戦国時代を終焉させ徳川の時代を築き上げた徳川家康は、織田信長と同盟を交わしていた頃に大敗した戦があったようです。当時の強力な部隊を率いていた武田信玄が上洛するため織田・徳川連合軍と激突したのが三方ヶ原の戦いです。

家康はあまりの怖さに脱糞した記録も残されている三方ヶ原の戦いについて、今回は戦国ライターのwhat_0831と一緒に背景から解説していきます。

ライター/what

学生時代は、沢山の歴史本を読み知識を深めた歴史好きのサラリーマン。特に、戦国時代が大好きであり、武士に憧れている。三方ヶ原の戦いについて分かりやすく解説し戦のきっかけから終戦までを紹介する。

桶狭間の戦い後に駿河へ侵攻

織田信長との戦いで今川義元が討たれ、駿河国の勢力が崩れていきます。情勢が変わる中で長年人質として義元の下で育った家康は、独立し信長と同盟関係を交わしていきました。

桶狭間後の駿河

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義元が討たれ駿河国は、嫡男の氏真が継ぎはしたものの桶狭間の影響で国人達は不信感を覚えていき今川家から離反していきました。離反を止めきれないと踏んだ氏真は家康の勢力下で収まることになります。主従が逆転したことで家康に下ったとはいえ、元は人質だった存在にいいようにされることが気に入らなかったようです。

義理父にあたる北条氏康も仲介しましたが、家康と氏真は断交し家康は信長と同盟を交わしていきました。この頃に氏真と信玄は同盟していたが、武田家嫡男の武田義信が謀反の疑いで幽閉させられ死去してしまいます。これによって義信の正室だった嶺松院が今川家に戻り同盟関係が解消されました。

こうして勢力拡大する機会が出来たことで駿河国へ侵攻を決意した信玄は、氏康と同盟関係にあり今川領の分割を提案している最中に裏では家康と今川領分割の密約を交わしていました。

今川領へ攻め込み勢力拡大を図る信玄

駿河が欲しい信玄は、家康と密約を交わしつつ駿河へ侵攻し駿河国薩埵峠で氏真との戦の準備をしていきます。駿河国へ入るためには薩埵峠を通らなくてはいけないため氏真は、ここを徹底して守り通し氏康との挟撃する予定でした。ところが、氏真の家臣だった朝比奈信置ら二十一名もの将が信玄に内通していて命の危険を感じた氏真は戦線を放棄して撤退したことで前線が崩壊し信玄は戦わずして駿河国へ入国します。

この戦で、氏康の娘だった早川殿は輿に乗ることすら出来ずに徒歩で掛川城へ逃げることになりました。娘が徒歩で逃げるという屈辱感を味合わされたことで、氏康は信玄と同盟を破棄し北条氏政の正室だった黄梅室と離縁し信玄との対立を深めていくことになります。

駿河国で勢力を拡大していきたかったが北条軍の妨害により中々制圧することができず、家康との同盟関係も破棄されてしまい兵糧が欠乏したことで甲斐国へ撤退すると家康がすかさず氏真の掛川城を開城させました。

駿河国を支配する

氏康と家康に妨害されて三度、駿河へ侵攻することを決意した信玄。対北条軍のために大宮城を攻略し氏政に攻撃を仕掛けていきます。氏政は籠城を選択し強固な城だった小田原城で交戦していきました。信玄の激しい攻撃を耐え抜き信玄を撤退させることに成功した氏政。

疲弊しているであろう撤退中の武田軍を三増峠で奇襲を仕掛けていくも事前に察知していた信玄は三部隊に分けて迎撃させました。奇襲開始直後は、北条方が優勢に戦を進めていましたが山県昌景らの高所からの奇襲作戦によって戦況を傾かせ武田譜代家臣の浅利信種らを失いながらも何とか勝利します。

