みんな、平安時代というとどんなイメージを持つ?
貴族たちが優雅に歌を詠んだり、蹴鞠(けまり)をしたりと、雅な文化が発達した時期と思う人も多いでしょう。もちろんその通り。しかし平安時代は、政権をめぐる政治的争いが拡大した時期。また、行政の仕組みが確立したことでも知られているんです。

よし!今回は、平安時代に詳しいライターのひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。枕草子が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。平安時代は、政治や行政の視点から見てもとても面白い時期。そこで、得意分野のひとつである平安時代から記事をまとめた。

平安時代の開始は桓武天皇による平安京の遷都から!

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奈良時代の終わり、そして平安時代の開始は、桓武天皇が長岡京から平安京に移ったタイミングからとされています。天皇の住まいが移ることが「遷都」。この遷都が行われたのは794(延暦13)年です。

もともと、長岡京を交通の便がいいなどの理由から都としていました。しかし、長岡京の側近の暗殺、疫病の流行、不作、さらには桓武天皇の近親者の病死と不幸が続きます。そこで、平安京に遷都することを決断しました。

桓武天皇とはどんな人?

桓武天皇は、平安前期を特徴づける取り組みを行った、いわばキーパーソン。父親の光仁天皇の体調が悪化したことにより、天皇に即位します。このときの桓武天皇の年齢は44歳。平安時代の基準でいえば高齢での皇位継承です。皇位継承後、24年11か月のあいだ天皇として行政や仏教の改革にとりくみました。

桓武天皇はどうして遷都を決意したの?

天皇は、世の中の平和を保ってこそ地位が安定します。しかし、桓武天皇が皇位継承したとき、殺害、疫病、不作など、人々を不安にさせることが続くように。また、桓武天皇の親族が病死したことも、遷都の決意を後押ししたと言われています。

不吉な出来事を払拭するために、早々に遷都することを決意した桓武天皇。大変な時期に皇位継承をすることになったと言えます。

平安時代初期は律令制の再建と東北経営の転換期!

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平安時代の初期は、律令制度を立て直した時期。飛鳥時代の後期に、中国の制度をもとに作られたのが律令制度です。この制度は、土地を国のものとみなして徴税を推し進めるもの。中央が国を管理する国家の中央集権体制に近い体制です。

しかし、徴税の負担に苦しむ農民が逃げ出すように。さらに、有力な寺院や貴族が、逃げ出した農民を集めて私有地を増やし始めます。桓武天皇が即位した時期、律令制は崩壊状態でした。

桓武天皇が行った律令制の改革とは?農民への取り締まりを強化?

まず、逃げ出した農民をきびしく取り締まります。さらに、私有地を勝手に作ることも禁止。土地の状況を把握するために、所有者などを記録することを徹底します。同時に、農民に対する徴税の負担を軽くすることも試みました。

ひとつは、貸し付けの利息を少なくすること。もうひとつは、労役の期間を短くすることです。しかし、律令制が十分に機能することはなく、記録により管理しきれない土地は増えていく一方という展開に。それが、平安時代における天皇制の弱体化を引き起こす理由のひとつとなりました。

蝦夷征伐は、東北地方の定住化をすすめる試み

律令制とは土地の管理を通じて農民を支配すること。管理しきれないと、それは不安材料になります。実は、東北地方も同じような状況でした。東北地方の内陸部は、古代から狩猟や採集の生計が中心。そこで桓武天皇は、農業による定住をすすめます。

しかし、それを嫌がる人々の反乱を頻発させることに。そこで桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に登用して東北地方の制圧を試みました。これが「蝦夷征伐」と呼ばれるものです。

平安初期は、主要な仏教の始まりの時期

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平安初期は、従来の仏教と新しい仏教の勢力が入れ替わる時期。当時、法相宗や華厳宗など、6宗の奈良仏教が権力を持っていました。それに対抗する勢力とされたのが平安仏教です。

平安仏教の中心となったのが真言宗と天台宗。真言宗の開祖は空海、天台宗の開祖は最澄です。朝廷は、2つの宗派を持ち上げて力を持ちすぎた奈良仏教の勢力を弱めることを試みました。

\次のページで「奈良仏教と平安仏教の違いは?公開型か非公開型かが教えのポイント!」を解説!/

奈良仏教と平安仏教の違いは?公開型か非公開型かが教えのポイント!

