室町時代戦国時代日本史歴史

徳川家康が大敗を期した「三方ヶ原の戦い」を戦国通サラリーマンが5分で分かりやすく解説

三方ヶ原開戦

前哨戦を勝利し勢いに乗っている信玄は、標的だった家康を討ち取るため籠城している浜松城を素通りして堀江城を目指して進軍していきます。その様子を見た家康は、激怒し信玄の策略にはまってしまいました。

挑発をして野戦を仕掛ける信玄

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信玄の取った行動によって家康は、背後を付けると踏んで家臣一同の反対を押し切り出陣したことが通説となっています。その他にも兵達の信頼を得るために出陣したことや一撃離脱を狙った作戦であったなど様々な説がありました。様々な説があるものの状況的には激怒したのではないかと思われます。

この時代ですと戦最中に、素通りされたとなれば侮辱されたと思う将が大部分だと思いますので余程腹を立てた家康だったのかも知れません。この行動により籠城戦から野戦へと主戦場が変わってしまい信玄の読み通りの展開となっていきます。

三方ヶ原開戦

家康は武田軍の背後付いたと思っていましたが、三方ヶ原に到着した時には信玄の陣形がしっかり応戦できる形をしていたことで家康は驚きました。武田軍は魚鱗の陣で待ち構えていて対する家康は鶴翼の陣で交戦していきます。陣形の特徴として鶴翼の陣形は大将からの伝達することが遅いといわれていたため、家康の命令がないまま大久保忠世らが武田軍の挑発行為にのってしまい攻撃を仕掛けていきました。

一点突破に強く兵力でも圧倒していた武田軍でしたが、徳川軍には織田軍からの援軍も来ていて開戦直後はやや徳川軍が優勢。このまま優勢で戦況を進めていきたかった家康でしたが、兵力差にはかなわず翼部分が破られてしまい遂に陣形が崩れてしまいます。

武田軍の圧倒的な強さ

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陣形を崩したことで、家康の首を討ち取る寸前まで兵を進めていました。しかし、1月の戦ということもあり日が沈みが早かったことと忠勝らの働きがあったおかげで戦場から離脱する家康。逃走する家康を追いかけるの信春隊は、家康の姿を見て討ち取ったかに思われましたが家康の影武者が多数いる状態で本物の家康がどこにいるのか分からなくなってしまいます。

信春隊に限らず武田軍全軍で徳川軍を追撃していたと思われ徳川方の戦死者は、二千人までに上ったうえに織田家家臣団も討ち取られてしまい大敗を期した家康でした。一命を取り留めた家康は浜松城に入り込み防戦できる兵もいなかったため空城の計で城門を開門し篝火を焚いて安らかに眠ったとされています。

浜松城にも武田軍の昌景隊が、城を攻撃する手筈になっていましたが計略なのか兵がいないだけなのか思案し過ぎたことで浜松城を攻めることなく兵を引き上げていきました。

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武田軍が勝利できたのは、信玄の戦上手はもちろんだったが徳川軍の右翼側に織田家の佐久間信盛と滝川一益らが援軍として着陣していたが他家との連携があまりいかなかったようだな。それに加えて部隊長でもあった信盛は武田軍の目の当たりして恐怖のあまり戦せずに引き上げてしまい陣形が崩れたともいわれているようだ。

大勝利した武田軍であったが

三方ヶ原で大勝した武田軍はほぼ兵力を温存した状態で家康を破り、東三河への進出を決めていきました。そして東三河の要所だった野田城を攻めていきますが、兵力差で勝っていたのにもかかわらず力攻めをせずに城周辺の水を断ち切る策を打ち出し一か月掛けて落城。

この時には、信玄の病が進行していた状態で病状を見ながら戦っていたため月日を掛けて野田城を陥落させたと思われます。この戦後に更に病が悪化したので自国まで兵を引きあげている最中に信玄は亡くなりました。

信玄亡き後に武田勝頼が家督を継ぐも家康に巻き返しを図られていた形となり、長篠の戦いへと発展します。

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