今日は士農工商について勉強していきます。現代では人に身分の差はないものの、昔は士農工商の身分制度があって差別されていたことはみんな知っているでしょう。

しかし、それだけの知識では意味がない。士農工商は具体的にいつの時代の制度なのか、また身分制度による影響はあったのかを知ってこと本当の知識になるのです。そこで今回、士農工商について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から士農工商をわかりやすくまとめた。

士農工商 言葉の歴史と基盤

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士農工商の言葉の歴史

士農工商の身分制度が定められたのは江戸時代ですが、この言葉には由来があり、元々は古代の中国で使われていた言葉でした。漢書には「士農工商、四民に業あり」と記されており、これは「民の職業は4種類に分けられる」ということを示しています。

「民の職業は4つに分けられる」……すなわちそれはあらゆる職業の民と言い換えることもでき、要するに「みんな」や「民の全て」と同じ意味で使われていたようです。つまり、元々士農工商とは身分を差別する言葉ではなく、上下関係や支配を示す言葉となったのは近世に入ってからになります。

江戸時代における士農工商は「士=武士」「農=農民」「工=職人」「商=商人」であり、身分が最も高い扱いとなる武士には様々な特権や自由が定められていました。また、商人の下には「えた・ひにん」と呼ばれる階級があり、これに該当する人達は何の権利もなく差別的な扱いを受けるほどだったのです。

士農工商の基盤となった兵農分離

士農工商の制度を定めたのは江戸幕府……つまり徳川ですが、その基盤は豊臣秀吉の時代に作られています。その当時は武士と農民の区別が曖昧になっており、そのため戦国大名は「武士を城下町に集めて住まわせる」、「検地で農民の身分の確定する」などの方法で区別していました。

しかし、これでは見た目だけで身分を判断することは不可能でしょう。そこで豊臣秀吉が行った政策が刀狩りです。農民の武器を没収して、武士と農民との身分・地域を明確に分離できるようにしました。こうした武士と農民との身分的・地域的分離政策を兵農分離と呼びます。

また、同様にして商人と農民を分離する商農分離も行われ、兵農分離とともに江戸幕府の幕藩体制の階級関係の基本が成立しました。この成立を基盤として民を4つの身分に分けて確立させたのが江戸幕府であり、そしてその4つの身分というのが士農工商です。

士農工商 武士と農民

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武士の説明

士農工商の並びから分かるとおり、職業で最も偉いとされるのが武士でした。そもそも幕府の将軍は武士のトップに立つ存在ですから、日本の政治を行っているという点で武士が最も高い階級として扱われるのはむしろ自然でしょう。そして、武士ならではの特権が名字帯刀と呼ばれるものです。

帯刀は「刀を帯びる」の文字から刀を持てる特権であることを連想できますが、名字とはどういう意味なのでしょうか。現代では当然のことになっていますが、実は江戸時代において名字は公家や幕府が認めた一部の者しか名乗れなかったのです。ですから、名字を名乗れること自体が武士の大きな特権でした。

最も、武士にも名の知れた者とそうでない者がいましたから、士農工商の中で最も偉いといっても名の知れていない下級武士の暮らしは決して裕福ではありません。農民達と全く違う豪華な生活を送れた武士は、藩主家老など一部の者に限られていたようです。

農民の説明

武士の次に階級が高い職業は農民です。農民とだけ聞くと江戸時代において一見偉いように思えないですが、米は人々が生活する上で欠かせない食糧であり、それを生産しているという点で地位が高かったのでしょう。武士も農民を殺してしまえば米が手に入らず飢え死にしてしまいますからね。

また、江戸時代の中期になると農民はなどの作物も育てるようになり、年貢を納めつつそれを売ってお金を稼いでいました。武士の下となる農民ですが、年貢の税率の設定によっては一揆による反乱を起こすことがあったため、その上に立つ武士も農民は決して油断できない存在だったのです。

ちなみに、江戸時代の中期に育てていた作物は麻以外にも紅花と藍があり、麻、紅花、藍のことを三草と呼んでいました。年貢を納める点から苦しい生活を強いられているイメージがありますが、それは藩主次第であり、年貢の税率の設定によって暮らしは良くも悪くもなる職業だったようです。

士農工商 職人と商人

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職人の説明

職人も、物を作るという点で米を作る農民と同じ部分がありますが、生きることにかかわる食糧である米を作る農民に比べると、お金儲けのために物を作る職人の地位は農民ほど高くなかったのでしょう。しかし、武士の刀を作るのも居住する家を作るのも職人ですから、江戸時代の暮らしを支えていたことは間違いありません。