奈良仏教と平安仏教のいちばんの違いは、「顕教」か「密教」かにあります。顕教は、経典を読むと教えがはっきり分かるもの。いわば公開型の教えです。

一方、密教は、悟りの境地に達したものしか、教えは分かりません。顕教とは対照的に非公開型の教えということ。また、厳しい修行により、悟りの境地に達するという教えも特徴的です。修行により条件をクリアすれば、誰でも生きたまま仏になれるということ。この考えは、即身成仏と言われています。

空海と最澄はどんな人?

空海は、現在の香川県である讃岐国の出身。774年に生まれました。31歳で遣唐使の使節団の1人として中国へ行き、密教の教えを受けます。帰国後、嵯峨天皇から高野山を与えられ、そこを真言宗の拠点としました。

最澄は、現在の滋賀県である近江国に生まれます。804年、いわゆる短期留学生として中国にわたり、密教を学びました。帰国後、比叡山延暦寺を建立。最澄は天台宗の開祖となりました。

藤原氏の台頭により摂関政治が確立

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平安時代中期を特徴づけるのが摂関政治。藤原氏が天皇の外戚である摂関家として、重要な役職を占める政治形態です。

天皇は形式的には頂点にいます。しかし、実際に政治を動かしていたのが藤原摂関家。天皇を補佐するという形で政権を独裁するようになりました。直接は権力を持たないものの、間接的に政治を操る黒幕のような存在として力を持ったと言えいます。

藤原摂関家の始まりは?結婚を通じて権力を獲得?

もともと、天皇が幼いときや病気のとき、代わりに政治を行う立場の人はいました。ただその場合、天皇家から選ばれることが原則。それが866年に新たな形態が生まれます。

藤原北家の藤原良房が、初めて天皇家外から選出。それを可能にしたのが結婚でした。自分の娘を天皇家に嫁がせて後継ぎを生ませるという方法で、摂関家による政治の実権を獲得していったのです。

摂関政治の最大権力者が藤原道長

平安時代中期、摂関制により大きな力を持ったのが藤原道長。道長は、天皇の補佐として権力を持ちます。さらに自分の権力を維持するため、娘を次々と宮中に入れるように。そうすることで、道長の孫が政権の重要なポジションにつけるからです。そこから、息子たちの地位をさらに高めるという方法をとりました。

藤原道長の時代は、なんの不安もなく、栄華を誇っているように見えます。しかし同じ時期、地方官吏のために派遣した国司が不正や非道をはたらき、農民などから訴えが続出しました

遣唐使の廃止が国風文化を生み出した!

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平安時代を特徴づけるのはやっぱり文化。独自の美しさを持つ建築物や、中国とは異なる仏像の作風がみられるようになります。この時代の文化は「国風」と表現されることもしばしば。

国風文化が生まれた理由ははっきりしません。国風文化が生まれたのは唐に派遣する遣唐使が廃止されたからと言われることが多いようです。

遣唐使の廃止は唐の衰退が理由?財政の負担も大きかった?

遣唐使が持ち帰る最新の情報は、日本の政治、行政、文化に、大きな影響を与えます。しかし、9世紀の終わりになると、黄巣の乱が起きるなど唐の権力は弱体化するように。さらに、遣唐使を派遣する費用が負担に感じられるようになりました。

そこで、藤原道真が遣唐使の廃止を提案、894年から行われることはなくなりました。

国風文化の特徴は?ひらがな、カタカナも国風の一環?