こうして北条方を抑えた信玄は、翌月の1569年11月に駿河へ侵攻し瞬く間に城を攻略していき1570年に駿河を支配することに成功しました。

\次のページで「足利義昭の命によって結成した信長包囲網」を解説!/

足利義昭の命によって結成した信長包囲網

信玄が駿河国を支配した後に、信長と関係が悪化していた足利義昭は各国へ討伐命令を下します。またこれ以前に信長と甲尾同盟を交わしていた信玄の動向をみていきましょう。

信長と信玄の関係性

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この時に最も勢いのあった信長は、美濃の斎藤氏も平伏させるほどに急激に勢力を拡大させていました。信玄とも戦が生じると思われていましたが、信長は信玄と争うには時間をかなり要してしまうため婚姻関係を結び同盟を交わします。信玄もまた信長の力を認めていて戦による衝突を避けた形となりました。

そんな中で駿河侵攻をしている信玄を周りの諸大名が同盟を交わし窮地に立たされた信玄は、信長経由で義昭にすがり宿敵だった上杉謙信を退かせることに成功します。信長に窮地を救ってもらい本来であれば義理堅い恩があったはずでしたがこの後に関係が一気に悪くなっていきました。

自身の勢力拡大が目的だった信玄は、謙信との和睦すらも勢力拡大するための謀で信長に対して手のひらを返した形で同盟を破棄していきます。

信長を欺き三河へ侵攻

1572年に信玄は三河へ侵攻するために、信長に和睦成立に一役買ってもらっていたところで裏では石山本願寺と朝倉義景と同盟を交わしていています。信玄は信長に事前連絡もせず、三河へ侵攻していき侵攻情報を聞いた信長は激怒しました。

信玄のために義昭と共に動いていた信長は、信玄に対して前代未聞の所行であると謙信に書状を出していたようです。またこの間に家康との同盟が破棄され家康は謙信と同盟を交わしたことで信玄は家康に対して自分のことだけを棚に上げておいて、織田家との婚姻関係を邪魔されたことを根に持っていた信玄。

こういった裏切りが重ねていき家康を討ち取ることを決意しました。

三方ヶ原直前の状況と前哨戦

勢力拡大が目的だった信玄は、裏切り行為により信長との同盟関係が無くなり対抗措置をとっていた家康に対して憎悪を募らせていました。徹底的に家康を打ち負かしたい信玄は、自身の知略と家臣団の強さを三方ヶ原で発揮していきます。

同盟の援軍が来ない徳川軍

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三河侵攻をする前に、脅威となっていた氏康が1571年に亡くなっていて氏政の代へと移り変わっていました。氏政が当主となった頃に、甲相同盟を復活させ信玄に力を貸し勢いが増していく武田軍。一方宿敵の謙信は、家康と同盟していましたが、自国平定に力を注いでいたため家康に援軍を差し向けることはしませんでした。

三河に向けて兵を三部隊に分け一部隊を信玄自ら指揮する形で青崩峠から徳川領へ兵を侵攻させます。信玄本隊が侵攻したことで北遠江の犬居城が開城し武田方に寝返り先導役を担った天野景貫。昌景らは奥三河三方衆を降伏させ信玄本隊に合流するべく移動していました。

家康にとって支城となっていた二俣城を落城させるわけにもいかず、朝倉氏と争っていた信長の援軍が望めないと判断。天竜川付近で迎え撃つため本田忠勝らに先行させ武田方の情報を探り予定でしたが武田方の進軍が思いのほか早く徳川内偵隊と馬場信春が率いる先発隊と遭遇し戦闘になってしまいます。

前哨戦の一言坂で開戦

想定外の遭遇と十分な兵を揃えていなかった忠勝隊は、退却を始めるも信春隊が追撃をしてきました。急な戦闘だったため忠勝に殿を任せて浜松城まで家康は退却していきます。忠勝も迎え撃つのに兵を三段構えにして信春隊を応戦するも、二段目まで崩されてしまい討ち取られる寸前まで迫ってきていました。

また追い打ちをかけるようにして武田方の小杉左近は忠勝隊の背後から攻めたていきます。忠勝は死を覚悟し少数の兵と共に敵中突破を図ると左近は、道の真ん中を空け本多隊を見逃しました。忠勝の決死の覚悟に恐れをなしたことで道を空けたとなっていますが、忠勝が逃げる際に気が変わらない内に逃げろといっていた事から忠勝の戦いぶりに感心したのかも知れません。

