日本全体で外国と戦争するならともかく、なぜ一つの藩にしか過ぎない長州藩が名の知れたこれらの国と無謀にも戦争をする気になったのでしょうか。今回、下関戦争について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から下関戦争をわかりやすくまとめた。
下関戦争の概念
下関戦争には複数の表現の仕方があるため、誤解のないようまずはその点を解説しておきます。下関戦争とは、1863年と1864年の2回に渡って起きた戦いで、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国との間で起こりました。
歴史的には1864年の戦いを馬関戦争と呼んでおり、前年である1863年の戦いはその原因……つまり、「馬関戦争が起こった原因となる事件」と表現されています。ただし、近年では1863年の戦いを下関事件、1864年の戦いを四国艦隊下関砲撃事件と呼んで区別しているのです。
ちなみに、下関戦争はそれぞれの戦いをひっくるめた総称として使われています。このため少し紛らわしいのですが、ここではそれにならって1863年の戦いを下関事件、1864年の戦いを四国艦隊下関砲撃事件、そしてこれらの戦いの総称を下関戦争と表現して解説していきますね。
日米和親条約の締結による日本の開国
時は1853年、当時200年以上にもわたって鎖国を行ってきた日本のもとに黒船が来航しました。これが黒船来航と呼ばれる事件で、乗っていたのはアメリカの提督であるペリー、そしてペリーは幕府に対して鎖国を終わらせて開国をするように要求します。
ペリーの乗ってきた黒船からは、アメリカの技術力が日本のそれを遥かに上回っていることが一目で分かりました。そのためさすがの幕府もその威圧感から抵抗できず、要求されるがまま翌1854年に日米和親条約を結んで下田と箱館を開港、鎖国体制に終止符をうつことになったのです。
こうして日本は200年以上続けてきた鎖国を終わらせて開国、そしてその4年後の1858年に今度は日本の初代駐日公使となったハリスに日米修好通商条約の締結を要求されました。これもハリスの要求どおり締結させてしまうのですが、そこには2つの問題があったのです。
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日米修好通商条約における2つの問題
日米修好通商条約の締結における問題その1、それは幕府が無勅許(天皇の許可を得ない)で条約に調印したことです。確かに当時の日本を統治していたのは幕府でしたが、地位で比較すれば将軍は天皇の部下の立場であり、外国との条約における調印には天皇の許可が必要でした。
そして日米修好通商条約の締結における問題その2、これはこの条約そのものが日本にとって不利な不平等条約だったことです。領事裁判権の承認は例え重罪でも日本で罪を犯した外国人を自国で裁けず、関税自主権の放棄は輸入品の関税を自国で設定できないことから日本の経済に影響しました。
これら2つの問題から、日本の人々は幕府と外国に不満を持ちます。不平等条約を提案した外国に敵意を持つのは当然として、その条約に対してこともあろうに無勅許で調印してしまった幕府にも腹が立ったのです。外国に敵意を持ったことで外国を追い払おうとする考えが生まれ、それが攘夷と呼ばれる思想でした。
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