今回はカール5世について解説していきます。カール5世はハプスブルク家出身で、ヨーロッパの3分の2もの領土を支配した王で神聖ローマ皇帝にも選出されたんです。そのため70もの肩書があった人物として有名ですね。ですがカール5世の治世は隣国フランスや異教徒オスマン帝国との戦い、そして神聖ローマ帝国内では異端との戦いの連続だったんです。

それじゃあ、ここからはハプスブルク家に詳しいまぁこと一緒に見ていきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画が好きで関連した本を読み漁っている。特にハプスブルク家に興味があり、今回はハプスブルク家随一の領土を支配したカール5世について解説していく。

1 カール5世とカルロス1世は同一人物!?

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カール5世は1500年に現在のベルギーに生まれました。ハプスブルク家至上、最も広大な領土を手にしたカール5世。そしてカルロス1世としてスペインを支配し、カール5世として神聖ローマ皇帝となった人物として有名ですよね。名前が違いますが、同一人物。この章ではカールや彼の家族について解説していきます。

1-1 70もの肩書を持つ男

カール5世とは、世界史至上最も肩書の多い皇帝です。彼は父フィリップ美公の領土、フランドル(現在のベルギー)で生まれました。フィリップ美公はカールが幼い時に死去。母フアナは精神的に不安定となり、カールはハプスブルク家で引き取られることに。そして16歳となった時に、母方の祖父フェルナンドが亡くなったためスペインを継承します。カールはこれまでフランドルで暮らしていたため、初めてのスペインでした。ちなみにそこで初めて2歳下の弟、フェルディナント1世に会うことに。

1-2 プラディーリャ「狂女フアナ」

Juana la Loca de Pradilla.jpg
By Francisco Pradilla Ortiz - Wikipedia:en:Image:Juana la Loca.jpg, パブリック・ドメイン, Link

カール5世の母フアナと言えば、フランシスコ・プラディーリャ描く「狂女フアナ」が有名ですよね。この絵では、フィリップ美公が亡くなり、未亡人となったフアナがスペイン中を棺とお供を連れ彷徨っているシーン。真ん中の喪服の女性がフアナ。周りの従者たちが疲れ切っている中、両目を見開きじっと棺を見つめています。棺には双頭の鷲が描かれており、この紋章はハプスブルク家のもの。愛するフィリップ美公が眠っています。彼女のお腹に注目すると膨らみがあり、妊娠していることが分かりますね。フィリップ美公とは政略結婚だったフアナでしたが、関係が良好だったのが伺えます。しかしそんな夫が夏に亡くなり、彼女は精神的に不安定となって半年間も国内を彷徨っているのです。とても悲劇的ですね。ちなみにフアナは実の父に幽閉され、カールが退位する前年に亡くなりました。

1-3 ハプスブルクの遺伝

ハプスブルク家と言えば、有名なのが遺伝ですよね。とりわけカール5世は遺伝が強く表れていました。彼の顎はとても大きく、噛み合わせがとても悪かったため常に口が開いていたというエピソードが残っています。

1-4 当時のファッション

カール5世の時代の男性のファッションにコードピースがあります。これはもともと戦争で兵士が股間を保護するために付けていたもの。これがかっこいいとなり、当時の男性に流行することに。カール5世をはじめ、同時代人には離婚問題で揺れたヘンリー8世、息子のフェリペ2世などがコードピースを付けた肖像画が残されています。現代人の感覚だと少し勇気のいるファッションですね。

1-5 フアン・デ・アウストリア

カール5世には有名な庶子がいます。フアン・デ・アウストリアです。彼はカールと町娘バルバラの息子。フェリペ2世の異母兄弟のフアン・デ・アウストリアは、後に軍人となりレパントの海戦で総司令官として活躍します。そしてネーデルラント総督になりますが、病死。遺体はエル・エスコリアル修道院へ埋葬されることに。ちなみにカールの庶子はフアンの他にパルマ公へ嫁いだマルガレーテ王女も。

\次のページで「2大航海時代のスペイン」を解説!/

2大航海時代のスペイン

カール5世の治世では大航海時代に突入していました。スペインはアメリカ大陸からもたらされた銀によって多くの富を得られるように。しかしスペインの繁栄の裏では先住民らが虐待や過酷な労働を強いられていたのです。それでは詳しく見ていきましょう。

2-1 スペインの征服者たち

16世紀になると、アメリカ大陸にスペイン人たちが次々やってきました。スペイン貴族コルテスは580人で大砲や騎馬で攻め込み、アステカ帝国が滅亡。またスペイン軍人のフランシスコ・ピサロは180人でインカ帝国を滅ぼすことに。ちなみに彼ら征服者のことをコンキスタドールと呼びます。ところでなぜコルテスやピサロはわずかの兵士で滅ぼせたのでしょうか。それはアステカ人らが大砲や馬を目にしたことがなく、圧倒的な軍事力の差があったためと言われています。

