それじゃあ解説をアウン・サン・スーチーに詳しいまぁこと一緒にしていくからな。
- 1 ミャンマーとは?
- 1-1 軍事政権下のミャンマー
- 1-2 軍事政権の描く民主主義
- 1-3 補欠選挙にてスーチー率いる党が圧勝
- 2 ミャンマーの歴史とアウン・サン・スーチーの生い立ち
- 2-1 イギリス領だったビルマ
- 2-2 名前の由来と幼少期
- 2-3 エリートな経歴
- 2-4 結婚
- 2-5 日本来日
- 3 なぜ軍事政権と対峙することになったのか?
- 3-1 きっかけは母の看病
- 3-2 アウン・サン・スーチー、政党を立ち上げる
- 3-3 当初から警戒されていた
- 3-4 1回目の軟禁中に総選挙が行われる
- 3-5 ノーベル平和賞受賞
- 3-6 軟禁後の活動
- 3-7 夫の死
- 3-8 2回目の軟禁
- 3-9 ディベーイン事件から3回目の軟禁生活へ
- 3-10 軟禁生活解放前のアクシデント
- 3-11 憲法草案が国民投票で承認される
- 3-12 不可解なイエットー事件
- 4 ミャンマーの今後の課題
- 4-1 アウン・サン・スーチーの思想
- 4-2 現在のミャンマー
- 4-3 ロヒンギャ問題
- 4-4 民主主義化できるのか?
- 「アウン・サン・スーチー」の粘り強い民主化への道のり
この記事の目次
ライター/まぁこ
ミャンマーの民主主義のシンボルである「アウン・サン・スー・チー」に対して関心を持っていた歴女まぁこ。「アウン・サン・スーチー」の幼少期を始め、ミャンマーでの民主主義運動の流れを解説していきます。
1 ミャンマーとは?
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ミャンマーという国をご存知でしょうか。かつてはビルマと呼ばれた国です。アジアに位置し、隣国はインド、バングラデシュなど。軍事政権が長らくミャンマーを統治していました。2012年に行われた補欠選挙にてアウン・サン・スーチーが率いる政党が圧勝しました。これはまさに歴史的瞬間でした。何が歴史的瞬間なのか?今回はミャンマーの変化やかつてビルマと呼ばれたミャンマーの歴史、アウン・サン・スーチーやミャンマーの民主化運動について解説していきます。
1-1 軍事政権下のミャンマー
ミャンマーでは軍事政権が2011年まで続いていました。その後テインセン大統領の下、民主化が進められていきます。しかしテインセン新政権へ移ったといえど、大統領や閣僚らの8割が退役軍人。これではまだ民主化とはいえない状況でした。
1-2 軍事政権の描く民主主義
軍事政権は「民政移管」を掲げて、2003年に7つの段階を経て民主主義となるようにすることを発表。徐々に民主化を目指したのですね。そして2008年に憲法が作られました。しかし作られた憲法は軍事政権に都合がいいもの。例を挙げると、内務大臣や国防大臣、国境担当大臣といった重要なポストには国軍最高司令官が任命権を持つことや25%の議席は国軍が議員を指名することができるなど。しかもこの憲法を改正するためには、大きなハードルがあります。アウン・サン・スーチーの目的は、ミャンマーを真に民主化させること。
1-3 補欠選挙にてスーチー率いる党が圧勝
2012年4月に行われたミャンマーの補欠選挙で歴史的な瞬間を迎えました。アウン・サン・スーチーの率いる国民民主連盟(略称NLD)が圧勝。44議席に対して44人の候補者を立て、43人が当選。圧倒的な勝利でした。
2 ミャンマーの歴史とアウン・サン・スーチーの生い立ち
この章では、かつてビルマと呼ばれたミャンマーの歴史について解説します。ミャンマーを語る上で重要なのは、アウン・サン・スーチーの父、アウンサン将軍。現在のミャンマー事情を知るには過去の歴史を振り返る必要があります。そして娘のアウン・サン・スーチーの生い立ちから、彼女がどんな人物だったのか解説。
2-1 イギリス領だったビルマ
そもそもミャンマーはイギリス領でした。しかしビルマ独立を目指したアウンサンは当時の反英民族団体のタキン党に入党し、書記長として活躍。しかし当局から逮捕状が出たため、中国へ渡ります。その時、鈴木敬司大佐の策によって日本へ行くことに。日本では鈴木大佐の指導する対ビルマ謀略機関に参加します。その後軍事訓練を受けると、1941年に日本軍とは別のルートでビルマに向かい、植民地政府とイギリス軍を追い払うことに成功しました。しかし日本軍がビルマを占領したため、反旗を翻すことにしたアウンサン。
アウンサンはビルマ奪還を目指すイギリスと共闘の末、日本に勝利。その後イギリスと粘り強い交渉の末、独立達成を果たすことに。しかし独立を目前となった1947年に政敵ウー・ソオの部下によって暗殺されました。
2-2 名前の由来と幼少期
一般的にミャンマーの方の名前は日本のような苗字がありません。ちなみにアウンサンスーチーは、アウンサンは父の名を、スーは父方の祖母の名を、チーは母キンチーの名の一部を取ったもの。
アウン・サン・スーチーは首都ラングーンに生まれました。幼少時代は上座仏教徒の母キンチーの厳しい躾けを受けました。また彼女は大の読書家。車が信号で止まるたびに本を開くほど。アウン・サン・スーチーが2歳の時にアウンサン将軍は暗殺されたため、父の記憶がない彼女。後に彼女は父のことをさまざまな文献や伝記などを読んでどんな父だったのか触れようと試みました。
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