日本史

最後の征夷大将軍「徳川慶喜」を元塾講師が解説!5分でわかる「徳川慶喜」の一生と時代の流れ

よぉ、桜木建二だ。今日は徳川慶喜(とくがわよしのぶ)について勉強するぞ。徳川慶喜は江戸幕府の征夷大将軍だが、徳川将軍は15人もいることから、名前を覚えるだけでは分かりづらいだろう。

そこで、徳川慶喜はどの時代で何をした人物なのか……彼の生きた時代と行った政策をしっかりと把握しなければならないぞ。今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から徳川慶喜をわかりやすくまとめた。

徳川慶喜の誕生と幼少期、そして日本の混乱

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徳川斉昭の七男として誕生した徳川慶喜

徳川慶喜は1837年9月29日、常陸水戸藩の第9代藩主である徳川斉昭(とくがわなりあき)の七男とした誕生しました。母は王室の吉子女王(よしこじょおう)で、徳川慶喜の幼名は松平七郎麻呂(まつだいらしちろうまろ)です。

当時水戸では尊王攘夷運動が活発化しており、その思想の筆頭となっていた人物が藤田東湖(ふじたとうこ)でした。徳川慶喜の父である徳川斉昭はこの藤田東湖の影響を強く受けており、そのため江戸ではなく水戸にて徳川慶喜の教育を行うことにします。

水戸の藩校・弘道館にて会沢正志斎(あいざわせいしさい)らに学問と武術を教授された徳川慶喜は優秀で注目される存在になりました。そして1847年、阿部正弘(あべまさひろ)の口添えで徳川慶喜は11歳で一橋家を相続することになったのです。

一橋家に相続後の日本の混乱

1853年、浦賀にペリーの黒船がやってきました。当然日本全体が混乱することになりますが、このタイミングで12代将軍の徳川家慶(とくがわいえよし)が亡くなってしまいます。そこで後を継いだのが13代将軍の徳川家定(とくがわいえさだ)でした。

ただ徳川家定は大変病弱であったため、男子の跡継ぎを儲ける期待ができない状態だったのです。そこで跡継ぎの期待ができない徳川家定に代わり、誰を次の将軍にすべきなのかという将軍継嗣問題がここで勃発します。

この時に候補として挙がったのが二名、徳川喜福と一橋慶喜……つまり、徳川慶喜だったのです。最終的には徳川喜福が14代将軍になり、徳川喜福はこれを機に徳川家茂(とくがわいえもち)に改名しました。

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12代将軍の死去、ペリーの来航、病弱な13代将軍、将軍継嗣問題、徳川慶喜が一橋家を相続してからの日本は大混乱だ。また、ペリーの来航によって1854年にワシントン条約が締結、下田と箱館の開港で鎖国体制が終わりを迎えることになるぞ。

井伊直弼の徳川慶喜への影響

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井伊直弼による政治争い

将軍継嗣問題によって14代将軍になったのは徳川家茂ですから、徳川慶喜は敗北する形になりました。これは、徳川慶喜を支持していた一橋派の中心人物である阿部正弘と島津斉彬(しまづなりあきら)が相次いで死亡したことで、一橋派が勢力を失ってしまったのが原因です。

ちなみに、徳川家茂を支持していたのは南紀派である井伊直弼(いいなおすけ)と本寿院(ほんじゅいん)でした。この時、勢力を失った一橋派は大老となった井伊直弼によって強引に押し切られて敗北してしまったのです。

また、この政治争いが後の政治的弾圧事件である安政の大獄に関わっていきます。井伊直弼は大老でしたが、これは当時幕府の臨時最高職でした。そして井伊直弼は外国人ハリスの求める日米修好通商条約を朝廷に無断で締結してしまったのです

安政の大獄と徳川慶喜の謹慎処分

安政の大獄とは、1858年から1859年にかけて江戸幕府が行った弾圧です。徳川家茂を14代将軍に、さらに朝廷に無断で日米修好通商条約を締結させた井伊直弼でしたが、当然その行為に反対する声がありました。

そして、そんな反対する者達を弾圧した事件が安政の大獄です。この時、徳川慶喜は井伊直弼を問い詰めた罪で謹慎処分とされますが、1860年3月3日の桜田門外の変で井伊直弼が殺害されたことがきっかけとなり、謹慎が解除されました。

