2-3 エリートな経歴
1960年代の半ばのミャンマーは私立学校での教育が認められており、アウン・サン・スーチーはキリスト系の学校へ通うことに。彼女は上座部仏教徒でしたが、当時の裕福な家庭では教育が充実しているキリスト系の学校へ通わせることが多かったのです。その後アウン・サン・スーチーは15歳から家族と共にインドのデリーへ渡り、シュリラム・カレッジで政治学を専攻。ここから彼女の長い海外生活がスタートすることに。そしてこの頃、ガンディーの思想に傾倒するようになったアウン・サン・スーチー。そして英オックスフォード大学、1969年にはニューヨーク大学院へ進学。大学院を中退後は国連スタッフとして働くことに。ちなみに彼女が話せる言語はビルマ語、英語、フランス語、日本語。彼女がかなりの秀才であったことが分かりますね。
2-4 結婚
アウン・サン・スーチーの結婚相手は大学で出会ったマイケル・アリス。彼はイギリス人でした。彼女自身はミャンマー国民に、ビルマ独立の父と呼ばれている父の娘がイギリス人と結婚するのを非難されてしまうのではないかと心配していたそう。しかし無事に結婚し、結婚後は国連の仕事を辞めました。チベット学者だったアリスのサポートをし、彼女も関連する仕事に就きました。
2-5 日本来日
アウン・サン・スーチーはなんと日本に来日していたことがありました。それは父アウンサン将軍と日本に深いかかわりがあったため。父を知るための来日でした。来日にあたり彼女は日本語を勉強。2年経つ頃には三島由紀夫の小説をそのまま読めるほど知識を深めます。アウン・サン・スーチーは京都大学で客員研究員となり、10か月間日本の資料や父と交流のあった人物への聞き取り調査をすることに。
3-1 きっかけは母の看病
アウン・サン・スーチーは1988年に母が危篤という知らせを受け、帰国しました。一般的にミャンマー国民は母を大事にする人が多いため、母を看病するのは一般的。そしてちょうどその頃、学生らが起こした反政府活動が活発に活動していました。ミャンマーでは1962年から26年間もの間反政府運動がなされ、ネィウィン率いるビルマ式社会主義体制に国民の不満がありました。88年の運動では学生と警察や軍が対立し、後者は発砲するなど厳しい取り締まります。そんな中、アウン・サン・スーチーが帰国していることが知られると、学生らは彼女の家へ向かいました。こうしてアウン・サン・スーチーは学生らを通してミャンマーが転換期に来ていることを感じ、表舞台で活動するように。
3-2 アウン・サン・スーチー、政党を立ち上げる
アウン・サン・スーチーは1988年の8月に演説を行いました。その時の聴衆は5万とも10万とも言われています。次第に運動は反ネィウィン運動ではなく、民主化と人権の確立を求めて行われるように。しかし国軍が全権を掌握し、武力で運動は抑えられ軍事政権が誕生します。
その後唯一の合法政党だったビルマ社会主義計画党を解散させ、複数政党導入が宣言されることに。アウン・サン・スーチーは元国防大臣ティンウーらと共に国民民主連盟(NLD)を結成。これによって政治家デビューを果たすことに。
3-3 当初から警戒されていた
NLDは当初から国軍が警戒していました。そのため、たびたびNLDは妨害を受けることに。
そして1回目の自宅軟禁になりました。きっかけは当時引退していたネィウィン批判をしたため。彼の影響が大きかった国軍を怒らせることになり、軍事政権は彼女を国家防御法(治安維持法のようなもの)で6年間の軟禁に処しました。
そこから彼女の孤独な闘いが始まります。軍事政権側は国外へ出るなら解放するとしますが、彼女は応じません。彼女は反政府運動によって逮捕された学生らの不当な扱いに抗議するため、11日間もの間一切食事を摂らない行動に出ます。ここで軍事政権から、学生らを拷問しないと約束させることに成功。また家族とは軟禁生活2年目以降は接触を禁じられます。手紙のやり取りは認められていましたが、彼女は抗議のためやり取りをしませんでした。また6年間の生活費は軍事政権からも夫からの援助を受けず、家財道具を売り払って生活費を作ったのです。かなり精神面がタフな女性ですね。彼女の元には毎日軍事政権側の将校が健康状態の確認で訪れ、それ以外では家政婦がやってくるくらい。情報はラジオを聞くことや軍事政権が作成した新聞や一部の雑誌くらいしか手に入らない状況。そんな中を彼女は過ごしたのです。
3-4 1回目の軟禁中に総選挙が行われる
アウン・サン・スーチーが自宅軟禁中に軍事政権は総選挙を行うことに。これは当初公約していたもの。アウン・サン・スーチーは軟禁中の身でしたが、立候補。しかし軍事政権はそれを認めず。NLD側にとって不利な状況でしたが、結果はNLDの圧勝。この結果に動揺した軍事政権は、アウン・サン・スーチーの解放をせず議会の開催も応じませんでした。それどころか軍にとって都合の良い憲法を作るように。この憲法は2007年に草案がまとまり、国民投票を経て翌年に施行されることになったのです。
\次のページで「3-5 ノーベル平和賞受賞」を解説!/