今回はアウン・サン・スーチーについてです。彼女はビルマ独立の父と呼ばれたアウンサン将軍の娘で、ミャンマーの政治家です。彼女が国政に登場する前のミャンマーは軍事政権だったんです。

それじゃあ解説をアウン・サン・スーチーに詳しいまぁこと一緒にしていくからな。

ライター/まぁこ

ミャンマーの民主主義のシンボルである「アウン・サン・スー・チー」に対して関心を持っていた歴女まぁこ。「アウン・サン・スーチー」の幼少期を始め、ミャンマーでの民主主義運動の流れを解説していきます。

1 ミャンマーとは?

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ミャンマーという国をご存知でしょうか。かつてはビルマと呼ばれた国です。アジアに位置し、隣国はインド、バングラデシュなど。軍事政権が長らくミャンマーを統治していました。2012年に行われた補欠選挙にてアウン・サン・スーチーが率いる政党が圧勝しました。これはまさに歴史的瞬間でした。何が歴史的瞬間なのか?今回はミャンマーの変化やかつてビルマと呼ばれたミャンマーの歴史、アウン・サン・スーチーやミャンマーの民主化運動について解説していきます。

1-1 軍事政権下のミャンマー

ミャンマーでは軍事政権が2011年まで続いていました。その後テインセン大統領の下、民主化が進められていきます。しかしテインセン新政権へ移ったといえど、大統領や閣僚らの8割が退役軍人。これではまだ民主化とはいえない状況でした。

1-2  軍事政権の描く民主主義

軍事政権は「民政移管」を掲げて、2003年に7つの段階を経て民主主義となるようにすることを発表。徐々に民主化を目指したのですね。そして2008年に憲法が作られました。しかし作られた憲法は軍事政権に都合がいいもの。例を挙げると、内務大臣や国防大臣、国境担当大臣といった重要なポストには国軍最高司令官が任命権を持つことや25%の議席は国軍が議員を指名することができるなど。しかもこの憲法を改正するためには、大きなハードルがあります。アウン・サン・スーチーの目的は、ミャンマーを真に民主化させること。

1-3 補欠選挙にてスーチー率いる党が圧勝

2012年4月に行われたミャンマーの補欠選挙で歴史的な瞬間を迎えました。アウン・サン・スーチーの率いる国民民主連盟(略称NLD)が圧勝。44議席に対して44人の候補者を立て、43人が当選。圧倒的な勝利でした。

2 ミャンマーの歴史とアウン・サン・スーチーの生い立ち

この章では、かつてビルマと呼ばれたミャンマーの歴史について解説します。ミャンマーを語る上で重要なのは、アウン・サン・スーチーの父、アウンサン将軍。現在のミャンマー事情を知るには過去の歴史を振り返る必要があります。そして娘のアウン・サン・スーチーの生い立ちから、彼女がどんな人物だったのか解説。

2-1 イギリス領だったビルマ

そもそもミャンマーはイギリス領でした。しかしビルマ独立を目指したアウンサンは当時の反英民族団体のタキン党に入党し、書記長として活躍。しかし当局から逮捕状が出たため、中国へ渡ります。その時、鈴木敬司大佐の策によって日本へ行くことに。日本では鈴木大佐の指導する対ビルマ謀略機関に参加します。その後軍事訓練を受けると、1941年に日本軍とは別のルートでビルマに向かい、植民地政府とイギリス軍を追い払うことに成功しました。しかし日本軍がビルマを占領したため、反旗を翻すことにしたアウンサン。

アウンサンはビルマ奪還を目指すイギリスと共闘の末、日本に勝利。その後イギリスと粘り強い交渉の末、独立達成を果たすことに。しかし独立を目前となった1947年に政敵ウー・ソオの部下によって暗殺されました。

2-2 名前の由来と幼少期

一般的にミャンマーの方の名前は日本のような苗字がありません。ちなみにアウンサンスーチーは、アウンサンは父の名を、スーは父方の祖母の名を、チーは母キンチーの名の一部を取ったもの。