この戦で徳川軍は敗走し、遠江の要だった二俣城は陥落し武田方が優勢な状況になりました。

\次のページで「三方ヶ原開戦」を解説!/

三方ヶ原開戦

前哨戦を勝利し勢いに乗っている信玄は、標的だった家康を討ち取るため籠城している浜松城を素通りして堀江城を目指して進軍していきます。その様子を見た家康は、激怒し信玄の策略にはまってしまいました。

挑発をして野戦を仕掛ける信玄

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信玄の取った行動によって家康は、背後を付けると踏んで家臣一同の反対を押し切り出陣したことが通説となっています。その他にも兵達の信頼を得るために出陣したことや一撃離脱を狙った作戦であったなど様々な説がありました。様々な説があるものの状況的には激怒したのではないかと思われます。

この時代ですと戦最中に、素通りされたとなれば侮辱されたと思う将が大部分だと思いますので余程腹を立てた家康だったのかも知れません。この行動により籠城戦から野戦へと主戦場が変わってしまい信玄の読み通りの展開となっていきます。

三方ヶ原開戦

家康は武田軍の背後付いたと思っていましたが、三方ヶ原に到着した時には信玄の陣形がしっかり応戦できる形をしていたことで家康は驚きました。武田軍は魚鱗の陣で待ち構えていて対する家康は鶴翼の陣で交戦していきます。陣形の特徴として鶴翼の陣形は大将からの伝達することが遅いといわれていたため、家康の命令がないまま大久保忠世らが武田軍の挑発行為にのってしまい攻撃を仕掛けていきました。

一点突破に強く兵力でも圧倒していた武田軍でしたが、徳川軍には織田軍からの援軍も来ていて開戦直後はやや徳川軍が優勢。このまま優勢で戦況を進めていきたかった家康でしたが、兵力差にはかなわず翼部分が破られてしまい遂に陣形が崩れてしまいます。

武田軍の圧倒的な強さ

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陣形を崩したことで、家康の首を討ち取る寸前まで兵を進めていました。しかし、1月の戦ということもあり日が沈みが早かったことと忠勝らの働きがあったおかげで戦場から離脱する家康。逃走する家康を追いかけるの信春隊は、家康の姿を見て討ち取ったかに思われましたが家康の影武者が多数いる状態で本物の家康がどこにいるのか分からなくなってしまいます。

信春隊に限らず武田軍全軍で徳川軍を追撃していたと思われ徳川方の戦死者は、二千人までに上ったうえに織田家家臣団も討ち取られてしまい大敗を期した家康でした。一命を取り留めた家康は浜松城に入り込み防戦できる兵もいなかったため空城の計で城門を開門し篝火を焚いて安らかに眠ったとされています。

浜松城にも武田軍の昌景隊が、城を攻撃する手筈になっていましたが計略なのか兵がいないだけなのか思案し過ぎたことで浜松城を攻めることなく兵を引き上げていきました。

大勝利した武田軍であったが

三方ヶ原で大勝した武田軍はほぼ兵力を温存した状態で家康を破り、東三河への進出を決めていきました。そして東三河の要所だった野田城を攻めていきますが、兵力差で勝っていたのにもかかわらず力攻めをせずに城周辺の水を断ち切る策を打ち出し一か月掛けて落城。

この時には、信玄の病が進行していた状態で病状を見ながら戦っていたため月日を掛けて野田城を陥落させたと思われます。この戦後に更に病が悪化したので自国まで兵を引きあげている最中に信玄は亡くなりました。

信玄亡き後に武田勝頼が家督を継ぐも家康に巻き返しを図られていた形となり、長篠の戦いへと発展します。

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信玄との敗北から学んだ家康

三方ヶ原の戦いは、日本史の教科書にも記載されている戦でもありますがあまり記録が残されておりません。慎重な家康が、何故部下の反対を押し切り野戦に討ってでだことも謎な部分が多いうえに二人とも定石の陣形とは真逆の陣を構えていたことも不思議でした。自分の一意見とすると、徳川幕府時代に記録を改ざん捏造していたのではと思っていますが、本当の真実は今となって分かりません。

捏造があったにしろなかったにしろ、敗北した事実は変わらず浜松城についたときにはあまりの恐怖に脱糞した状態で自身の姿を書き残しています。これを残すことであの時の敗北を生涯忘れないようにしたのでしょう。

この後に、武田家は滅んでしまう形になりますが家康は信玄家法や軍法などを取り入れていき信玄から多くを学び兵を大事に日の本を平和にするために行動していったのでしょう。

