室町時代戦国時代日本史歴史

徳川家康が大敗を期した「三方ヶ原の戦い」を戦国通サラリーマンが5分で分かりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。戦国時代を終焉させ徳川の時代を築き上げた徳川家康は、織田信長と同盟を交わしていた頃に大敗した戦があったようだ。当時の強力な部隊を率いていた武田信玄が上洛するため織田・徳川連合軍と激突したのが三方ヶ原の戦いだ。

家康はあまりの怖さに脱糞した記録も残されている三方ヶ原の戦いについて、今回は戦国ライターのwhat_0831と一緒に背景から解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/what

学生時代は、沢山の歴史本を読み知識を深めた歴史好きのサラリーマン。特に、戦国時代が大好きであり、武士に憧れている。三方ヶ原の戦いについて分かりやすく解説し戦のきっかけから終戦までを紹介する。

桶狭間の戦い後に駿河へ侵攻

織田信長との戦いで今川義元が討たれ、駿河国の勢力が崩れていきます。情勢が変わる中で長年人質として義元の下で育った家康は、独立し信長と同盟関係を交わしていきました。

桶狭間後の駿河

image by PIXTA / 45737803

義元が討たれ駿河国は、嫡男の氏真が継ぎはしたものの桶狭間の影響で国人達は不信感を覚えていき今川家から離反していきました。離反を止めきれないと踏んだ氏真は家康の勢力下で収まることになります。主従が逆転したことで家康に下ったとはいえ、元は人質だった存在にいいようにされることが気に入らなかったようです。

義理父にあたる北条氏康も仲介しましたが、家康と氏真は断交し家康は信長と同盟を交わしていきました。この頃に氏真と信玄は同盟していたが、武田家嫡男の武田義信が謀反の疑いで幽閉させられ死去してしまいます。これによって義信の正室だった嶺松院が今川家に戻り同盟関係が解消されました。

こうして勢力拡大する機会が出来たことで駿河国へ侵攻を決意した信玄は、氏康と同盟関係にあり今川領の分割を提案している最中に裏では家康と今川領分割の密約を交わしていました。

今川領へ攻め込み勢力拡大を図る信玄

駿河が欲しい信玄は、家康と密約を交わしつつ駿河へ侵攻し駿河国薩埵峠で氏真との戦の準備をしていきます。駿河国へ入るためには薩埵峠を通らなくてはいけないため氏真は、ここを徹底して守り通し氏康との挟撃する予定でした。ところが、氏真の家臣だった朝比奈信置ら二十一名もの将が信玄に内通していて命の危険を感じた氏真は戦線を放棄して撤退したことで前線が崩壊し信玄は戦わずして駿河国へ入国します。

この戦で、氏康の娘だった早川殿は輿に乗ることすら出来ずに徒歩で掛川城へ逃げることになりました。娘が徒歩で逃げるという屈辱感を味合わされたことで、氏康は信玄と同盟を破棄し北条氏政の正室だった黄梅室と離縁し信玄との対立を深めていくことになります。

駿河国で勢力を拡大していきたかったが北条軍の妨害により中々制圧することができず、家康との同盟関係も破棄されてしまい兵糧が欠乏したことで甲斐国へ撤退すると家康がすかさず氏真の掛川城を開城させました。

駿河国を支配する

氏康と家康に妨害されて三度、駿河へ侵攻することを決意した信玄。対北条軍のために大宮城を攻略し氏政に攻撃を仕掛けていきます。氏政は籠城を選択し強固な城だった小田原城で交戦していきました。信玄の激しい攻撃を耐え抜き信玄を撤退させることに成功した氏政。

疲弊しているであろう撤退中の武田軍を三増峠で奇襲を仕掛けていくも事前に察知していた信玄は三部隊に分けて迎撃させました。奇襲開始直後は、北条方が優勢に戦を進めていましたが山県昌景らの高所からの奇襲作戦によって戦況を傾かせ武田譜代家臣の浅利信種らを失いながらも何とか勝利します。

こうして北条方を抑えた信玄は、翌月の1569年11月に駿河へ侵攻し瞬く間に城を攻略していき1570年に駿河を支配することに成功しました。

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義元が討たれたことで隣国の大名達には、大きな影響を与えていたようだな。家康が勢力拡大するきっかけも義元が討たれた影響の一つでもあったようだな。

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