3-5 ノーベル平和賞受賞
1991年にアウン・サン・スーチーはノーベル平和賞を受賞することになりました。彼女が評価されたのは、非暴力によって軍事政権に抗い、今もなお民主化運動を指導していたため。彼女自身は軟禁中だったため、代わりに彼女の家族が賞を受け取りました。この受賞によってミャンマーは国際社会から注目を集めるように。
3-6 軟禁後の活動
1995年7月。アウン・サン・スーチーは軟禁生活にピリオドを打つことに。彼女はNLDの書記長に復帰し、軍事政権側に無条件の対話を求めます、しかし軍事政権側は拒否。更にアウン・サン・スーチーが自宅前で行った集会を禁止させたり、彼女がNLD支部へ向かうことも阻止したりするなど強硬的な手段を取りました。
またNLDは1990年に総選挙で当選した議員らから委任状を得て、国会代表者委員会を設置して、当選議員による国会を代行開催する策を取ります。この国会では軍政が出した命令などを審査し、不当であることを宣言。そして軍事政権とは別に新憲法の草案の検討を始める事態に。これに対して軍事政権側は猛反発。軍事政権側はアウン・サン・スーチーやNLD党の人々を人身攻撃するように。さらになんと「当選取り消しキャンペーン」までやることに。これによってNLD党の当選者らが当選無効を宣言されてしまいました。
3-7 夫の死
そんな状況の中の出来事でした。1999年に夫マイケルが末期がんに。彼はミャンマーへ渡るためヴィザの発行を求めましたが、軍事政権側は拒否。アウン・サン・スーチーは一度国外に出ると2度と戻れないことが分かっていたため、夫を看取ることを諦めることに。
3-8 2回目の軟禁
2度目の軟禁生活は2年ほどでした。今回の軟禁が短かったのは国際社会の動きがあったため。また前回の軟禁中ではなかった軍事政権側との対話が実現。そして国連のビルマ問題担当特使ラザリ・イスマイルの助力によってアウン・サン・スーチーは解放されます。国際社会は、民主化の進展などを期待しますが、残念ながら叶わず。軍事政権側はアウン・サン・スーチーとの対話を一方的にやめてしまいます。彼女はしばらくして政治活動を再開。軍事政権の予想を上回り、アウン・サン・スーチーの演説を聞くために多くの聴衆が詰めかけるように。軍事政権側は彼女に対して強い危機感を感じることになります。
3-9 ディベーイン事件から3回目の軟禁生活へ
2003年の5月にディベーイン事件が起きました。これは政治活動をしていたアウン・サン・スーチーやNLD党のメンバーらが軍事政権側に襲撃されたのです。この事件の死者は100名を超えるとも。アウン・サン・スーチーは襲撃の際に逃げて無事でしたが、後に捕らわれ監禁されます。その後婦人科の病気のため病院で治療を受けた後3回目の軟禁生活が始まりました。
3-10 軟禁生活解放前のアクシデント
3回目の軟禁生活は本来ならば2009年11月に終わる予定でした。しかしここで軟禁期間が延長されることになります。原因は2007年に起こった僧侶デモでした。このデモはもともと燃料費が急激に高騰したことを受け、高騰に苦しむ国民のため僧侶らが反政府デモを行ったもの。しかし一部の僧がアウン・サン・スーチーの自宅へ向かい、家の前で読経を読む行動を取ります。しかもアウン・サン・スーチー本人が家から出てきてお礼を言うという事件が起こったのです。この映像はYouTubeに投稿され、この出来事を知った国民らが民主化運動とみなしてデモに合流することに。軍事政権側は静観から一変。強硬策を講じ、死者数十人、負傷者千人にもなることに。このデモでは日本人ジャーナリストの長井さんが命を落とすことになったのでした。
3-11 憲法草案が国民投票で承認される
2008年5月に軍事政権は憲法の草案を国民投票しようと考えていました。しかし投票直前にサイクロンがミャンマー国内を襲いました。14万人にも及ぶ死者及び行方不明者を出し、240万人もの被災者を出す結果に。国際社会は救援を申し出ますが、軍事政権は断り続けます。軍事政権側は国民投票が予定通り行われないかもしれないと思ったため。しかし、最終的には受け入れることに。予定通り国民投票は実施され、9割以上の投票率と賛成率で承認されることに。
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