建築では、貴族の住まいにその特徴がよく現れています。国風の建築としてよく取り上げられるのが「寝殿造り」と呼ばれる様式。また、檜皮葺、白木造、板床の建物が増えました。さらに、庭園に植える花も、梅より桜が増えるという変化も。

漢字とは別にかな文字が使われるようになったのも、この時期の文化の特徴です。「ひらがな」「カタカナ」が使われることで、詩歌、物語文学、日記の分野で、宮廷で眠っていた女性の才能が開花しました。

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地方武士が台頭、全国で戦乱が勃発!

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藤原道長を中心に藤原家の権力が強くなりますが、地方では反乱の兆しが出てきます。地方では、豪族や有力農民が勢力を拡大。武装して武士と呼ばれるようになります。彼らの一部は、警備に従事するなど貴族につかえるように。

その一方、部下を引き連れて対抗する勢力もあらわれました。そのため朝廷は、治安の悪化を懸念するようになります。

どのような武士団が結成されたの?

日本各地には、数多くの武士団が結成されました。関東エリアでは「武蔵7党」と呼ばれる武士団が一段勢力に。また四国エリアでは、藤原純友を中心とする武士団が大宰府等を襲うという事件が起こります。

九州エリアにおいても、女真人と呼ばれる武士団の内乱が発生。これらは鎮圧されるものの、新たな勢力の存在を感じさせるのに十分なものでした。

地方武士の内乱で最もインパクトがあったのは平将門

関東地方で大規模な内乱を起こしたのが平将門。関東エリアの有力者のなかには元皇族もおり、平将門もそのひとり。勢力を拡大した平将門は、地元の有力者と争いを繰り広げるようになります。935年、国府を襲撃して関東エリアを制圧して「新皇」を名乗るまでに。

同時期に、藤原純友の内乱も起こったことから、朝廷は鎮圧を試みます。940年、平将門はあっという間に討たれてさらし首に。この結末は、怨念により首が空を飛んだなどインパクトあるエピソードを生み出しました。

藤原道長の時代、平安文学も最盛期に

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藤原道長は、摂関制の確立など権力を集中させた人物です。同時に、道長は芸術に対する関心が高く、平安文学の確立に大きな役割を果たしたという一面も。

とくに有名な作品が、紫式部の『源氏物語』そして清少納言の『枕草子』。この2作品は、道長時代の貴族の生活や政権争いの様子を、細かく観察していることでも知られています。

『源氏物語』の主人公は藤原氏の政敵!王朝文学の代表作

『源氏物語』は、日本で最古の物語文学と言われています。その作者である紫式部は、藤原家道長の長女である顕子の家庭教師でした。『源氏物語』の主人公は藤原氏と対立的な位置にある源氏。藤原道長の摂関制の全盛期、どうして政敵の話を書けたのか、いろいろな説があります。

ひとつは、藤原道長はすべての権力を持っていたので、紫式部が源氏のことを書こうともまったく動じなかったという説。もうひとつは、自分が排除した政敵の怨念を恐れ、それを払拭するために許していたというもの。実際どうだったのかは分かりません。

清少納言『枕草子』は敗者の立場から書かれた文学

一方、『枕草子』を書いた清少納言は、藤原道長に排除された中関白家の定子に仕えた女房。清少納言が『枕草子』を書き続けるためには、藤原家の悪口はご法度です。そのため、敗者の立場でありながら、藤原道長に仕える男性たちの容姿や能力をほめちぎる場面がたくさん見られます。

敗者の立場から書かれた文学が残ることはとても珍しいこと。『枕草子』は、藤原摂関政治から排除された人々の生活を垣間見れる、貴重な作品でもあります。

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藤原摂関家が衰退すると、上皇支配の院政の時代に

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藤原家による摂関政治は、平安後期になると権力を失っていきます。代わりに台頭したのが上皇。天皇の地位を継承者に譲り、上皇の立場から政治に参画。この政治形態が院政です。

院政により、天皇は藤原摂関家から政権を取り戻すことに成功。1086年に白河天皇が退位して白河上皇となってから、平家が滅亡する1185年までの間を院政時代と呼びます。

白河上皇は、どうして政権を取り戻せた?

