長州藩が惨敗した四国艦隊下関砲撃事件
下関事件の報復を受けてもなお攘夷を続ける長州藩、そのため外国も下関海峡をうかつに通ることができない状況でした。これは外国にとって深刻な問題であり、なぜなら日本との貿易ができなくなってしまっているからです。1864年、外国は武力行使によってこの状況の打破を考えます。
イギリスが中心となって、アメリカ・フランス・オランダの四か国の艦隊での長州藩攻撃を計画、イギリスの総司令官・キューパー中将のもと四国連合艦隊が横浜を出港しました。一方、長州藩は2000人ほどの兵と100以上の砲台で構えるものの、禁門の変が起こっていたことで主力部隊が不在の状態で戦わなければなりません。
この兵力の差は埋まらず、長州藩は砲台を占拠された上に破壊されて四か国の連合国に惨敗しました。この戦いが四国艦隊下関砲撃事件であり、1863年の下関事件とこの1864年の四国艦隊下関砲撃事件をまとめて下関戦争と呼んでいるのです。
攘夷への諦めと思想の変化
下関戦争による敗北、そして同時期に起こっていた禁門の変でも敗北した長州藩は朝敵(天皇の敵)とみなされてしまいます。まさに滅亡の危機に陥った長州藩に対して、幕府は天皇の許可を得た上で長州征討を行って攻撃をしかけました。
行き過ぎた攘夷活動が外国を怒らせ、外国と戦争をした長州藩は幕府が怖れたとおり惨敗して大きな損害を出してしまいます。何より長州藩が思い知ったのは外国の軍事力の高さと強さであり、そのためこれまで思想としてきた攘夷が不可能ということが分かったのです。
つまり、下関戦争は長州藩のこれまでの考えを大きく変えるきっかけとなり、この考えを変えたことが近い将来倒幕の考えを生み、やがて日本で倒幕ムードが加速していきます。窮地に陥った長州藩でしたが、この後再び力を取り戻して倒幕の際にはその力と存在感を示すのでした。
下関事件、四国艦隊下関砲撃事件、下関戦争の区別をしよう
下関戦争は戦争の内容そのものよりも、どの戦いをどう呼ぶのかが分かりづらいでしょう。まず、1863年に長州藩が外国船を次々を砲撃したのが下関事件であり、その後長州藩はアメリカとフランスに報復されています。
そして翌1864年にイギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合四か国と戦い、長州藩が惨敗したのが四国艦隊下関砲撃事件です。下関事件と四国艦隊下関砲撃事件、これらをまとめて下関戦争と呼びます。