2-2 ラス・カサスの告発

征服後、スペイン人らは現地の人々から収奪や文化の破壊を繰り広げるようになりました。またカールがエンコミエンダ制と呼ばれる、征服者や入植者が土地や先住民らの統治を任せる制度を敷きます。これによって先住民たちは過酷な労働を強いられることになったのでした。

こうしてスペインに銀が大量に流入することに。ところがその多くがカール5世の戦争費と宮廷を維持するために費やれました。ドミニコ修道会士だったラス・カサスは、アメリカ大陸で先住民たちがスペイン人によって虐待や強制労働を強いられている現状に対し、カール5世に告発。彼は先住民らの待遇の改善を求めたのです。

2-3 なぜ海外進出をしたのか?

ところでなぜ当時のスペインやポルトガルは海外進出をしたのでしょうか。それは香辛料を得るため。当時の香辛料(その他アジアの交易品)は、アジアからオスマン帝国、そしてイタリア諸都市という流れで流通。オスマン帝国が陸上の交易を握っていたのですね。このため、ヨーロッパの人々が手に入れるには値段が高騰。そのため、アジア航路を開拓することができれば多くの富が得られると考えたからでした。

ちなみにスペインとポルトガルは互いが進出で紛争にならないように、1494年にトルデシリャス条約を結んでいます。この条約によってアジアへはポルトガルが、ブラジル以外のアメリカ大陸へはスペインが進出するように。

3他国との戦争

カールは16歳でスペインを(カルロス1世として)継承、そして神聖ローマ皇帝にも選ばれ、晴れてカール5世として戴冠しました。しかしスムーズに皇帝の座に就いたわけではありませんでした。そこにはフランスのフランソワ1世が立ちはだかっていました。またオスマン帝国、スレイマン1世の脅威にもさらされることに。ここではカール5世が戦いに明け暮れていく様子を解説していきます。

3-1 フランスとの因縁

カールは19歳の時に神聖ローマ皇帝に選ばれました。通常ならば、7人の選帝侯が皇帝を選ぶのですが、暗黙の了解で1438年以降ハプスブルク家が世襲していたのです。しかしここへフランスのフランソワ1世が名乗りを上げます。フランソワ1世にしてみれば、フランスの周りはハプスブルク家の領地ばかり。危機感を持っていたわけですね。そして打開策としてローマ教皇と共謀し、立候補することに。

3-2 神聖ローマ皇帝の座を争う

フランソワ1世が立候補したことで、神聖ローマ皇帝の座を争うことになったカール。彼はフッガー家から多額の借金をして選帝侯らを買収することに。そしてこの借金を無くすためにスペインへ重税を課しました。さらに雇っていた傭兵の給料も払えなくなる程の事態になったのですが、カールは見事神聖ローマ皇帝の座を手にしました。

\次のページで「3-3 イタリア戦争 」を解説!/

3-3 イタリア戦争 

Battle of Pavia.jpg
By ベルナールト・ファン・オルレイ - Bernard Van Orley, The Battle of Pavia, RIHA Journal., パブリック・ドメイン, Link

カール5世とフランソワ1世は神聖ローマ皇帝の座を争っただけでなく、生涯で4度も戦いました。イタリア戦争の内の1つに数えられる、1525年のパヴィアの戦いではフランソワ1世を捕虜にします。カールはフランソワに対して不平等な条約を結びますが、フランソワは解放されるや否や条約を反故に。そしてあろうことかローマ教皇までがそれを支持したため、カールはローマへ兵を送ることに。

この絵画の画面中央から右手前には馬に乗った女性がおり、豪華に装飾された馬もいますね。これはフランソワ1世の本陣。カールは夜の闇に紛れ、この本陣に正面から襲い掛かりました。ちなみに画面左側では同じような派手な衣装を着た兵士が戦っていますが、仲間割れではありません。彼らはドイツの傭兵で、カール側にもフランソワ側にも雇われていたのです。

3-4 ドイツ人傭兵によるローマ略奪

パヴィアの戦いから2年後。カールはローマに兵を送りました。当時の兵士は、傭兵が盛ん。傭兵といえば、スイスの傭兵を思い浮かべる方も多いかもしれませんが、この時はランツクネヒトと呼ばれるドイツ人傭兵が活躍。ちなみに傭兵はとても派手な格好をしていました。しかしこの時カールは傭兵らに給料の支払いをしていなかったため、傭兵らが暴徒化する事態に。これによってローマは虐殺や強姦、そして略奪されます。通常なら戦争に勝った者の略奪は認められていましたが、これは余りにもひどいものでした。一説にはローマの人口が3分の1にまで減少したと言われるほど。これによってイタリアのルネサンスは終わりを迎えることに

