日本で広まるキリスト教
江戸幕府が誕生した1603年より以前、1549年にフランシスコ・ザビエルが日本を訪れて以降、宣教師による布教活動が行われて日本にキリスト教が広まっていきました。その広がりは相当なもので、大名でキリスト教を信仰するキリシタン大名と呼ばれる者までいたほどです。
日本はそんなキリスト教を禁止する禁教令を1587年に出しますが、豊吉秀吉の時代の禁教令はさほど厳しくなく、キリスト教の禁止というよりは宣教師の国外追放を目的としていました。このため1587年の禁教令をバテレン追放令と呼び、バテレンとは宣教師を示しています。
最も、宣教師も条件つきを了承すれば従来どおりの活動ができたため、バテレン追放令が出された後も日本の中でキリスト教はさらに広まっていきました。実に毎年10000人ずつキリスト教徒が増えていったとされており、こうした状況は関ケ原の戦い前後まで続いたのです。
身分を制度化する幕府と平等を教えとするキリスト教
江戸時代になると、これまでは緩かったキリスト教の取り締まりが一変して厳しくなります。これは、江戸幕府が士農工商の身分制度を定めたのが大きな理由であり、なぜならキリスト教の教えは江戸幕府の身分制度を否定するものだったからです。
先の項目で解説してきたとおり、士農工商は人々を武士・農民・職人・商人、さらには「えた・ひにん」で身分を分けています。一方、キリスト教の教えは「全ての人が平等」というもので、つまり身分制度を否定する内容になっていたのです。
このため、キリスト教が深く信仰されれば人々は幕府の制度を否定して反発するかもしれません。すなわちそれは反乱の発生を意味しており、つまり江戸幕府は反乱を怖れてキリスト教を禁止したのです。これが士農工商とキリスト教の関係で、士農工商の身分制度においてキリスト教は邪魔な存在でした。
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