室町時代戦国時代日本史歴史

徳川家康が大敗を期した「三方ヶ原の戦い」を戦国通サラリーマンが5分で分かりやすく解説

足利義昭の命によって結成した信長包囲網

信玄が駿河国を支配した後に、信長と関係が悪化していた足利義昭は各国へ討伐命令を下します。またこれ以前に信長と甲尾同盟を交わしていた信玄の動向をみていきましょう。

信長と信玄の関係性

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この時に最も勢いのあった信長は、美濃の斎藤氏も平伏させるほどに急激に勢力を拡大させていました。信玄とも戦が生じると思われていましたが、信長は信玄と争うには時間をかなり要してしまうため婚姻関係を結び同盟を交わします。信玄もまた信長の力を認めていて戦による衝突を避けた形となりました。

そんな中で駿河侵攻をしている信玄を周りの諸大名が同盟を交わし窮地に立たされた信玄は、信長経由で義昭にすがり宿敵だった上杉謙信を退かせることに成功します。信長に窮地を救ってもらい本来であれば義理堅い恩があったはずでしたがこの後に関係が一気に悪くなっていきました。

自身の勢力拡大が目的だった信玄は、謙信との和睦すらも勢力拡大するための謀で信長に対して手のひらを返した形で同盟を破棄していきます。

信長を欺き三河へ侵攻

1572年に信玄は三河へ侵攻するために、信長に和睦成立に一役買ってもらっていたところで裏では石山本願寺と朝倉義景と同盟を交わしていています。信玄は信長に事前連絡もせず、三河へ侵攻していき侵攻情報を聞いた信長は激怒しました。

信玄のために義昭と共に動いていた信長は、信玄に対して前代未聞の所行であると謙信に書状を出していたようです。またこの間に家康との同盟が破棄され家康は謙信と同盟を交わしたことで信玄は家康に対して自分のことだけを棚に上げておいて、織田家との婚姻関係を邪魔されたことを根に持っていた信玄。

こういった裏切りが重ねていき家康を討ち取ることを決意しました。

三方ヶ原直前の状況と前哨戦

勢力拡大が目的だった信玄は、裏切り行為により信長との同盟関係が無くなり対抗措置をとっていた家康に対して憎悪を募らせていました。徹底的に家康を打ち負かしたい信玄は、自身の知略と家臣団の強さを三方ヶ原で発揮していきます。

同盟の援軍が来ない徳川軍

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三河侵攻をする前に、脅威となっていた氏康が1571年に亡くなっていて氏政の代へと移り変わっていました。氏政が当主となった頃に、甲相同盟を復活させ信玄に力を貸し勢いが増していく武田軍。一方宿敵の謙信は、家康と同盟していましたが、自国平定に力を注いでいたため家康に援軍を差し向けることはしませんでした。

三河に向けて兵を三部隊に分け一部隊を信玄自ら指揮する形で青崩峠から徳川領へ兵を侵攻させます。信玄本隊が侵攻したことで北遠江の犬居城が開城し武田方に寝返り先導役を担った天野景貫。昌景らは奥三河三方衆を降伏させ信玄本隊に合流するべく移動していました。

家康にとって支城となっていた二俣城を落城させるわけにもいかず、朝倉氏と争っていた信長の援軍が望めないと判断。天竜川付近で迎え撃つため本田忠勝らに先行させ武田方の情報を探り予定でしたが武田方の進軍が思いのほか早く徳川内偵隊と馬場信春が率いる先発隊と遭遇し戦闘になってしまいます。

前哨戦の一言坂で開戦

想定外の遭遇と十分な兵を揃えていなかった忠勝隊は、退却を始めるも信春隊が追撃をしてきました。急な戦闘だったため忠勝に殿を任せて浜松城まで家康は退却していきます。忠勝も迎え撃つのに兵を三段構えにして信春隊を応戦するも、二段目まで崩されてしまい討ち取られる寸前まで迫ってきていました。

また追い打ちをかけるようにして武田方の小杉左近は忠勝隊の背後から攻めたていきます。忠勝は死を覚悟し少数の兵と共に敵中突破を図ると左近は、道の真ん中を空け本多隊を見逃しました。忠勝の決死の覚悟に恐れをなしたことで道を空けたとなっていますが、忠勝が逃げる際に気が変わらない内に逃げろといっていた事から忠勝の戦いぶりに感心したのかも知れません。

この戦で徳川軍は敗走し、遠江の要だった二俣城は陥落し武田方が優勢な状況になりました。

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