アウン・サン・スーチーは首都ラングーンに生まれました。幼少時代は上座仏教徒の母キンチーの厳しい躾けを受けました。また彼女は大の読書家。車が信号で止まるたびに本を開くほど。アウン・サン・スーチーが2歳の時にアウンサン将軍は暗殺されたため、父の記憶がない彼女。後に彼女は父のことをさまざまな文献や伝記などを読んでどんな父だったのか触れようと試みました。

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2-3 エリートな経歴

1960年代の半ばのミャンマーは私立学校での教育が認められており、アウン・サン・スーチーはキリスト系の学校へ通うことに。彼女は上座部仏教徒でしたが、当時の裕福な家庭では教育が充実しているキリスト系の学校へ通わせることが多かったのです。その後アウン・サン・スーチーは15歳から家族と共にインドのデリーへ渡り、シュリラム・カレッジで政治学を専攻。ここから彼女の長い海外生活がスタートすることに。そしてこの頃、ガンディーの思想に傾倒するようになったアウン・サン・スーチー。そして英オックスフォード大学、1969年にはニューヨーク大学院へ進学。大学院を中退後は国連スタッフとして働くことに。ちなみに彼女が話せる言語はビルマ語、英語、フランス語、日本語。彼女がかなりの秀才であったことが分かりますね。

2-4 結婚

アウン・サン・スーチーの結婚相手は大学で出会ったマイケル・アリス。彼はイギリス人でした。彼女自身はミャンマー国民に、ビルマ独立の父と呼ばれている父の娘がイギリス人と結婚するのを非難されてしまうのではないかと心配していたそう。しかし無事に結婚し、結婚後は国連の仕事を辞めました。チベット学者だったアリスのサポートをし、彼女も関連する仕事に就きました。

2-5 日本来日

アウン・サン・スーチーはなんと日本に来日していたことがありました。それは父アウンサン将軍と日本に深いかかわりがあったため。父を知るための来日でした。来日にあたり彼女は日本語を勉強。2年経つ頃には三島由紀夫の小説をそのまま読めるほど知識を深めます。アウン・サン・スーチーは京都大学で客員研究員となり、10か月間日本の資料や父と交流のあった人物への聞き取り調査をすることに。

3 なぜ軍事政権と対峙することになったのか?

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ここではなぜアウン・サン・スーチーと軍事政権が対峙するようになったのか解説していきたいと思います。

3-1 きっかけは母の看病

アウン・サン・スーチーは1988年に母が危篤という知らせを受け、帰国しました。一般的にミャンマー国民は母を大事にする人が多いため、母を看病するのは一般的。そしてちょうどその頃、学生らが起こした反政府活動が活発に活動していました。ミャンマーでは1962年から26年間もの間反政府運動がなされ、ネィウィン率いるビルマ式社会主義体制に国民の不満がありました。88年の運動では学生と警察や軍が対立し、後者は発砲するなど厳しい取り締まります。そんな中、アウン・サン・スーチーが帰国していることが知られると、学生らは彼女の家へ向かいました。こうしてアウン・サン・スーチーは学生らを通してミャンマーが転換期に来ていることを感じ、表舞台で活動するように。

3-2 アウン・サン・スーチー、政党を立ち上げる

アウン・サン・スーチーは1988年の8月に演説を行いました。その時の聴衆は5万とも10万とも言われています。次第に運動は反ネィウィン運動ではなく、民主化と人権の確立を求めて行われるように。しかし国軍が全権を掌握し、武力で運動は抑えられ軍事政権が誕生します。

その後唯一の合法政党だったビルマ社会主義計画党を解散させ、複数政党導入が宣言されることに。アウン・サン・スーチーは元国防大臣ティンウーらと共に国民民主連盟(NLD)を結成。これによって政治家デビューを果たすことに。

