後は寸劇は長い芝居へと変化していきました。

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女から少年へ、少年から成人男性へと役者を変えてきた歌舞伎。裏の事情はずいぶんと艶っぽいが、その下地がなければ今日まで続く芸能は生まれなかった。

元禄文化の中で育つ歌舞伎

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発展する歌舞伎とジャンルの確立

「市川團十郎」は現代でもとても有名な歌舞伎役者さんですね。その一番最初、初代市川團十郎が登場したのが元禄年間(1688年~1704年)、徳川綱吉の時代です。元禄は政治的、経済的に安定した期間であり、文芸・文学・芸術部門が非常に発展した時期でもあります。

歌舞伎は成人男性中心の野郎歌舞伎へと移行しましたが、その中でお芝居のジャンルがふたつに分かれていきました。ひとつは、上方で流行した「和事(わごと)」です。これは、阿国歌舞伎のころから行ってきたような男女の恋慕や濡場の様子を題材にしたお芝居でした。もうひとつは「荒事(あらごと)」。初代市川團十郎を中心として創始された雄々しい芸風です。荒事は江戸の活気溢れる場や関東人の荒々しい気質とがマッチして大変なヒットとなりました。

スター誕生! 市川團十郎から近松門左衛門まで

元禄文化では小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浮世絵の菱川師宣など様々な芸能者たちが生まれました。歌舞伎においても、初代市川團十郎をはじめ、初代坂田藤十郎、初代芳沢あやめなどのスターが誕生します。三人とも現代に残る名前であり、今もご襲名された役者さんがいらっしゃいますね。市川團十郎は今や当たり前となった隈取や六方の足拍子、見得を切る所作などを演じて人気を博します。初代藤田藤十郎は貴人流離譚系の「やつし事」や「和事」を得意とし、初代芳沢あやめは女形として活躍しました。

役者が揃う一方、シナリオもしっかりしたものでなければ観客は離れてしまいます。それまで浄瑠璃で執筆していた近松門左衛門が新作、あるいは既存の作品を歌舞伎で演じられるようにしたりして人気の作品となりました。それはもうとんでもない人気で、近松門左衛門らの心中物語に触発された心中が流行ってしまったため、幕府が心中を扱う舞台の上演を禁止したほどでした。

赤穂事件による影響

歌舞伎の中でも一、二を争う有名演目「仮名手本忠臣蔵」。この演目は江戸で起こった赤穂事件をもとにして書かれた作品でした。ざっくり説明しますと、江戸城内松之大廊下で起こった刃傷沙汰で切腹を言い渡された赤穂藩主・浅野内匠頭の仇を討つため、大石内蔵助率いる47人の元赤穂藩の武士たちが仇の吉良上野介の屋敷に討ち入りするというもの。天下泰平であるはずの江戸城内で刀が抜かれたことはもちろん、吉良邸討ち入り後に首級を下げた武士たちが町を歩くなど幕府にとって非常にショッキングな事件でした。

しかし、庶民にとってこんなニュースはありません。さっそく歌舞伎や浄瑠璃での演目になりそうなところで、事件の脚色や風刺を嫌った幕府から規制がかかったのです。そこで作家たちは登場人物の実名や時代を変え、この作品はフィクションだというていで発表するようになりました。

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関ヶ原以降、戦のなくなった世で元禄年間に華やかな文化が展開した。歌舞伎はもとより、小説に俳句、浮世絵、それに音楽界にも新しい風が吹き込む。これを鑑みて、高度成長期下の昭和を「昭和元禄」と言うことがある。

歌舞伎舞台の進化、三大歌舞伎の登場

江島生島事件による劇場の取潰し

時代は五代将軍綱吉から七代将軍家継に移り変わって1714年(正徳四年)、歌舞伎界を揺るがすスキャンダルが駆け抜けます。

江戸城の奥、将軍の正室や側室たちが住まう「大奥」。このころの大奥総取締役だったのは江島という女性です。スキャンダルとなる「江島生島事件」は、彼女が家継の母・月光院の名代としてお寺に参詣した帰り、江戸四座の山村座に寄ったことに端を発します。興行の後、彼女は部下たちと共に山村座の役者たちを招いての宴会を開いたために、大奥の門限に間に合わず門番と口論になってしまったのです。ただの言い争いは瞬く間に江戸城中に伝わり、エスカレートした挙句に評定所(最高裁判所)にまで持ち込まれることとなりました。審議の過程で江島と、山村座の看板スターだった生島新五郎の密会が疑われ、また大奥内の規律の緩みなどが明るみとなり、その咎を受けて江島には流罪の判決が下ります。

罰を受けたのは江島本人だけではありません。彼女の兄は斬首、弟は重追放。さらに、関係があったとされる生島新五郎は三宅島(伊豆諸島)へと流罪になり、彼の所属する山村座の座長・山村長太夫もまた伊豆大島に流罪、そして官許の芝居小屋だった山村座は廃座とされてしまいます。しかし、歌舞伎界への影響はそれだけにとどまりません。江戸で興行していた多くの芝居小屋は巻き添いをくらう形で簡素な劇場へと改築させられ、夕方の興行が禁止となってしまったのです。

