入植が開始されたとき、アフリカやカリブから黒人奴隷をアメリカ大陸に連れてきた。そのため南北戦争後に奴隷解放となってからも人種差別が長らく続いた。同時に、アフリカ系の知識人が社会的地位を向上させるために講演や運動を展開する。これらの運動のクライマックスとなるのが「キング牧師」を中心に行われたワシントン大行進です。

それじゃ、アフリカ系アメリカ人の地位向上の歴史と、「キング牧師」の活動に至るまでの経緯を、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。アメリカ公民権運動の歴史を見ていくとき「キング牧師」を避けて通ることはできない。「キング牧師」は、アフリカ系アメリカ人が「法的な平等」を手にすることに貢献した人物。そこで、「キング牧師」をキーワードに、アフリカ系アメリカ人の地位向上の歴史と、公民権運動が高まる経緯について解説していく。

アフリカ系アメリカ人の祖先は奴隷として連行されてきた

image by PIXTA / 54063346

広く知られている事実ですが、アメリカに住んでいる人々の一部の祖先は、アフリカから強制的に連れてこられました。アメリカ大陸にて開拓を進めていくなかで、たくさんのアフリカ系の人々が劣悪な環境のなかで肉体労働を強いられることになります。

連行中に多くの死者を出した奴隷船

最初は入植者と一緒にアメリカ大陸に渡ったことが、アフリカ系アメリカ人の最初とされています。アフリカの人々の売買を専門とする奴隷貿易商が登場したことで、アフリカの人々の扱いがさらにひどくなりました。

奴隷として働かせる人々を連行する際、大人数を船のなかに詰め込むことに。アメリカ大陸に到着するまえに、たくさんのアフリカの人々が病気や飢えなどで亡くなりました。船中で反乱が起こることも。その場合は到着後に厳しく罰せられたと言われています。

プランテーション経営のため南部にて重宝された

アメリカ大陸に連行されたアフリカの人々は、男、女、子どもを問わず「競り」にかけられました。奴隷として売られたアフリカの人々は、主に綿花やたばこ、サトウキビ等を栽培するプランテーションを開拓・維持するための肉体労働に従事しました。

とくにプランテーション経営が経済の中心となっていたアメリカ南部は、アフリカの奴隷なしでは農園を維持することが困難なほど依存度が高まりました。一方、工業化が進んだアメリカ北部は、奴隷の依存度が少なくなったこともあり解放を主張する流れが出てきます。

南北戦争の終結により奴隷解放が行われる

Battle of Hampton Roads 3g01752u.jpg
By Kurz & Allison., - This image is available from the United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID cph.3g01752. This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., Public Domain, Link

農業中心の南部と工業中心の北部は、政治をめぐる衝突が激しくなったとき、奴隷制度を維持するかどうかが争点のひとつとしました。最終的に北部軍が勝利したため、入植から続いてきた奴隷制度は廃止されます。

人種隔離政策は「キング牧師」の公民権運動の時期まで継続

北部軍は奴隷制度の廃止を訴えていたものの、必ずしも平等の精神があったわけではありません。そのため1865年に南北戦争が終わったあと南部における「人種隔離」を合法的に認めました。そこで、バス、レストラン、エントランス等、「白人専用」「黒人専用」が設けられることに。

この政策は「ジム・クロウ法」と呼ばれ、1876年から1964年にかけて南部にて存在。「ジム・クロウ法」は、キング牧師を中心とする公民権運動がクライマックスに達するきっかけを作ることになります。

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元奴隷の教育者ブッカー・T・ワシントンの活躍

南北戦争の終結により、奴隷制度そのものはなくなり、アフリカ系の人々は解放されます。とはいえ人種差別は根強く残り、大部分のアフリカ系の人々は十分な機会を与えられませんでした。しかしアフリカ系のなかには、白人の支援を得て知名度を獲得する人物が出てきます。

奴隷解放後に教育を受け、教育学者となった人物がブッカー・T・ワシントンです。彼自身が白人の支援を受けて成功した背景から、白人社会に溶け込むために「有益なスキル」を身に着けることの重要性を説きました。数多くの講演活動をすると共に、アフリカ系の人々のための職業訓練学校の校長も務めます。

アフリカ系住民の連携を呼びかけるパン・アフリカ主義が登場

A large bronze bas-relief sculpture embedded in a sidewalk
By dbking - originally posted to Flickr as W.E.B. DuBois / Mary White Ovington, CC BY 2.0, Link

ブッカー・T・ワシントンの考え方は、白人社会に融合することを説く穏健派。アメリカではなくアフリカに心を向ける知識人や活動家もあらわれました。そこで、世界各国の黒人の連携を呼びかけ、アフリカにルーツを求めるパン・アフリカ思想があらわれます。

黒人に内在するジレンマを理論化したハイチ系のW・ E・B・デュボイス

W・ E・B・デュボイスはハーバード大学で博士号を取得した黒人知識人。パン・アフリカ思想の急先鋒にいましたが、彼自身はハイチ系の血が流れていました。もっとも有名な著作が『黒人のたましい』。アフリカ系の人々の心にある「アフリカ」と「アメリカ」の二重性とそのジレンマを分析しました。

W・ E・B・デュボイスは全米黒人地位向上協会を設立し、ヨーロッパをはじめとする世界各国で講演活動を展開。アフリカ系の連携を説きました。アメリカ市民権を捨てたデュボイスは、ガーナに帰化してアフリカ百科事典の編纂にたずさわります。1963年にガーナの首都アクラにて95歳の生涯をおえました。

ジャマイカ出身のマーカス・ガーヴェイはアフリカ帰還運動を展開?