白河上皇が政権を取り戻せたのは、その前の天皇である後三条天皇がキーパーソン。後三条天皇は、藤原摂関家の外戚がおらず、摂関家の力を弱める政策を一気に推し進めます。

摂関家から嫁入りした女性が、子宝に恵まれなかったこともあり、源氏の人々を重要な役職につくことに。そんな父親のもと育ったのが白河上皇。若いころから政権を取り戻すことを強く意識して育ったと言えます。

白河上皇が院政を始めた理由は財政問題?

白河上皇が院政を始めた理由のひとつが財政問題。父親の後三条天皇の時代から、荘園整理令を出して、年貢の取り立てを進めまていました。しかし、その収入は不十分。天皇家の財政を圧迫することに。

そこで行われたのが天皇を早々に辞めて上皇になるという作戦。自由な立場で財政を立て直しはじめます。

白河上皇の作戦は、寺を建立し、その寺に荘園を持たせて年貢を取り立てるというもの。また、自ら選んだ国司を通じて富を吸い上げるという方法を確立しました。財力を高めることで、天皇家の権力を強めることにし成功したのです。

平安末期、源平争乱の始まりから鎌倉幕府の成立へ

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院政により天皇の権力を取り戻す一方、利権をめぐる交渉のなかで武士の活躍の場が増えていきます。1180年から1185年の5年間、権力闘争から大規模な内乱が勃発。源平争乱と言われるものです。ここで力をつけたのが平清盛。天皇家とうまく交渉して政治的権力を持つようになりました。

結果として、反乱の対象が平清盛が引き入る平家にシフトすることに。最後は、平家の滅亡により内乱は収束します。そして源頼朝を中心とする鎌倉幕府が成立。平安時代は幕を下ろし、時代も古代から中世に移り変わります。

平清盛はどうして力をつけることができたの?

平安末期、関東で力をつけていたのが源頼朝を生み出す河内源氏です。なかでも、河内源氏のひとりである源義家が関東で活躍、朝廷を警戒させる存在にまで成長。とりわけ河内源氏は、藤原摂関家と関係があるため、天皇家にとっては好ましい存在ではありませんでした。

そこでライバル的な位置にあった伊勢平氏を味方につけます。伊勢平氏は、のちに平清盛を生み出すグループ。このとき棟梁だったのが、清盛の祖父にあたる正盛でした。

正盛は、白河上皇の身辺を警護する北面武士に登用されることに。祖父の活躍により平家の地位が一気に高まり、平の清盛の台頭を後押ししたというわけです。

源頼朝はどさくさに紛れて政権をとった?

平清盛は天皇家にうまく取り入るものの、荘園の没収をめぐって関係性が悪化。清盛は、内乱を起こして平家による政権の確立を画策します。しかし、反平家の勢力が動き出すようになるなど、政権の周囲ばバタバタに。そのあいだの1185年、関東に追われていた源頼朝が現在の山口県にある壇ノ浦で平家を滅ぼします

ただ、源頼朝が後白河法皇といい関係を築いているわけではありませんでした。そのため、源頼朝が征夷大将軍になって鎌倉幕府を作るのは、後白河法皇の崩御のあととなります。

平安時代は政権をめぐる争いと、行政や文化の発展が特徴

平安時代は、美しい装束を身にまとった男女が、歌を詠みあっているというイメージが強い時代。しかし実際は、激しい政権争いのなかでいかに一族が生き残るか、野心がぶつかり合う時代でした。そのような時期だからこそ、行政の仕組みを整えようとする、新たな政治形態を確立する試みが生まれたと言えます。

また平安時代は、新しい仏教が力を持つというように新旧の価値観が交代する時期という特徴も。平安時代の大きな特徴である文化の発達は、政治や文化の転換期だったからこそ生まれたと考えることもできます。政権争いの勃発からくる野心や不安を読み解く材料として、興味深い時代であることは間違いありません。

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平安時代日本史歴史

「平安時代」を元大学教員が徹底解析!摂関政治・政権争いーー3分で簡単平安末期までの流れ

みんな、平安時代というとどんなイメージを持つ?
貴族たちが優雅に歌を詠んだり、蹴鞠(けまり)をしたりと、雅な文化が発達した時期と思う人も多いでしょう。もちろんその通り。しかし平安時代は、政権をめぐる政治的争いが拡大した時期。また、行政の仕組みが確立したことでも知られているんです。

よし!今回は、平安時代に詳しいライターのひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。枕草子が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。平安時代は、政治や行政の視点から見てもとても面白い時期。そこで、得意分野のひとつである平安時代から記事をまとめた。

平安時代の開始は桓武天皇による平安京の遷都から!