3-3 当初から警戒されていた

NLDは当初から国軍が警戒していました。そのため、たびたびNLDは妨害を受けることに。

そして1回目の自宅軟禁になりました。きっかけは当時引退していたネィウィン批判をしたため。彼の影響が大きかった国軍を怒らせることになり、軍事政権は彼女を国家防御法(治安維持法のようなもの)で6年間の軟禁に処しました。

そこから彼女の孤独な闘いが始まります。軍事政権側は国外へ出るなら解放するとしますが、彼女は応じません。彼女は反政府運動によって逮捕された学生らの不当な扱いに抗議するため、11日間もの間一切食事を摂らない行動に出ます。ここで軍事政権から、学生らを拷問しないと約束させることに成功。また家族とは軟禁生活2年目以降は接触を禁じられます。手紙のやり取りは認められていましたが、彼女は抗議のためやり取りをしませんでした。また6年間の生活費は軍事政権からも夫からの援助を受けず、家財道具を売り払って生活費を作ったのです。かなり精神面がタフな女性ですね。彼女の元には毎日軍事政権側の将校が健康状態の確認で訪れ、それ以外では家政婦がやってくるくらい。情報はラジオを聞くことや軍事政権が作成した新聞や一部の雑誌くらいしか手に入らない状況。そんな中を彼女は過ごしたのです。

3-4 1回目の軟禁中に総選挙が行われる

アウン・サン・スーチーが自宅軟禁中に軍事政権は総選挙を行うことに。これは当初公約していたもの。アウン・サン・スーチーは軟禁中の身でしたが、立候補。しかし軍事政権はそれを認めず。NLD側にとって不利な状況でしたが、結果はNLDの圧勝。この結果に動揺した軍事政権は、アウン・サン・スーチーの解放をせず議会の開催も応じませんでした。それどころか軍にとって都合の良い憲法を作るように。この憲法は2007年に草案がまとまり、国民投票を経て翌年に施行されることになったのです。

\次のページで「3-5  ノーベル平和賞受賞」を解説!/

3-5  ノーベル平和賞受賞

1991年にアウン・サン・スーチーはノーベル平和賞を受賞することになりました。彼女が評価されたのは、非暴力によって軍事政権に抗い、今もなお民主化運動を指導していたため。彼女自身は軟禁中だったため、代わりに彼女の家族が賞を受け取りました。この受賞によってミャンマーは国際社会から注目を集めるように。

3-6 軟禁後の活動

1995年7月。アウン・サン・スーチーは軟禁生活にピリオドを打つことに。彼女はNLDの書記長に復帰し、軍事政権側に無条件の対話を求めます、しかし軍事政権側は拒否。更にアウン・サン・スーチーが自宅前で行った集会を禁止させたり、彼女がNLD支部へ向かうことも阻止したりするなど強硬的な手段を取りました。

またNLDは1990年に総選挙で当選した議員らから委任状を得て、国会代表者委員会を設置して、当選議員による国会を代行開催する策を取ります。この国会では軍政が出した命令などを審査し、不当であることを宣言。そして軍事政権とは別に新憲法の草案の検討を始める事態に。これに対して軍事政権側は猛反発。軍事政権側はアウン・サン・スーチーやNLD党の人々を人身攻撃するように。さらになんと「当選取り消しキャンペーン」までやることに。これによってNLD党の当選者らが当選無効を宣言されてしまいました。

3-7 夫の死

そんな状況の中の出来事でした。1999年に夫マイケルが末期がんに。彼はミャンマーへ渡るためヴィザの発行を求めましたが、軍事政権側は拒否。アウン・サン・スーチーは一度国外に出ると2度と戻れないことが分かっていたため、夫を看取ることを諦めることに。

3-8 2回目の軟禁

2度目の軟禁生活は2年ほどでした。今回の軟禁が短かったのは国際社会の動きがあったため。また前回の軟禁中ではなかった軍事政権側との対話が実現。そして国連のビルマ問題担当特使ラザリ・イスマイルの助力によってアウン・サン・スーチーは解放されます。国際社会は、民主化の進展などを期待しますが、残念ながら叶わず。軍事政権側はアウン・サン・スーチーとの対話を一方的にやめてしまいます。彼女はしばらくして政治活動を再開。軍事政権の予想を上回り、アウン・サン・スーチーの演説を聞くために多くの聴衆が詰めかけるように。軍事政権側は彼女に対して強い危機感を感じることになります。