アフリカ帰還運動を展開したとされるのがジャマイカ生まれのマーカス・ガーヴェイ。イギリスにてブッカー・T・ワシントンの著作に出会い、職業訓練学校をジャマイカに作ることを思案。ブッカー・T・ワシントンを頼ってアメリカに渡ります。しかしにブッカー・T・ワシントン亡くなっていました。

講演者としてカリスマ的な人気を獲得したガーヴェイ。黒人の故郷としてリベリアに大学や交通機関を設立しようとしますが叶わず。貿易会社ブラック・スター・ライン社の経営者であったことから、黒人のアフリカ帰還を画策しているとみなされ、投獄のすえジャマイカに強制送還されました。

「キング牧師」は暴力ではなく言葉で公民権運動を進める

March on Washington for Jobs and Freedom, Martin Luther King, Jr. and Joachim Prinz 1963.jpg
By Center for Jewish History, NYC - March on Washington for Jobs and Freedom, Martin Luther King, Jr. and Joachim Prinz pictured, 1963 Uploaded by oaktree_b, Public Domain, Link

1960年代に入るころ、アフリカ系のみならず女性、同性愛者、障がい者など、社会的なマイノリティの地位向上を訴える機運が高まります。とりわけ若者層を中心に、旧来の価値観から自由になることを目指す運動が活発化。そのなかでキング牧師は暴力ではなく言葉の力をアピール、公民権運動のリーダーとなっていきます。

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「キング牧師」の非暴力主義はマハトマ・ガンディーに由来

キング牧師の本名はマーティン・ルーサー・キング・ジュニア。ブーカー・T・ワシントン高校からモアハウス大学に進学。いずれも黒人専用の教育機関でした(現在、モアハウス大学はすべての男性が入学できる)。聖職者の道に進むことを決めたキング牧師は神学校に入学。そこで出会ったのがインドの宗教家マハトマ・ガンディーの思想でした。

マハトマ・ガンディーは「非暴力」と「不服従」を理念にイギリスからインドが独立する流れを作り出した人物。不買運動などを通じて態度を示す、平和的な方法をとりました。この非暴力主義はキング牧師に受け継がれ、人種差別に反対する「モンゴメリー・バス・ボイコット」や「ワシントン大行進」につながっていきます。

言葉の力を信じた「I Have a Dream」演説

アメリカ南部における「ジム・クロウ法」は、公共施設などにおける人種隔離を法的に容認。白人に席を譲らなかった黒人女性が逮捕されたことに異議を申し立て「モンゴメリー・バス・ボイコット」が382日にわたり展開されます。それをきっかけに各地で差別の撤廃をもとめる運動が活発になり、キング牧師はそれらを支援しました。

リンカーンの奴隷解放宣言100年を記念して行われた1963年の「ワシントン大行進」はもっとも大規模な運動となりました。リンカーン記念堂の前で行われたのが「I Have a Dream」という有名な文言を含む演説です。

「I Have a Dream」演説の抜粋

I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal."

日本語訳:私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。

American Center Japan「米国の歴史と民主主義の基本文書」より引用
https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2368/

ワシントン大行進と「キング牧師」の演説はアメリカの歴史を変える

Lyndon Johnson signing Civil Rights Act, July 2, 1964.jpg
By Cecil Stoughton, White House Press Office (WHPO) - http://photolab.lbjlib.utexas.edu/detail.asp?id=18031, パブリック・ドメイン, Link

キング牧師の「I Have a Dream」演説はアメリカのみならず世界中で高く評価。アメリカ国内ではジム・クロウ法に代表される人種隔離を撤廃し、アフリカ系の人々の「法的」な平等を実現を主張する声が高まります。このような流れをうけて公民権法を議会に提出する準備が始まりました。

ジョン・F・ケネディ政権が公民権法案を議会に提出

公民権法案を最初に議会に提出したのがジョン・F・ケネディ政権。その後、ケネディが暗殺されたことを受けて、当時の副大統領であったリンドン・B・ジョンソンが大統領として制定にむけて動きました。議会で法案を通すためにキング牧師自身もジョンソンが大統領の活動に協力したと言われています。

1964年7月2日に合衆国連邦議会にて公民権法が制定。公共施設などにおける人種隔離は禁じられ、差別のシンボル的存在であったジム・クロウ法は無効となります。法案の制定は、おもに北部の民主党・共和党の超党派議員が中心。その過程では反対する南部議員の活動も根強くあり、修正案は500以上つくられました。

