そこで、徳川慶喜はどの時代で何をした人物なのか……彼の生きた時代と行った政策をしっかりと把握しなければならないぞ。今回、日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から徳川慶喜をわかりやすくまとめた。
徳川斉昭の七男として誕生した徳川慶喜
徳川慶喜は1837年9月29日、常陸水戸藩の第9代藩主である徳川斉昭(とくがわなりあき)の七男とした誕生しました。母は王室の吉子女王(よしこじょおう)で、徳川慶喜の幼名は松平七郎麻呂(まつだいらしちろうまろ)です。
当時水戸では尊王攘夷運動が活発化しており、その思想の筆頭となっていた人物が藤田東湖(ふじたとうこ)でした。徳川慶喜の父である徳川斉昭はこの藤田東湖の影響を強く受けており、そのため江戸ではなく水戸にて徳川慶喜の教育を行うことにします。
水戸の藩校・弘道館にて会沢正志斎(あいざわせいしさい)らに学問と武術を教授された徳川慶喜は優秀で注目される存在になりました。そして1847年、阿部正弘(あべまさひろ)の口添えで徳川慶喜は11歳で一橋家を相続することになったのです。
一橋家に相続後の日本の混乱
1853年、浦賀にペリーの黒船がやってきました。当然日本全体が混乱することになりますが、このタイミングで12代将軍の徳川家慶(とくがわいえよし)が亡くなってしまいます。そこで後を継いだのが13代将軍の徳川家定(とくがわいえさだ)でした。
ただ徳川家定は大変病弱であったため、男子の跡継ぎを儲ける期待ができない状態だったのです。そこで跡継ぎの期待ができない徳川家定に代わり、誰を次の将軍にすべきなのかという将軍継嗣問題がここで勃発します。
この時に候補として挙がったのが二名、徳川喜福と一橋慶喜……つまり、徳川慶喜だったのです。最終的には徳川喜福が14代将軍になり、徳川喜福はこれを機に徳川家茂(とくがわいえもち)に改名しました。
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