3-5 オスマン帝国の影

フランスとの戦いは4回中3勝1引き分けで圧勝したカール。しかし彼の敵は隣国フランスだけではありません。あろうことかフランスは異教徒であるオスマン帝国と提携してカールを打ち負かそうと考えたのです。これによってカールは戦争費用を賄うため、ルター派を黙認することに。カールはかなり苦しい展開に追いやられていたのですね。

3-6 スレイマン1世によるウィーン包囲

1529年にスレイマン1世は12万の兵によってウィーンを包囲します。このウィーン包囲の背景にはフランスがいましたね。スレイマン1世の包囲に対するハプスブルク家の守りは5万ほどの兵。2倍以上も兵力に差があったのですね。しかしあわや陥落かと思いきや、冬が近づいてきたため撤退することに。ちなみにカール5世は生涯で40回も出陣しており、その中にはなんとアフリカまで。まさに戦争に明け暮れた皇帝ですね。

4異端との対立

1517年にルターが95か条の論題を城教会の門に貼りだしたことで宗教改革が始まった、とされている。
By Ferdinand Pauwels - flickr, パブリック・ドメイン, Link

隣国との戦い、そして異教徒であるオスマン帝国との戦いの他にもカール5世を悩ませるものがありました。それは領土内のプロテスタントたち。カールは神聖ローマ皇帝としてプロテスタントを認めるわけにはいきません。この章では、カール5世とプロテスタントの動きについて解説していきたいと思います。

4-1 ルターの登場

1517年のこと。当時のローマ・カトリック教会は腐敗が目立つようになりました。教皇レオ10世はサン・ピエトロ大聖堂を修築するため、免罪符を販売。これに対して神学者ルターが教会を非難しました。当時のドイツはまとまった国ではなく、領邦国家。そのためドイツはローマ・カトリック教会から搾取されるようになり、「ローマの牝牛」と呼ばれるようになったのです。ルターは95カ条の論題を発表。教皇から破門されますが、ドイツの領邦内で教会に不満を持っていた諸侯らから支持されることに。

\次のページで「4-2 カール、ヴォルムス帝国議会でルターを呼び出す」を解説!/

4-2 カール、ヴォルムス帝国議会でルターを呼び出す

カールは1521年にルターをヴォルムス帝国議会に呼び出しました。カールとしてはルターに発言の撤回を求めるつもりでした。しかしルターは撤回しなかったため、カールはルターの活動を禁止し、帝国外追放へ。この宗教改革で影響を受けた農民らが農奴解放を求めてドイツ農民戦争を起こすきっかけに。農民戦争を主導したミュンツァーは捕らえられ、処刑される事態になりました。ちなみにルターは当初農民らに同情的でしたが、農奴制の廃止を求めたため諸侯側に立って批判したと言われています。

4-3 アウクスブルクの宗教和議

カールは一度ルター派を認めていましたが、再度認めない考えを示しました。これに対してルター派が抗議。プロテスタントとは、この時の「抗議する者」という意味のプロテスタントと呼ばれています。

シュマルカルデン戦争にまで発展することになりますが、最終的にアウクスブルクの和議ルター派は認められることに。しかし諸侯らがカトリックかルター派を選択できるようになりましたが、民衆には選択権はありません。領主と同じ宗派を信仰することになったのです。そしてカトリックの庇護者と自負していたカール。この和議によって断念せざるを得ない状況に。ちなみにこの時はカール5世は休養しており、代わりに弟のフェルナンドがメインで取り仕切っていました。

5カールの治世

40年もの間、広大な領土を治めたカール5世。しかし彼は度重なる戦争に次第に疲弊していくように。この章では彼の治世の後半の動きについて解説していきます。

5-1 前代未聞の生前退位

カールが56歳の時でした。彼は一族をブリュッセルに集め、退位することを伝えました。当時の王で生前に退位するなど前代未聞。そしてカールは後継者についてもきちんと考えていました。スペインは息子フェリペ2世へ、そしてオーストリア側の領土は弟のフェルディナント1世に継承させることに。こうしてハプスブルク家は、スペイン系とオーストリア系に分かれることになりました。ちなみに当時はスペインに多くの冨をもたらす中南米の領土があったため、息子に有利な条件で継がせたことが分かりますね。

5-2 修道院にて隠棲生活

Eduardo Rosales - Juan de Austria's presentation to Emperor Carlos V in Yuste.jpg
By エドゥアルド・ロサレス - プラド美術館 Online Gallery, Presentación de don Juan de Austria al emperador Carlos V, en Yuste, パブリック・ドメイン, Link

