3-12 不可解なイエットー事件
軍事政権は予定通り憲法草案が承認されると、早速次の段階へ進むことに。それは民政移管するために総選挙の準備です。しかしここで不可解な事件が。
2009年4月にアメリカ人男性がインヤー湖畔を泳いでアウン・サン・スーチーの自宅の敷地内へ侵入したのです。そして翌日また湖畔を泳いで帰ろうとしたところを逮捕・起訴されることに。この事件で何よりも不可解だったのが侵入されたアウン・サン・スーチーと彼女の自宅にいたNLD党員の親子までが逮捕され起訴されたことです。軍事政権側は自宅軟禁中に自宅に招き入れた罪とします。(アウン・サン・スーチーは招き入れてない)そして裁判が行われ最終的に恩赦されたため、アウン・サン・スーチーは1年半の自宅軟禁となりました。
しかしこの事件の大きな問題は、自宅警備している軍事政権側がアメリカ人イエットーの侵入を防がなかったこと。さらにイエットーも禁固7年の刑を受けたにも関わらずすぐに国外追放となったこと。後にイエットーのインタビューで軍事政権側が誘導してくれたと語っています。明らかに軍事政権がアウン・サン・スーチーを警戒してのことでした。
4 ミャンマーの今後の課題
ミャンマーの民主化運動は軍事政権と民主化を求めたアウン・サン・スーチーの闘いだったのですね。軍事政権からは多くの妨害を受けながらも、2012年の補欠選挙でついにNLDが圧勝した彼女。軍事政権が支配していたミャンマーで、民意が尊重されNLDが圧勝したことが歴史的だったのです。それではその後のミャンマーがどうなったのか見ていきましょう。
4-1 アウン・サン・スーチーの思想
彼女の考え方には上座部仏教とガンディーの思想が強く影響していることが伺えます。彼女は対峙している軍事政権に対し、暴力や復讐ではなく対話によって和解しようと試みてきました。また演説では非暴力を訴え、自らも実践してきたのです。
4-2 現在のミャンマー
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By Claude TRUONG-NGOC – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link
アウン・サン・スーチーの率いるNLDは補欠選挙で圧勝したとはいえ、全議席で見ると少数派(全体議員のわずか6%)。しかし彼女は少数派政党に呼びかけ、団結することに。またテインセン大統領と直接対談することで、NLDの影響力を高めます。ダムの建設中止や政治犯の解放は、ミャンマーが民主化していることの表れとNLDの影響力があったからこそ実現しました。
2016年の選挙においてNLDは圧勝し、アウン・サン・スーチーも当選。そして彼女は事実上の首相となることに。事実上というのは、ミャンマーの憲法でイギリス国籍の夫を持つアウン・サン・スーチーは大統領になれないため。彼女の正式な肩書は国家顧問です。
4-3 ロヒンギャ問題
民主主義を目的に政治活動をしていたアウン・サン・スーチーを大きな問題が直面していいます。ロヒンギャ問題です。ロヒンギャとは、ミャンマーの少数民族のこと。ムスリムなので、上座部仏教徒が9割を占めるミャンマーでは少数派の宗教を信仰しています。政府はロヒンギャを不法移民(ルーツがバングラデシュ)とみなし、国籍を与えていません。国籍以外に基本的な権利がなく、弾圧を逃れるため難民として国外へ逃げる人が後を絶ちません。アウンサンスーチーはこの問題に対して消極的な姿勢です。これに対して国際社会は彼女を非難。ノーベル平和賞をはく奪する署名活動も行われることに。
4-4 民主主義化できるのか?
しかしアウン・サン・スーチーは憲法で警察や軍、そして国境問題に関する権限がない(軍が支配している)ため、動けないのが現状。まだまだミャンマーの民主化は時間がかかるようですね。これからもミャンマー情勢に注視していくべきでしょう。
「アウン・サン・スーチー」の粘り強い民主化への道のり
アウン・サン・スーチーという名を知っている人は多いとは思います。しかし、なぜ彼女が軟禁されていたのか、なぜミャンマーは民主化運動が行われてきたのかを知っている人は少ないのではないでしょうか。そしてミャンマーは遠い国ではなく、実は第二次世界大戦時に日本と関係があったのです。
アウン・サン・スーチーの民主化運動での行動力は目を見張るものがあります。ここまで強い女性はなかなかいないでしょう。彼女なくしてミャンマーが軍事政権から民主化へ向かうことはなかったのではないでしょうか。彼女は現在国家顧問として活躍していますが、未だミャンマーの民主化への道のりは厳しいものとなるでしょう。
ミャンマーは多民族国家で、多くの問題を抱えています。中でも深刻な問題がロヒンギャ問題。今なお助けを求めている人々が大勢いるのです。この記事をきっかけにミャンマーの現状を知り、国際理解を深める一歩としてもらえたらうれしく思います。