名の知れた職人の作った物の中には地域の伝統工芸品として認められたこともありますし、出来の良い物は幕府や藩が奨励し、他国へ販売することもありました。職人が作った物が地元から他国へ流通することで、その地域の経済も潤うようになったのです。

現代でも江戸時代の伝統工芸は高く評価されており、例えば有田焼輪島塗などはまさにそれに該当する代表的な例ですね。江戸時代では士農工商の三つ目に数えられる職人ですが、現代からすれば江戸時代の職人は士農工商の中で最も評価されるべき職業かもしれません。

商人の説明

商人は士農工商の最後に数えられる職業ですが、正確には制度の上で農工商に身分の差はなかったとされています。古代中国の士農工商の言葉がそう並んでいることから士農工商と名付けただけで、武士以外の農工商において身分の上下はなかったのです

しかしあくまでそれは制度上の話であり、武士から見れば農工商はその並びどおりに思っていました。これは、商人は農民や職人と違って何も生産していないことが理由だったようで、商人は物を作らずただ動かしているだけという差別的考えがあったのでしょう。

最も、商人には物を作る力はなくても経済を動かす力がありましたから、日本の経済を支える上で貢献したことは間違いありません。また、江戸時代の豪商の中にはその力が代々継がれて現代まで続いている例もあり、例えば有名百貨店の中には江戸時代の呉服店が起源となっているところもあります

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士農工商とキリスト教の意外な関係

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日本で広まるキリスト教

江戸幕府が誕生した1603年より以前、1549年にフランシスコ・ザビエルが日本を訪れて以降、宣教師による布教活動が行われて日本にキリスト教が広まっていきました。その広がりは相当なもので、大名でキリスト教を信仰するキリシタン大名と呼ばれる者までいたほどです。

日本はそんなキリスト教を禁止する禁教令を1587年に出しますが、豊吉秀吉の時代の禁教令はさほど厳しくなく、キリスト教の禁止というよりは宣教師の国外追放を目的としていました。このため1587年の禁教令をバテレン追放令と呼び、バテレンとは宣教師を示しています。

最も、宣教師も条件つきを了承すれば従来どおりの活動ができたため、バテレン追放令が出された後も日本の中でキリスト教はさらに広まっていきました。実に毎年10000人ずつキリスト教徒が増えていったとされており、こうした状況は関ケ原の戦い前後まで続いたのです。

身分を制度化する幕府と平等を教えとするキリスト教

江戸時代になると、これまでは緩かったキリスト教の取り締まりが一変して厳しくなります。これは、江戸幕府が士農工商の身分制度を定めたのが大きな理由であり、なぜならキリスト教の教えは江戸幕府の身分制度を否定するものだったからです。

先の項目で解説してきたとおり、士農工商は人々を武士・農民・職人・商人、さらには「えた・ひにん」で身分を分けています。一方、キリスト教の教えは「全ての人が平等」というもので、つまり身分制度を否定する内容になっていたのです。

このため、キリスト教が深く信仰されれば人々は幕府の制度を否定して反発するかもしれません。すなわちそれは反乱の発生を意味しており、つまり江戸幕府は反乱を怖れてキリスト教を禁止したのです。これが士農工商とキリスト教の関係で、士農工商の身分制度においてキリスト教は邪魔な存在でした。

士農工商 「えた・ひにん」と身分制度の終わり

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商人の下に位置する「えた・ひにん」

「えた」とは「穢多」と書き、穢れ(けがれ)が多い仕事であることを示します。例えば「死んだ動物の皮を加工する」、「罪人を処刑する」などの仕事が与えられていました。住む場所も決められており、逆にその場所以外の場所に住むことは禁じられていました。

また「ひにん」は「非人」と書き、これも文字から連想できるとおり人がやりたがらない仕事をさせられる身分の者です。遊郭で働くなどの仕事くらいしかなく、住む場所の自由すら与えられず、それどころか仕事を選ぶ権利すら与えられませんでした。

貧困が理由でひにんになるケース、犯罪を犯したことでひにんになるケース、親のひにんを受け継いだケース、このようにひにんになるケースは様々です。「えた・ひにん」はこうして差別的な扱いを受ける身分で、江戸時代が終わって明治時代となる1871年に解放令が出されたことでようやく新平民として他の者と同じ立場になることができました。

解放令による士農工商の終わり

明治時代の1871年、解放令が出されたことで士農工商による身分制度の差はなくなり、4つの身分は平等になりました。これまで「えた・ひにん」の身分だった者はこれを喜びましたが、一方で特権を得ていた武士からすれば平等になることは面白くありません。

このため明治時代になると日本の各地で士族による暴動が起こることもあり、その頃は未だ「えた・ひにん」が差別されることもあったようです。とは言え、解放令は政府が定めた政治政策でしたから、そのような暴動も次第に起こらなくなっていき、「えた・ひにん」も江戸時代の差別から解放されました