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室町時代戦国時代日本史歴史

徳川家康が大敗を期した「三方ヶ原の戦い」を戦国通サラリーマンが5分で分かりやすくわかりやすく解説

戦国時代を終焉させ徳川の時代を築き上げた徳川家康は、織田信長と同盟を交わしていた頃に大敗した戦があったようです。当時の強力な部隊を率いていた武田信玄が上洛するため織田・徳川連合軍と激突したのが三方ヶ原の戦いです。

家康はあまりの怖さに脱糞した記録も残されている三方ヶ原の戦いについて、今回は戦国ライターのwhat_0831と一緒に背景から解説していきます。

ライター/what

学生時代は、沢山の歴史本を読み知識を深めた歴史好きのサラリーマン。特に、戦国時代が大好きであり、武士に憧れている。三方ヶ原の戦いについて分かりやすく解説し戦のきっかけから終戦までを紹介する。

桶狭間の戦い後に駿河へ侵攻

織田信長との戦いで今川義元が討たれ、駿河国の勢力が崩れていきます。情勢が変わる中で長年人質として義元の下で育った家康は、独立し信長と同盟関係を交わしていきました。

桶狭間後の駿河

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義元が討たれ駿河国は、嫡男の氏真が継ぎはしたものの桶狭間の影響で国人達は不信感を覚えていき今川家から離反していきました。離反を止めきれないと踏んだ氏真は家康の勢力下で収まることになります。主従が逆転したことで家康に下ったとはいえ、元は人質だった存在にいいようにされることが気に入らなかったようです。

義理父にあたる北条氏康も仲介しましたが、家康と氏真は断交し家康は信長と同盟を交わしていきました。この頃に氏真と信玄は同盟していたが、武田家嫡男の武田義信が謀反の疑いで幽閉させられ死去してしまいます。これによって義信の正室だった嶺松院が今川家に戻り同盟関係が解消されました。

こうして勢力拡大する機会が出来たことで駿河国へ侵攻を決意した信玄は、氏康と同盟関係にあり今川領の分割を提案している最中に裏では家康と今川領分割の密約を交わしていました。

今川領へ攻め込み勢力拡大を図る信玄

駿河が欲しい信玄は、家康と密約を交わしつつ駿河へ侵攻し駿河国薩埵峠で氏真との戦の準備をしていきます。駿河国へ入るためには薩埵峠を通らなくてはいけないため氏真は、ここを徹底して守り通し氏康との挟撃する予定でした。ところが、氏真の家臣だった朝比奈信置ら二十一名もの将が信玄に内通していて命の危険を感じた氏真は戦線を放棄して撤退したことで前線が崩壊し信玄は戦わずして駿河国へ入国します。

この戦で、氏康の娘だった早川殿は輿に乗ることすら出来ずに徒歩で掛川城へ逃げることになりました。娘が徒歩で逃げるという屈辱感を味合わされたことで、氏康は信玄と同盟を破棄し北条氏政の正室だった黄梅室と離縁し信玄との対立を深めていくことになります。

駿河国で勢力を拡大していきたかったが北条軍の妨害により中々制圧することができず、家康との同盟関係も破棄されてしまい兵糧が欠乏したことで甲斐国へ撤退すると家康がすかさず氏真の掛川城を開城させました。

駿河国を支配する

氏康と家康に妨害されて三度、駿河へ侵攻することを決意した信玄。対北条軍のために大宮城を攻略し氏政に攻撃を仕掛けていきます。氏政は籠城を選択し強固な城だった小田原城で交戦していきました。信玄の激しい攻撃を耐え抜き信玄を撤退させることに成功した氏政。

疲弊しているであろう撤退中の武田軍を三増峠で奇襲を仕掛けていくも事前に察知していた信玄は三部隊に分けて迎撃させました。奇襲開始直後は、北条方が優勢に戦を進めていましたが山県昌景らの高所からの奇襲作戦によって戦況を傾かせ武田譜代家臣の浅利信種らを失いながらも何とか勝利します。

こうして北条方を抑えた信玄は、翌月の1569年11月に駿河へ侵攻し瞬く間に城を攻略していき1570年に駿河を支配することに成功しました。

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