人々の怒りを買った幕府
攘夷の思想を持つ者が増えた中、人々は幕府に対する怒りも忘れてはいません。「もはや幕府は頼りにならず、天皇中心で政治を行うべきだ!」……こうして生まれた考えが尊王論であり、攘夷の思想と結び付けて尊王攘夷の思想が誕生したのです。とは言え、思想は人それぞれ異なるもので、尊王攘夷の思想を特に支持していたのが長州藩でした。
日米修好通商条約における無勅許での調印問題で特に非難されていたのが井伊直弼、彼は日本に広まる尊王攘夷の思想を持つ者……つまり尊王攘夷派を取り締まらなければ幕府の政治に支障をきたすと考えます。そこで井伊直弼は1858年、安政の大獄を行って尊王攘夷派を厳しく弾圧、多くの者を投獄・処刑していきました。
尊王攘夷派を黙らせるつもりで行った安政の大獄は、その行き過ぎな弾圧からむしろ怒りを買うことになってしまい、そのため井伊直弼は1860年の3月に白昼堂々の犯行によって暗殺されます。これが桜田門外の変と呼ばれる事件で、井伊直弼が暗殺されたことで安政の大獄は終わりました。
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攘夷を条件に公武合体を認めた朝廷
日米修好通商条約、安政の大獄……行うこと全てが人々を不満にさせている幕府、信頼を失いつつある現状を打開するため、幕府は朝廷に協力して政治を行っていくことを考えます。その過程で尊王攘夷の思想を持つ者達を抑え、今一度信頼と力を取り戻そうとしたのです。
そんな幕府の本心はともかく、こうして朝廷と幕府が協力して政治を行うことを公武合体と呼び、尊王攘夷とは異なる新たな思想が生まれました。朝廷はこれに対して攘夷を進めることを条件として、孝明天皇の妹・和宮と将軍・徳川家茂の結婚を認めます。
孝明天皇は外国を嫌う攘夷派でしたから、公武合体の条件として攘夷を行うことは外せませんでした。しかし幕府の本心は攘夷を行うつもりはなく、なぜなら1862年の生麦事件などの経験から外国と戦っても勝ち目がないことが分かっていたからです。つまり、幕府は条件どおり攘夷を進めるつもりはなく、その約束は形式的なものでした。
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攘夷決行に躊躇する幕府と諸藩
1863年3月、京都にやってきた将軍・徳川家茂に対して朝廷は政務委任を行うと同時に条件である攘夷を要求します。「攘夷をするつもりはない」と本心を明かすわけにもいかないため、幕府は5月10日に攘夷を行う旨を伝え、これを諸藩にも通達しました。
ただ、この通達には「攘夷を行うと勝ち目のない戦争をすることになる。その時の損害は計り知れない」という旨の言葉も含めておいたのです。そして攘夷決行の当日、幕府から諸藩に対して何の命令もなく、諸藩もまた幕府の通達を怖れて攘夷決行しようとしません。
幕府を含めてどの藩も外国の軍事力の高さを怖れて攘夷の決行に躊躇したのですが、ただ一つ怖れを知らない藩がありました。それが長州藩で、これまで積極的に攘夷運動を行ってきた長州藩は5月10日に待ってましたとばかりに攘夷を決行、次々と外国を攻撃したのです。
長州藩が攘夷決行した下関事件
攘夷決行当日の5月10日、長州藩は1000人の兵と4隻の軍艦を準備して下関海峡を封鎖します。これは、下関海峡が交通の要所だったためです。まずアメリカ商船のペンブローク号を発見すると砲撃、想定外の攻撃を受けたことでペンブローク号は逃走していきました。
外国を追い払ったことで長州藩の士気は高まり、これに対して朝廷も褒勅を出します。今度は5月23日、フランスの通報艦キャンシャン号を発見するとこれも砲撃、船員は攘夷のことなど知らないため、交渉のためにボートで陸に向かった書記官達に対しても銃撃して殺傷しました。
さらに5月26日、今度は日本と貿易を行っていたオランダに対しても攻撃、オランダ外交代表・ポルスブルックを乗せたメデューサ号を発見すると砲撃します。これが下関戦争の始まりであり、2回にわたって起きた最初の戦いである1863年の下関事件です。
アメリカ・フランスによる下関事件の報復
5月は長州藩が攘夷を決行して次々と外国船を砲撃しましたが、翌6月になるとアメリカがこれに対する報復行動を起こします。6月1日にアメリカはワイオミング号を使い、下関の港に停泊する長州藩の軍艦・庚申丸、壬戌丸、癸亥丸を発見すると砲撃したのです。
長州藩も反撃しますが、いずれの軍艦も返り討ちに遭ってしまい長州藩は敗北、そもそも長州藩の海軍はそれほど強くなかったため、この報復によって長州藩の海軍は壊滅状態になりました。さらに6月5日、今度はフランスも報復行動を起こします。
長州藩の砲台に猛攻撃を浴びせたフランスは陸戦隊を突入させて砲台を占拠、砲台を破壊するだけでなく民家も焼き払っていきました。こうして長州藩は下関事件の報復を受けますが、それでも攘夷を諦めようとはせず、新たな部隊や砲台を増強するなどして外国との戦いに備えたのです。
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