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奈良時代の終わり、そして平安時代の開始は、桓武天皇が長岡京から平安京に移ったタイミングからとされています。天皇の住まいが移ることが「遷都」。この遷都が行われたのは794(延暦13)年です。

もともと、長岡京を交通の便がいいなどの理由から都としていました。しかし、長岡京の側近の暗殺、疫病の流行、不作、さらには桓武天皇の近親者の病死と不幸が続きます。そこで、平安京に遷都することを決断しました。

桓武天皇とはどんな人?

桓武天皇は、平安前期を特徴づける取り組みを行った、いわばキーパーソン。父親の光仁天皇の体調が悪化したことにより、天皇に即位します。このときの桓武天皇の年齢は44歳。平安時代の基準でいえば高齢での皇位継承です。皇位継承後、24年11か月のあいだ天皇として行政や仏教の改革にとりくみました。

桓武天皇はどうして遷都を決意したの?

天皇は、世の中の平和を保ってこそ地位が安定します。しかし、桓武天皇が皇位継承したとき、殺害、疫病、不作など、人々を不安にさせることが続くように。また、桓武天皇の親族が病死したことも、遷都の決意を後押ししたと言われています。

不吉な出来事を払拭するために、早々に遷都することを決意した桓武天皇。大変な時期に皇位継承をすることになったと言えます。

平安時代初期は律令制の再建と東北経営の転換期!

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平安時代の初期は、律令制度を立て直した時期。飛鳥時代の後期に、中国の制度をもとに作られたのが律令制度です。この制度は、土地を国のものとみなして徴税を推し進めるもの。中央が国を管理する国家の中央集権体制に近い体制です。

しかし、徴税の負担に苦しむ農民が逃げ出すように。さらに、有力な寺院や貴族が、逃げ出した農民を集めて私有地を増やし始めます。桓武天皇が即位した時期、律令制は崩壊状態でした。

桓武天皇が行った律令制の改革とは?農民への取り締まりを強化?

まず、逃げ出した農民をきびしく取り締まります。さらに、私有地を勝手に作ることも禁止。土地の状況を把握するために、所有者などを記録することを徹底します。同時に、農民に対する徴税の負担を軽くすることも試みました。

ひとつは、貸し付けの利息を少なくすること。もうひとつは、労役の期間を短くすることです。しかし、律令制が十分に機能することはなく、記録により管理しきれない土地は増えていく一方という展開に。それが、平安時代における天皇制の弱体化を引き起こす理由のひとつとなりました。

蝦夷征伐は、東北地方の定住化をすすめる試み

律令制とは土地の管理を通じて農民を支配すること。管理しきれないと、それは不安材料になります。実は、東北地方も同じような状況でした。東北地方の内陸部は、古代から狩猟や採集の生計が中心。そこで桓武天皇は、農業による定住をすすめます。

しかし、それを嫌がる人々の反乱を頻発させることに。そこで桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に登用して東北地方の制圧を試みました。これが「蝦夷征伐」と呼ばれるものです。

平安初期は、主要な仏教の始まりの時期

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平安初期は、従来の仏教と新しい仏教の勢力が入れ替わる時期。当時、法相宗や華厳宗など、6宗の奈良仏教が権力を持っていました。それに対抗する勢力とされたのが平安仏教です。

平安仏教の中心となったのが真言宗と天台宗。真言宗の開祖は空海、天台宗の開祖は最澄です。朝廷は、2つの宗派を持ち上げて力を持ちすぎた奈良仏教の勢力を弱めることを試みました。

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