3-9 ディベーイン事件から3回目の軟禁生活へ

2003年の5月にディベーイン事件が起きました。これは政治活動をしていたアウン・サン・スーチーやNLD党のメンバーらが軍事政権側に襲撃されたのです。この事件の死者は100名を超えるとも。アウン・サン・スーチーは襲撃の際に逃げて無事でしたが、後に捕らわれ監禁されます。その後婦人科の病気のため病院で治療を受けた後3回目の軟禁生活が始まりました。

3-10 軟禁生活解放前のアクシデント

2007 Myanmar protests 11.jpg
By racoles - Monks Protesting in Burma, CC 表示 2.0, Link

3回目の軟禁生活は本来ならば2009年11月に終わる予定でした。しかしここで軟禁期間が延長されることになります。原因は2007年に起こった僧侶デモでした。このデモはもともと燃料費が急激に高騰したことを受け、高騰に苦しむ国民のため僧侶らが反政府デモを行ったもの。しかし一部の僧がアウン・サン・スーチーの自宅へ向かい、家の前で読経を読む行動を取ります。しかもアウン・サン・スーチー本人が家から出てきてお礼を言うという事件が起こったのです。この映像はYouTubeに投稿され、この出来事を知った国民らが民主化運動とみなしてデモに合流することに。軍事政権側は静観から一変。強硬策を講じ、死者数十人、負傷者千人にもなることに。このデモでは日本人ジャーナリストの長井さんが命を落とすことになったのでした。

3-11 憲法草案が国民投票で承認される

2008年5月に軍事政権は憲法の草案を国民投票しようと考えていました。しかし投票直前にサイクロンがミャンマー国内を襲いました。14万人にも及ぶ死者及び行方不明者を出し、240万人もの被災者を出す結果に。国際社会は救援を申し出ますが、軍事政権は断り続けます。軍事政権側は国民投票が予定通り行われないかもしれないと思ったため。しかし、最終的には受け入れることに。予定通り国民投票は実施され、9割以上の投票率と賛成率で承認されることに。

\次のページで「3-12 不可解なイエットー事件」を解説!/

3-12 不可解なイエットー事件

軍事政権は予定通り憲法草案が承認されると、早速次の段階へ進むことに。それは民政移管するために総選挙の準備です。しかしここで不可解な事件が。

2009年4月にアメリカ人男性がインヤー湖畔を泳いでアウン・サン・スーチーの自宅の敷地内へ侵入したのです。そして翌日また湖畔を泳いで帰ろうとしたところを逮捕・起訴されることに。この事件で何よりも不可解だったのが侵入されたアウン・サン・スーチーと彼女の自宅にいたNLD党員の親子までが逮捕され起訴されたことです。軍事政権側は自宅軟禁中に自宅に招き入れた罪とします。(アウン・サン・スーチーは招き入れてない)そして裁判が行われ最終的に恩赦されたため、アウン・サン・スーチーは1年半の自宅軟禁となりました。

しかしこの事件の大きな問題は、自宅警備している軍事政権側がアメリカ人イエットーの侵入を防がなかったこと。さらにイエットーも禁固7年の刑を受けたにも関わらずすぐに国外追放となったこと。後にイエットーのインタビューで軍事政権側が誘導してくれたと語っています。明らかに軍事政権がアウン・サン・スーチーを警戒してのことでした。

4 ミャンマーの今後の課題

ミャンマーの民主化運動は軍事政権と民主化を求めたアウン・サン・スーチーの闘いだったのですね。軍事政権からは多くの妨害を受けながらも、2012年の補欠選挙でついにNLDが圧勝した彼女。軍事政権が支配していたミャンマーで、民意が尊重されNLDが圧勝したことが歴史的だったのです。それではその後のミャンマーがどうなったのか見ていきましょう。