キング牧師はノーベル平和賞を受賞するも暗殺される

キング牧師の暴力を介さない運動は世界的に高く評価され、1964年度のノーベル平和賞の受賞者に選ばれます。キング牧師は、この受賞はすべてのアフリカ系アメリカ人のものであるとコメント。公民権運動に関わったアフリカ系の人々すべての功績をたたえました。

その4年後の1968年、キング牧師は遊説のために訪れたテネシー州の宿泊施設にて暗殺されます。当時、ベトナム反戦運動に関わっていたこともあり、以前からテロや殺害未遂にみまわれていました。キング牧師を殺した犯人は強盗をはたらいた脱獄囚。政治的な立場は不明です。

\次のページで「「キング牧師」の夢はまだ実現の途中」を解説!/

「キング牧師」の夢はまだ実現の途中

キング牧師はアフリカ系アメリカ人の法的な平等を実現した歴史的な重要人物。しかし公民権法案が制定されたと言っても、真の平等が実現したわけではありません。アメリカではたびたびアフリカ系アメリカ人に対する暴力や差別が行われ、ニュースの報道として接することが多いのというのが現実です。キング牧師の夢である真の平等はまだ実現の途中。現代アメリカのニュースにも注目していくと、公民権運動の歴史の続きを共有することができます。

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アメリカの歴史世界史歴史独立後

公民権運動の中心人物「キング牧師」とアフリカ系アメリカ人の地位向上の歴史を元大学教員がわかりやすく解説

入植が開始されたとき、アフリカやカリブから黒人奴隷をアメリカ大陸に連れてきた。そのため南北戦争後に奴隷解放となってからも人種差別が長らく続いた。同時に、アフリカ系の知識人が社会的地位を向上させるために講演や運動を展開する。これらの運動のクライマックスとなるのが「キング牧師」を中心に行われたワシントン大行進です。

それじゃ、アフリカ系アメリカ人の地位向上の歴史と、「キング牧師」の活動に至るまでの経緯を、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。アメリカ公民権運動の歴史を見ていくとき「キング牧師」を避けて通ることはできない。「キング牧師」は、アフリカ系アメリカ人が「法的な平等」を手にすることに貢献した人物。そこで、「キング牧師」をキーワードに、アフリカ系アメリカ人の地位向上の歴史と、公民権運動が高まる経緯について解説していく。

アフリカ系アメリカ人の祖先は奴隷として連行されてきた

image by PIXTA / 54063346

広く知られている事実ですが、アメリカに住んでいる人々の一部の祖先は、アフリカから強制的に連れてこられました。アメリカ大陸にて開拓を進めていくなかで、たくさんのアフリカ系の人々が劣悪な環境のなかで肉体労働を強いられることになります。

連行中に多くの死者を出した奴隷船

最初は入植者と一緒にアメリカ大陸に渡ったことが、アフリカ系アメリカ人の最初とされています。アフリカの人々の売買を専門とする奴隷貿易商が登場したことで、アフリカの人々の扱いがさらにひどくなりました。

奴隷として働かせる人々を連行する際、大人数を船のなかに詰め込むことに。アメリカ大陸に到着するまえに、たくさんのアフリカの人々が病気や飢えなどで亡くなりました。船中で反乱が起こることも。その場合は到着後に厳しく罰せられたと言われています。

プランテーション経営のため南部にて重宝された

アメリカ大陸に連行されたアフリカの人々は、男、女、子どもを問わず「競り」にかけられました。奴隷として売られたアフリカの人々は、主に綿花やたばこ、サトウキビ等を栽培するプランテーションを開拓・維持するための肉体労働に従事しました。

とくにプランテーション経営が経済の中心となっていたアメリカ南部は、アフリカの奴隷なしでは農園を維持することが困難なほど依存度が高まりました。一方、工業化が進んだアメリカ北部は、奴隷の依存度が少なくなったこともあり解放を主張する流れが出てきます。

南北戦争の終結により奴隷解放が行われる

Battle of Hampton Roads 3g01752u.jpg
By Kurz & Allison., – This image is available from the United States Library of Congress‘s Prints and Photographs division under the digital ID cph.3g01752. This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., Public Domain, Link

農業中心の南部と工業中心の北部は、政治をめぐる衝突が激しくなったとき、奴隷制度を維持するかどうかが争点のひとつとしました。最終的に北部軍が勝利したため、入植から続いてきた奴隷制度は廃止されます。

人種隔離政策は「キング牧師」の公民権運動の時期まで継続

北部軍は奴隷制度の廃止を訴えていたものの、必ずしも平等の精神があったわけではありません。そのため1865年に南北戦争が終わったあと南部における「人種隔離」を合法的に認めました。そこで、バス、レストラン、エントランス等、「白人専用」「黒人専用」が設けられることに。

この政策は「ジム・クロウ法」と呼ばれ、1876年から1964年にかけて南部にて存在。「ジム・クロウ法」は、キング牧師を中心とする公民権運動がクライマックスに達するきっかけを作ることになります。

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