商人の下に位置する「えた・ひにん」
「えた」とは「穢多」と書き、穢れ(けがれ)が多い仕事であることを示します。例えば「死んだ動物の皮を加工する」、「罪人を処刑する」などの仕事が与えられていました。住む場所も決められており、逆にその場所以外の場所に住むことは禁じられていました。
また「ひにん」は「非人」と書き、これも文字から連想できるとおり人がやりたがらない仕事をさせられる身分の者です。遊郭で働くなどの仕事くらいしかなく、住む場所の自由すら与えられず、それどころか仕事を選ぶ権利すら与えられませんでした。
貧困が理由でひにんになるケース、犯罪を犯したことでひにんになるケース、親のひにんを受け継いだケース、このようにひにんになるケースは様々です。「えた・ひにん」はこうして差別的な扱いを受ける身分で、江戸時代が終わって明治時代となる1871年に解放令が出されたことでようやく新平民として他の者と同じ立場になることができました。
解放令による士農工商の終わり
明治時代の1871年、解放令が出されたことで士農工商による身分制度の差はなくなり、4つの身分は平等になりました。これまで「えた・ひにん」の身分だった者はこれを喜びましたが、一方で特権を得ていた武士からすれば平等になることは面白くありません。
このため明治時代になると日本の各地で士族による暴動が起こることもあり、その頃は未だ「えた・ひにん」が差別されることもあったようです。とは言え、解放令は政府が定めた政治政策でしたから、そのような暴動も次第に起こらなくなっていき、「えた・ひにん」も江戸時代の差別から解放されました。
また、明治時代ではこうした身分制度が廃止されただけでなく政治のスタイルそのものが大きくかわったため、幕府や征夷大将軍もなくなり、天皇が政治を行うようになったのです。武士が中心となって政治を行っていた江戸時代だからこそ、士農工商の身分制度が確立できたのでしょう。
兵農分離と士農工商をしっかり区別しよう
士農工商で紛らわしいのは兵農分離です。兵農分離は豊臣秀吉が行った政策で、曖昧だった武士と農民をハッキリと区別するために行いました。兵農分離は言わば士農工商の基盤でしょう。
一方、士農工商は江戸時代の身分制度で、武士・農民・職人・商人とさらにその下である穢多・非人で分けられました。士農工商の意味だけで考えてしまうと兵農分離と間違える可能性があるので注意してください。