4-1 アウン・サン・スーチーの思想

彼女の考え方には上座部仏教とガンディーの思想が強く影響していることが伺えます。彼女は対峙している軍事政権に対し、暴力や復讐ではなく対話によって和解しようと試みてきました。また演説では非暴力を訴え、自らも実践してきたのです。

4-2 現在のミャンマー

Remise du Prix Sakharov à Aung San Suu Kyi Strasbourg 22 octobre 2013-04 (cropped).jpg
By Claude TRUONG-NGOC - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

アウン・サン・スーチーの率いるNLDは補欠選挙で圧勝したとはいえ、全議席で見ると少数派(全体議員のわずか6%)。しかし彼女は少数派政党に呼びかけ、団結することに。またテインセン大統領と直接対談することで、NLDの影響力を高めます。ダムの建設中止や政治犯の解放は、ミャンマーが民主化していることの表れとNLDの影響力があったからこそ実現しました。

2016年の選挙においてNLDは圧勝し、アウン・サン・スーチーも当選。そして彼女は事実上の首相となることに。事実上というのは、ミャンマーの憲法でイギリス国籍の夫を持つアウン・サン・スーチーは大統領になれないため。彼女の正式な肩書は国家顧問です。

4-3 ロヒンギャ問題

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By Foreign and Commonwealth Office - Flickr, OGL v1.0, Link

民主主義を目的に政治活動をしていたアウン・サン・スーチーを大きな問題が直面していいます。ロヒンギャ問題です。ロヒンギャとは、ミャンマーの少数民族のこと。ムスリムなので、上座部仏教徒が9割を占めるミャンマーでは少数派の宗教を信仰しています。政府はロヒンギャを不法移民(ルーツがバングラデシュ)とみなし、国籍を与えていません。国籍以外に基本的な権利がなく、弾圧を逃れるため難民として国外へ逃げる人が後を絶ちません。アウンサンスーチーはこの問題に対して消極的な姿勢です。これに対して国際社会は彼女を非難。ノーベル平和賞をはく奪する署名活動も行われることに。

4-4 民主主義化できるのか?

しかしアウン・サン・スーチーは憲法で警察や軍、そして国境問題に関する権限がない(軍が支配している)ため、動けないのが現状。まだまだミャンマーの民主化は時間がかかるようですね。これからもミャンマー情勢に注視していくべきでしょう。

「アウン・サン・スーチー」の粘り強い民主化への道のり

アウン・サン・スーチーという名を知っている人は多いとは思います。しかし、なぜ彼女が軟禁されていたのか、なぜミャンマーは民主化運動が行われてきたのかを知っている人は少ないのではないでしょうか。そしてミャンマーは遠い国ではなく、実は第二次世界大戦時に日本と関係があったのです。

アウン・サン・スーチーの民主化運動での行動力は目を見張るものがあります。ここまで強い女性はなかなかいないでしょう。彼女なくしてミャンマーが軍事政権から民主化へ向かうことはなかったのではないでしょうか。彼女は現在国家顧問として活躍していますが、未だミャンマーの民主化への道のりは厳しいものとなるでしょう。

ミャンマーは多民族国家で、多くの問題を抱えています。中でも深刻な問題がロヒンギャ問題。今なお助けを求めている人々が大勢いるのです。この記事をきっかけにミャンマーの現状を知り、国際理解を深める一歩としてもらえたらうれしく思います。

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ミャンマーにおける「アウン・サン・スー・チー」の民主化運動の流れを歴女が徹底わかりやすく解説!

今回はアウン・サン・スーチーについてです。彼女はビルマ独立の父と呼ばれたアウンサン将軍の娘で、ミャンマーの政治家です。彼女が国政に登場する前のミャンマーは軍事政権だったんです。

それじゃあ解説をアウン・サン・スーチーに詳しいまぁこと一緒にしていくからな。

ライター/まぁこ

ミャンマーの民主主義のシンボルである「アウン・サン・スー・チー」に対して関心を持っていた歴女まぁこ。「アウン・サン・スーチー」の幼少期を始め、ミャンマーでの民主主義運動の流れを解説していきます。

1 ミャンマーとは?