舞台装置の進化と魅力的なシナリオ

江戸四座から三座へ減らされるという不遇を受けた歌舞伎界。しかし、それで庶民たちからの人気が萎えたわけではありません。四年後の1718年、享保年間に入ると芝居小屋の建築が進化し、それまで青空の下で行われていた舞台に屋根がつき、さらに花道やせり上げ、回り舞台など、現代と変わらない舞台装置が整っていくのです。

この進化により、それまで平面的だった舞台に奥行が生まれ、屋根を使った宙吊りや暗転による表現の拡張、花道によって役者と観客の距離感を縮めるなどして更なる人気を獲得していきました。

もちろん、シナリオ面も舞台に負けてはいません。人形浄瑠璃の演目だった「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」が歌舞伎でも上演されはじめます。

「義経千本桜」は源平合戦後に兄・頼朝に追われ、都落ちする義経をめぐる周囲の人々や、実は生きていた平家武者たちの更なる悲劇を題材とした作品です。そして、「仮名手本忠臣蔵」は先述の通り、赤穂浪士47人による主君の仇討物語。「菅原伝授手習鑑」は菅原道真をモデルとした管丞相を主人公に、菅原道真の失脚事件「昌泰の変」を描いたものでした。この三つの演目は現代でも上演されています。

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江島生島事件の関係者は1400人にまでおよび、全員何らかの形で処罰が下された大きな粛正事件だ。芸能というのは、施政者にとって目をつけやすい場所でもある。歌舞伎関係者側の視点に立つと理不尽極まりない結果になったが、それにめげず名作を生みだし続けた関係者たちのおかげで日本の伝統芸能が守られたんだ。

江戸時代から現代への移り変わり

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By Toyohara Chikanobu alias Yōshū Chikanobu – 私蔵, パブリック・ドメイン, Link

逆境がチャンスに変えていく歌舞伎

幕府からの圧力にも屈せず隆盛を極めていく歌舞伎ですが、幕末に入ると天保の改革によるキツイ弾圧や人気役者、人気作家の死去によって衰退の兆しを見せます。が、しかし、悪いことばかりではありませんでした。改革によって江戸三座などが一所に移転させられると、逆に商売がしやすくなり江戸歌舞伎の黄金期を迎えることとなります。

その後、明治に入ると日本は文明開化の波に乗って西洋文化が流れ込みました。当時の外国人の髪型を散切り頭と呼び、日本政府はこの散切り頭を推奨していくことになります。そうして「散切り頭を叩いて見れば、文明開化の音がする」と言われるほど散切り頭は文明開化の象徴となるのです。歌舞伎もこの新しい風俗を取り入れた「散切物」というジャンルを作り出しました。

新時代でも順調に進んでいるかに思えた歌舞伎界。けれど、新政府は容赦なく無茶ぶりを振ってきます。元来、歌舞伎は庶民のものでしたが、これからは伝統芸能として高尚なものへ、貴人や外国人に披露するに相応しいものにして、作り話は即刻廃止せよ、と政府からお達しがきたのです。

新たなステージへ

赤穂事件のころに受けた規制とは真逆の注文が新政府から言い渡された歌舞伎界。荒唐無稽で現実的ではない筋書をやめるとなると、それまでの脚本を作り替えなければなりませんでした。

そこで立ち上がったのが九代目市川團十郎です。彼が正確な時代考証を当てはめた史劇を上演し始めたのをきっかけに、その風潮が徐々に芸能の世界に広がっていきました。そうして、とうとう歌舞伎は誕生以来初の天皇の歌舞伎鑑賞を実現するに至ったのです。

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明治維新に第二次世界大戦、そしてテレビの普及。そんな時代の荒波を乗り越えてきた歌舞伎。俺たちがテレビを見るように、俺たちの先祖が気軽に鑑賞していたからこそ、ここまで受け継がれてきた。それは天皇という日本の象徴の目に入れて相応しいものとして昇華されつつも、そこに至るための工夫も努力も惜しまなかったからだ。

意外と観に行ける歌舞伎

歌舞伎は1965年(昭和四十年)国の重要無形文化財に、2009年(平成十七年)9月、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。江戸の世から続く芸能は現代にいたるまでの約400年の間、絶えることなく上演され続け、今なお人気の芸能です。

歴史の重みを感じると同時に、やっぱり若者には敷居が高いような気がしますね。でも、実はそうでもないんです。各劇場では歌舞伎鑑賞教室や企画展示など手の届きやすいイベントが模様されていて、存外簡単に観にいけちゃうんですよ。えいやと飛び込んでみると、別に力まなくてもいい、そんな世界がそこにあります。

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