また、明治時代ではこうした身分制度が廃止されただけでなく政治のスタイルそのものが大きくかわったため、幕府や征夷大将軍もなくなり、天皇が政治を行うようになったのです。武士が中心となって政治を行っていた江戸時代だからこそ、士農工商の身分制度が確立できたのでしょう。

兵農分離と士農工商をしっかり区別しよう

士農工商で紛らわしいのは兵農分離です。兵農分離は豊臣秀吉が行った政策で、曖昧だった武士と農民をハッキリと区別するために行いました。兵農分離は言わば士農工商の基盤でしょう。

一方、士農工商は江戸時代の身分制度で、武士・農民・職人・商人とさらにその下である穢多・非人で分けられました。士農工商の意味だけで考えてしまうと兵農分離と間違える可能性があるので注意してください。

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日本史歴史江戸時代

江戸時代の身分制度!「士農工商」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

武士の説明

士農工商の並びから分かるとおり、職業で最も偉いとされるのが武士でした。そもそも幕府の将軍は武士のトップに立つ存在ですから、日本の政治を行っているという点で武士が最も高い階級として扱われるのはむしろ自然でしょう。そして、武士ならではの特権が名字帯刀と呼ばれるものです。

帯刀は「刀を帯びる」の文字から刀を持てる特権であることを連想できますが、名字とはどういう意味なのでしょうか。現代では当然のことになっていますが、実は江戸時代において名字は公家や幕府が認めた一部の者しか名乗れなかったのです。ですから、名字を名乗れること自体が武士の大きな特権でした。

最も、武士にも名の知れた者とそうでない者がいましたから、士農工商の中で最も偉いといっても名の知れていない下級武士の暮らしは決して裕福ではありません。農民達と全く違う豪華な生活を送れた武士は、藩主家老など一部の者に限られていたようです。

農民の説明

武士の次に階級が高い職業は農民です。農民とだけ聞くと江戸時代において一見偉いように思えないですが、米は人々が生活する上で欠かせない食糧であり、それを生産しているという点で地位が高かったのでしょう。武士も農民を殺してしまえば米が手に入らず飢え死にしてしまいますからね。

また、江戸時代の中期になると農民はなどの作物も育てるようになり、年貢を納めつつそれを売ってお金を稼いでいました。武士の下となる農民ですが、年貢の税率の設定によっては一揆による反乱を起こすことがあったため、その上に立つ武士も農民は決して油断できない存在だったのです。

ちなみに、江戸時代の中期に育てていた作物は麻以外にも紅花と藍があり、麻、紅花、藍のことを三草と呼んでいました。年貢を納める点から苦しい生活を強いられているイメージがありますが、それは藩主次第であり、年貢の税率の設定によって暮らしは良くも悪くもなる職業だったようです。

士農工商 職人と商人

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職人の説明

職人も、物を作るという点で米を作る農民と同じ部分がありますが、生きることにかかわる食糧である米を作る農民に比べると、お金儲けのために物を作る職人の地位は農民ほど高くなかったのでしょう。しかし、武士の刀を作るのも居住する家を作るのも職人ですから、江戸時代の暮らしを支えていたことは間違いありません。

名の知れた職人の作った物の中には地域の伝統工芸品として認められたこともありますし、出来の良い物は幕府や藩が奨励し、他国へ販売することもありました。職人が作った物が地元から他国へ流通することで、その地域の経済も潤うようになったのです。

現代でも江戸時代の伝統工芸は高く評価されており、例えば有田焼輪島塗などはまさにそれに該当する代表的な例ですね。江戸時代では士農工商の三つ目に数えられる職人ですが、現代からすれば江戸時代の職人は士農工商の中で最も評価されるべき職業かもしれません。

商人の説明

商人は士農工商の最後に数えられる職業ですが、正確には制度の上で農工商に身分の差はなかったとされています。古代中国の士農工商の言葉がそう並んでいることから士農工商と名付けただけで、武士以外の農工商において身分の上下はなかったのです

しかしあくまでそれは制度上の話であり、武士から見れば農工商はその並びどおりに思っていました。これは、商人は農民や職人と違って何も生産していないことが理由だったようで、商人は物を作らずただ動かしているだけという差別的考えがあったのでしょう。

最も、商人には物を作る力はなくても経済を動かす力がありましたから、日本の経済を支える上で貢献したことは間違いありません。また、江戸時代の豪商の中にはその力が代々継がれて現代まで続いている例もあり、例えば有名百貨店の中には江戸時代の呉服店が起源となっているところもあります

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