また、安政の大獄での江戸幕府による弾圧は信頼を大きく低下させる原因となり、そのため多くの反幕派による攘夷運動を活発化させたのです。こうして、江戸幕府は徐々に滅亡への道を進んでいくことになります。

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この時、徳川慶喜はまだ将軍になっておらず、征夷大将軍としての徳川慶喜を学ぶのであれば無関係な出来事ばかりだろう。しかし徳川慶喜の一生を学ぶのであれば、徳川慶喜と深く関係している井伊直弼のことはしっかり覚えておくんだぞ!

勢いを取り戻した徳川慶喜

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将軍後見職で勢いを取り戻す徳川慶喜

井伊直弼の死亡で謹慎が解けた徳川慶喜は、再び政治活動を行うことになります。1862年に島津久光(しまづひさみつ)と勅使・大原重徳(おおはらしげとみ)が薩摩藩兵を伴い江戸に入り、天皇の代理としての資格である勅使を楯にして幕府の首脳人事に介入しました。

そして徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)を政事総裁職に任命することに成功したのです。ちなみに徳川慶喜が任命された将軍後見職とは、江戸時代の幕末に新設された政治総裁職、京都守護職に並ぶ江戸幕府三要職の一つになります。

徳川慶喜は松平春嶽とともに同年……つまり1862年に文久の改革を行い、京都守護職の設置や参勤交代の緩和などを行いました。こうした徳川慶喜は再び勢いを取り戻すことになり、1863年には将軍の名代として上洛(京都に入ること)、孝明天皇にも会ったのです。

将軍後見職から禁裏御守衛総督へ

1864年3月25日、徳川慶喜は将軍後見職を辞任して禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に就任しました。これは江戸時代の幕末に幕府の了承の元、朝廷によって禁裏を警護するために設置された役職で、禁裏とは京都御所を意味します

また、1864年の禁門の変では徳川慶喜が自ら御所守備軍を指揮、そして、この禁門の変がきっかけで尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄することになったのです。禁門の変では会津・桑名藩対長州藩の構図になっており、西郷隆盛の薩摩藩も会津方に加勢しました。

長州藩が御所に向かって発砲したことから、幕府軍は第一次長州討伐に出陣して勝利します。徳川慶喜はその後朝廷を相手にした交渉を請け負っていましたが、1866年に14代将軍の徳川家茂が死亡、とうとう徳川慶喜は徳川宗家を相続して15代将軍になるのです。

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井伊直弼の死によって謹慎処分の解けた徳川慶喜は、ここから政治活動によって勢いを取り戻していった。将軍後見職、禁裏御守衛総督を経てとうとう15代将軍になる徳川慶喜、しかしその先に待っていたのはいばらの道だったのだ!

わずが一年で終わりとなった15代将軍の徳川慶喜

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徳川慶喜の誤算、薩長同盟と明治天皇の即位

15代将軍に就任した徳川慶喜でしたが、ここからはいばらの道でした。第二次長州討伐では薩摩の協力を得ることができず、しかも薩摩と長州が手を組む形になってしまいます。これが薩長同盟で、この同盟自体は西郷隆盛と木戸孝允(きどたかよし)の口約束です。

誤解されやすいのですが、薩長同盟は倒幕を目的とはしておらず、「幕府軍が長州を攻めても薩摩は加勢しない」などの微妙で曖昧なものになっています。さらに同じ頃、朝廷でも動きがあり、孝明天皇の崩御によって若い明治天皇が即位したのです。

さて、徳川慶喜はフランス公使のレオン・ロッシュの助言から1866年に慶応の改革を行って江戸幕府にヨーロッパの行政組織の要素を取り入れようとします。ただこの改革は後に起こる戊辰戦争などが原因で終焉となりました。

大政奉還と徳川慶喜の企み

薩長同盟や明治天皇即位による盛り上がり……この状況で江戸幕府が反撃するのは難しく、そのため徳川慶喜は1867年に大政奉還を行います。場所は京都の二条城だったとされており、大政奉還によって政権を朝廷に返上、翌日明治天皇の許可が降りました。