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ミャンマーという国をご存知でしょうか。かつてはビルマと呼ばれた国です。アジアに位置し、隣国はインド、バングラデシュなど。軍事政権が長らくミャンマーを統治していました。2012年に行われた補欠選挙にてアウン・サン・スーチーが率いる政党が圧勝しました。これはまさに歴史的瞬間でした。何が歴史的瞬間なのか?今回はミャンマーの変化やかつてビルマと呼ばれたミャンマーの歴史、アウン・サン・スーチーやミャンマーの民主化運動について解説していきます。

1-1 軍事政権下のミャンマー

ミャンマーでは軍事政権が2011年まで続いていました。その後テインセン大統領の下、民主化が進められていきます。しかしテインセン新政権へ移ったといえど、大統領や閣僚らの8割が退役軍人。これではまだ民主化とはいえない状況でした。

1-2  軍事政権の描く民主主義

軍事政権は「民政移管」を掲げて、2003年に7つの段階を経て民主主義となるようにすることを発表。徐々に民主化を目指したのですね。そして2008年に憲法が作られました。しかし作られた憲法は軍事政権に都合がいいもの。例を挙げると、内務大臣や国防大臣、国境担当大臣といった重要なポストには国軍最高司令官が任命権を持つことや25%の議席は国軍が議員を指名することができるなど。しかもこの憲法を改正するためには、大きなハードルがあります。アウン・サン・スーチーの目的は、ミャンマーを真に民主化させること。

1-3 補欠選挙にてスーチー率いる党が圧勝

2012年4月に行われたミャンマーの補欠選挙で歴史的な瞬間を迎えました。アウン・サン・スーチーの率いる国民民主連盟(略称NLD)が圧勝。44議席に対して44人の候補者を立て、43人が当選。圧倒的な勝利でした。

2 ミャンマーの歴史とアウン・サン・スーチーの生い立ち

この章では、かつてビルマと呼ばれたミャンマーの歴史について解説します。ミャンマーを語る上で重要なのは、アウン・サン・スーチーの父、アウンサン将軍。現在のミャンマー事情を知るには過去の歴史を振り返る必要があります。そして娘のアウン・サン・スーチーの生い立ちから、彼女がどんな人物だったのか解説。

2-1 イギリス領だったビルマ

そもそもミャンマーはイギリス領でした。しかしビルマ独立を目指したアウンサンは当時の反英民族団体のタキン党に入党し、書記長として活躍。しかし当局から逮捕状が出たため、中国へ渡ります。その時、鈴木敬司大佐の策によって日本へ行くことに。日本では鈴木大佐の指導する対ビルマ謀略機関に参加します。その後軍事訓練を受けると、1941年に日本軍とは別のルートでビルマに向かい、植民地政府とイギリス軍を追い払うことに成功しました。しかし日本軍がビルマを占領したため、反旗を翻すことにしたアウンサン。

アウンサンはビルマ奪還を目指すイギリスと共闘の末、日本に勝利。その後イギリスと粘り強い交渉の末、独立達成を果たすことに。しかし独立を目前となった1947年に政敵ウー・ソオの部下によって暗殺されました。

2-2 名前の由来と幼少期

一般的にミャンマーの方の名前は日本のような苗字がありません。ちなみにアウンサンスーチーは、アウンサンは父の名を、スーは父方の祖母の名を、チーは母キンチーの名の一部を取ったもの。

アウン・サン・スーチーは首都ラングーンに生まれました。幼少時代は上座仏教徒の母キンチーの厳しい躾けを受けました。また彼女は大の読書家。車が信号で止まるたびに本を開くほど。アウン・サン・スーチーが2歳の時にアウンサン将軍は暗殺されたため、父の記憶がない彼女。後に彼女は父のことをさまざまな文献や伝記などを読んでどんな父だったのか触れようと試みました。

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