退位した後のカールの生活はどうなったのでしょうか。彼はスペインのユステ修道院へ隠棲することに。そして2年後に安らかに息を引き取りました。亡くなった後は、フェリペ2世がエル・エスコリアル修道院へ埋葬することに。こうして彼は58年間の生涯を全うしたのでした。

戦争に明け暮れたカール5世

父方、母方の祖父、そして父からの相続で広大な領土を手にしたカール5世。彼はスペインではカルロス1世として、神聖ローマ皇帝ではカール5世として治めました。時は大航海時代。スペインには多くの銀がもたらされましたが、アメリカ大陸の先住民の多くの犠牲によって成り立っていました。

カールはフランスのフランソワ1世と4度も対決することに。アメリカ大陸の富をバックに戦うカールに対し、フランソワは異教徒オスマン帝国のスレイマンン1世と結びます。そのためカールは戦争に明け暮れることに。

彼の晩年は後継者を指名して退位。まさに前代未聞。亡くなるまで女王の肩書に執着した母フアナとは大違いですね。退位後のカールは修道院での最期のひと時をきっと穏やかに過ごしたことでしょう。

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ドイツヨーロッパの歴史世界史歴史神聖ローマ帝国

スペイン王カルロス1世と神聖ローマ皇帝「カール5世」は同一人物!?戦争に明け暮れた彼の生涯を歴女が5分でわかりやすく解説!

4-2 カール、ヴォルムス帝国議会でルターを呼び出す

カールは1521年にルターをヴォルムス帝国議会に呼び出しました。カールとしてはルターに発言の撤回を求めるつもりでした。しかしルターは撤回しなかったため、カールはルターの活動を禁止し、帝国外追放へ。この宗教改革で影響を受けた農民らが農奴解放を求めてドイツ農民戦争を起こすきっかけに。農民戦争を主導したミュンツァーは捕らえられ、処刑される事態になりました。ちなみにルターは当初農民らに同情的でしたが、農奴制の廃止を求めたため諸侯側に立って批判したと言われています。

4-3 アウクスブルクの宗教和議

カールは一度ルター派を認めていましたが、再度認めない考えを示しました。これに対してルター派が抗議。プロテスタントとは、この時の「抗議する者」という意味のプロテスタントと呼ばれています。

シュマルカルデン戦争にまで発展することになりますが、最終的にアウクスブルクの和議ルター派は認められることに。しかし諸侯らがカトリックかルター派を選択できるようになりましたが、民衆には選択権はありません。領主と同じ宗派を信仰することになったのです。そしてカトリックの庇護者と自負していたカール。この和議によって断念せざるを得ない状況に。ちなみにこの時はカール5世は休養しており、代わりに弟のフェルナンドがメインで取り仕切っていました。

5カールの治世

40年もの間、広大な領土を治めたカール5世。しかし彼は度重なる戦争に次第に疲弊していくように。この章では彼の治世の後半の動きについて解説していきます。

5-1 前代未聞の生前退位

カールが56歳の時でした。彼は一族をブリュッセルに集め、退位することを伝えました。当時の王で生前に退位するなど前代未聞。そしてカールは後継者についてもきちんと考えていました。スペインは息子フェリペ2世へ、そしてオーストリア側の領土は弟のフェルディナント1世に継承させることに。こうしてハプスブルク家は、スペイン系とオーストリア系に分かれることになりました。ちなみに当時はスペインに多くの冨をもたらす中南米の領土があったため、息子に有利な条件で継がせたことが分かりますね。

5-2 修道院にて隠棲生活

退位した後のカールの生活はどうなったのでしょうか。彼はスペインのユステ修道院へ隠棲することに。そして2年後に安らかに息を引き取りました。亡くなった後は、フェリペ2世がエル・エスコリアル修道院へ埋葬することに。こうして彼は58年間の生涯を全うしたのでした。

戦争に明け暮れたカール5世

父方、母方の祖父、そして父からの相続で広大な領土を手にしたカール5世。彼はスペインではカルロス1世として、神聖ローマ皇帝ではカール5世として治めました。時は大航海時代。スペインには多くの銀がもたらされましたが、アメリカ大陸の先住民の多くの犠牲によって成り立っていました。

カールはフランスのフランソワ1世と4度も対決することに。アメリカ大陸の富をバックに戦うカールに対し、フランソワは異教徒オスマン帝国のスレイマンン1世と結びます。そのためカールは戦争に明け暮れることに。

彼の晩年は後継者を指名して退位。まさに前代未聞。亡くなるまで女王の肩書に執着した母フアナとは大違いですね。退位後のカールは修道院での最期のひと時をきっと穏やかに過ごしたことでしょう。

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