これで実質江戸幕府は終わりを迎えますが、実は徳川慶喜にはある企みがあったのです。大政奉還の後も徳川慶喜は征夷大将軍であり続け、政治政策に参加しようというのが徳川慶喜の企みでした。

これは朝廷がこの250年間ほどは政治を行っておらず、さらに若い明治天皇では実質政治は不可能だと考えたからです。このため、徳川慶喜は大政奉還しても実権は自分が握れるのではないと企んでいましたが、ただ結果的にその企みが成功することはありませんでした。

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15代征夷大将軍としての徳川慶喜はたった一年ほどしかない。そのため、この期間に限定して徳川慶喜を学ぶのであれば何も難しくないだろう。なぜなら、征夷大将軍の徳川慶喜が行ったことと言えば、慶応の改革と大政奉還くらいのものだからだ。

幕府時代の終わりと徳川慶喜のその後の生活

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新政府軍と旧幕府軍が衝突する戊辰戦争

征夷大将軍として残った徳川慶喜の企みは、失敗どころか大きな戦争のきっかけとなります。新政府は徳川慶喜を疎ましく思っており、一方旧幕府は新政府の政治政策に不満を募らせていました。このお互いの対立が、1868年の戊辰戦争を引き起こすことになったのです。

分かりやすく言えば戊辰戦争とは日本の内戦であり、旧幕府を倒して新政府の樹立を目指した薩摩・長州が中心に行った武力行使によるクーデターでしょう。鳥羽・伏見の戦いでは徳川慶喜は逃亡に等しい行動をとり、敵の約3倍の勢力がありながら敗北したのです。

ちなみに、徳川慶喜のイメージに「卑怯」を挙げる人がいますが、それはこの鳥羽・伏見での徳川慶喜の逃亡が理由となっています。さて、戊辰戦争は東北戦争や箱館戦争など日本全土に戦いをもたらしており、江戸幕府の幕末において有名な新選組もこの戦争に参加しました。

そして、戊辰戦争の最後の舞台になったのが箱館戦争で、旧幕府軍の榎本武揚(えのもとたけあき)らの降伏によって終戦となりました。この戊辰戦争によって江戸幕府は終焉を迎え、明治政府が新時代を築いていくのです。

戊辰戦争後の徳川慶喜の余生生活

1869年に戊辰戦争が終わり、徳川慶喜は謹慎が解除されました。生存中に征夷大将軍の職を退くと、徳川慶喜は静岡に居住します。既に政治への野心は持っておらず、趣味に没頭する毎日を送って過ごしたのでした。

ちなみに徳川慶喜の趣味は多彩で、写真、狩猟、投網、囲碁、謡曲などが含まれていたようです。静岡ではケイキ様の愛称で親しまれましたが、一方で旧幕臣の訪問にはほとんど応じませんでした。やがて徳川慶喜は東京の巣鴨に移り住むことになります。

さらに小石川区の小日向第六天町の屋敷に転居、すると35年振りに政治に携わることになり、貴族院議員に就任しました。貴族院議員を辞任した後は再びの隠居生活、77歳に病気によってこの世を去ったのです。77歳という年齢は歴代将軍の中で最長命でした。

つまり、徳川慶喜は将軍としての寿命は歴代将軍の中で最も短かった一方で、命の寿命は最も長かったというわけです。また、徳川慶喜は日本史上で最後の征夷大将軍となりました。

 

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大政奉還した後に新政府と旧幕府が衝突するのは矛盾しているが、そこには徳川慶喜の大政奉還後の行動が関係していたわけだ。戊辰戦争には多くの戦いや歴史上の人物が関係してくるため、この機に戦争の概要を覚えておくと他の日本史を学ぶ時に有利だぞ!

征夷大将軍の政治政策で覚えることは多くない

徳川慶喜は政治家としての能力が高く、そのため彼の行った政治政策は確実に覚えておきましょう!最も、征夷大将軍としての政治政策は慶応の改革と大政奉還に限られてくるのでそれほど難しくないですよ。

それよりも征夷大将軍に就任するまでの方が覚えるべきことが多く、将軍後見職などの役職や日本に起こった出来事、関係した人物を年表を辿りながら丁寧に覚えていきましょう。

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