貴族たちが優雅に歌を詠んだり、蹴鞠(けまり)をしたりと、雅な文化が発達した時期と思う人も多いでしょう。もちろんその通り。しかし平安時代は、政権をめぐる政治的争いが拡大した時期。また、行政の仕組みが確立したことでも知られているんです。
よし!今回は、平安時代に詳しいライターのひこすけと一緒に解説していきます。
- 平安時代の開始は桓武天皇による平安京の遷都から!
- 桓武天皇とはどんな人?
- 桓武天皇はどうして遷都を決意したの?
- 平安時代初期は律令制の再建と東北経営の転換期!
- 桓武天皇が行った律令制の改革とは?農民への取り締まりを強化?
- 蝦夷征伐は、東北地方の定住化をすすめる試み
- 平安初期は、主要な仏教の始まりの時期
- 奈良仏教と平安仏教の違いは?公開型か非公開型かが教えのポイント!
- 空海と最澄はどんな人?
- 藤原氏の台頭により摂関政治が確立
- 藤原摂関家の始まりは?結婚を通じて権力を獲得?
- 摂関政治の最大権力者が藤原道長
- 遣唐使の廃止が国風文化を生み出した!
- 遣唐使の廃止は唐の衰退が理由?財政の負担も大きかった?
- 国風文化の特徴は?ひらがな、カタカナも国風の一環?
- 地方武士が台頭、全国で戦乱が勃発!
- どのような武士団が結成されたの?
- 地方武士の内乱で最もインパクトがあったのは平将門
- 藤原道長の時代、平安文学も最盛期に
- 『源氏物語』の主人公は藤原氏の政敵!王朝文学の代表作
- 清少納言『枕草子』は敗者の立場から書かれた文学
- 藤原摂関家が衰退すると、上皇支配の院政の時代に
- 白河上皇は、どうして政権を取り戻せた?
- 白河上皇が院政を始めた理由は財政問題?
- 平安末期、源平争乱の始まりから鎌倉幕府の成立へ
- 平清盛はどうして力をつけることができたの?
- 源頼朝はどさくさに紛れて政権をとった?
- 平安時代は政権をめぐる争いと、行政や文化の発展が特徴
この記事の目次
ライター/ひこすけ
文化系の授業を担当していた元大学教員。枕草子が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。平安時代は、政治や行政の視点から見てもとても面白い時期。そこで、得意分野のひとつである平安時代から記事をまとめた。
平安時代の開始は桓武天皇による平安京の遷都から!
奈良時代の終わり、そして平安時代の開始は、桓武天皇が長岡京から平安京に移ったタイミングからとされています。天皇の住まいが移ることが「遷都」。この遷都が行われたのは794(延暦13)年です。
もともと、長岡京を交通の便がいいなどの理由から都としていました。しかし、長岡京の側近の暗殺、疫病の流行、不作、さらには桓武天皇の近親者の病死と不幸が続きます。そこで、平安京に遷都することを決断しました。
桓武天皇とはどんな人?
桓武天皇は、平安前期を特徴づける取り組みを行った、いわばキーパーソン。父親の光仁天皇の体調が悪化したことにより、天皇に即位します。このときの桓武天皇の年齢は44歳。平安時代の基準でいえば高齢での皇位継承です。皇位継承後、24年11か月のあいだ天皇として行政や仏教の改革にとりくみました。
桓武天皇はどうして遷都を決意したの?
天皇は、世の中の平和を保ってこそ地位が安定します。しかし、桓武天皇が皇位継承したとき、殺害、疫病、不作など、人々を不安にさせることが続くように。また、桓武天皇の親族が病死したことも、遷都の決意を後押ししたと言われています。
不吉な出来事を払拭するために、早々に遷都することを決意した桓武天皇。大変な時期に皇位継承をすることになったと言えます。
平安時代初期は律令制の再建と東北経営の転換期!
平安時代の初期は、律令制度を立て直した時期。飛鳥時代の後期に、中国の制度をもとに作られたのが律令制度です。この制度は、土地を国のものとみなして徴税を推し進めるもの。中央が国を管理する国家の中央集権体制に近い体制です。
しかし、徴税の負担に苦しむ農民が逃げ出すように。さらに、有力な寺院や貴族が、逃げ出した農民を集めて私有地を増やし始めます。桓武天皇が即位した時期、律令制は崩壊状態でした。
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桓武天皇が行った律令制の改革とは?農民への取り締まりを強化?
まず、逃げ出した農民をきびしく取り締まります。さらに、私有地を勝手に作ることも禁止。土地の状況を把握するために、所有者などを記録することを徹底します。同時に、農民に対する徴税の負担を軽くすることも試みました。
ひとつは、貸し付けの利息を少なくすること。もうひとつは、労役の期間を短くすることです。しかし、律令制が十分に機能することはなく、記録により管理しきれない土地は増えていく一方という展開に。それが、平安時代における天皇制の弱体化を引き起こす理由のひとつとなりました。
蝦夷征伐は、東北地方の定住化をすすめる試み
律令制とは土地の管理を通じて農民を支配すること。管理しきれないと、それは不安材料になります。実は、東北地方も同じような状況でした。東北地方の内陸部は、古代から狩猟や採集の生計が中心。そこで桓武天皇は、農業による定住をすすめます。
しかし、それを嫌がる人々の反乱を頻発させることに。そこで桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に登用して東北地方の制圧を試みました。これが「蝦夷征伐」と呼ばれるものです。
平安初期は、主要な仏教の始まりの時期
平安初期は、従来の仏教と新しい仏教の勢力が入れ替わる時期。当時、法相宗や華厳宗など、6宗の奈良仏教が権力を持っていました。それに対抗する勢力とされたのが平安仏教です。
平安仏教の中心となったのが真言宗と天台宗。真言宗の開祖は空海、天台宗の開祖は最澄です。朝廷は、2つの宗派を持ち上げて力を持ちすぎた奈良仏教の勢力を弱めることを試みました。
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