日本史

長州藩の攘夷の代償!「下関戦争」について元塾講師が分かりやすく5分で解説

よぉ、桜木建二だ。今日は下関戦争について勉強していくぞ。下関戦争とは1863年に日本で起こったイギリス・フランス・オランダ・アメリカとの戦争で、しかもこれらの国と戦ったのは長州藩だ。

日本全体で外国と戦争するならともかく、なぜ一つの藩にしか過ぎない長州藩が名の知れたこれらの国と無謀にも戦争をする気になったのだろうか。今回、下関戦争について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から下関戦争をわかりやすくまとめた。

下関戦争が起こるまで 日本の開国

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下関戦争の概念

下関戦争には複数の表現の仕方があるため、誤解のないようまずはその点を解説しておきます。下関戦争とは、1863年と1864年の2回に渡って起きた戦いで、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国との間で起こりました。

歴史的には1864年の戦いを馬関戦争と呼んでおり、前年である1863年の戦いはその原因……つまり、「馬関戦争が起こった原因となる事件」と表現されています。ただし、近年では1863年の戦いを下関事件1864年の戦いを四国艦隊下関砲撃事件と呼んで区別しているのです。

ちなみに、下関戦争はそれぞれの戦いをひっくるめた総称として使われています。このため少し紛らわしいのですが、ここではそれにならって1863年の戦いを下関事件、1864年の戦いを四国艦隊下関砲撃事件、そしてこれらの戦いの総称を下関戦争と表現して解説していきますね。

日米和親条約の締結による日本の開国

時は1853年、当時200年以上にもわたって鎖国を行ってきた日本のもとに黒船が来航しました。これが黒船来航と呼ばれる事件で、乗っていたのはアメリカの提督であるペリー、そしてペリーは幕府に対して鎖国を終わらせて開国をするように要求します。

ペリーの乗ってきた黒船からは、アメリカの技術力が日本のそれを遥かに上回っていることが一目で分かりました。そのためさすがの幕府もその威圧感から抵抗できず、要求されるがまま翌1854年に日米和親条約を結んで下田と箱館を開港、鎖国体制に終止符をうつことになったのです

こうして日本は200年以上続けてきた鎖国を終わらせて開国、そしてその4年後の1858年に今度は日本の初代駐日公使となったハリスに日米修好通商条約の締結を要求されました。これもハリスの要求どおり締結させてしまうのですが、そこには2つの問題があったのです。

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下関戦争が起こった10年前、日米和親条約の締結によって日本は開港を余儀なくされた。さらに日米修好通商条約の締結、そしてここで起こった2つの問題とは何なのだろうか。それについてはこの後解説していくぞ。

下関戦争が起こるまで 尊王攘夷の思想の誕生

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日米修好通商条約における2つの問題

日米修好通商条約の締結における問題その1、それは幕府が無勅許(天皇の許可を得ない)で条約に調印したことです。確かに当時の日本を統治していたのは幕府でしたが、地位で比較すれば将軍は天皇の部下の立場であり、外国との条約における調印には天皇の許可が必要でした。

そして日米修好通商条約の締結における問題その2、これはこの条約そのものが日本にとって不利な不平等条約だったことです。領事裁判権の承認は例え重罪でも日本で罪を犯した外国人を自国で裁けず、関税自主権の放棄は輸入品の関税を自国で設定できないことから日本の経済に影響しました。

これら2つの問題から、日本の人々は幕府と外国に不満を持ちます。不平等条約を提案した外国に敵意を持つのは当然として、その条約に対してこともあろうに無勅許で調印してしまった幕府にも腹が立ったのです。外国に敵意を持ったことで外国を追い払おうとする考えが生まれ、それが攘夷と呼ばれる思想でした。

人々の怒りを買った幕府

攘夷の思想を持つ者が増えた中、人々は幕府に対する怒りも忘れてはいません。「もはや幕府は頼りにならず、天皇中心で政治を行うべきだ!」……こうして生まれた考えが尊王論であり、攘夷の思想と結び付けて尊王攘夷の思想が誕生したのです。とは言え、思想は人それぞれ異なるもので、尊王攘夷の思想を特に支持していたのが長州藩でした。

日米修好通商条約における無勅許での調印問題で特に非難されていたのが井伊直弼、彼は日本に広まる尊王攘夷の思想を持つ者……つまり尊王攘夷派を取り締まらなければ幕府の政治に支障をきたすと考えます。そこで井伊直弼は1858年、安政の大獄を行って尊王攘夷派を厳しく弾圧、多くの者を投獄・処刑していきました。

尊王攘夷派を黙らせるつもりで行った安政の大獄は、その行き過ぎな弾圧からむしろ怒りを買うことになってしまい、そのため井伊直弼は1860年の3月に白昼堂々の犯行によって暗殺されます。これが桜田門外の変と呼ばれる事件で、井伊直弼が暗殺されたことで安政の大獄は終わりました。

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日米修好通商条約の締結は人々に外国と幕府に対する不満を生み、その不満が尊王攘夷の思想を誕生させた。そして、尊王攘夷の思想を特に支持していたのが長州藩だ。さあ、これで下関戦争が起こったいきさつが少しずつ見えてきただろう。

下関戦争が起こるまで 公武合体の提案と条件

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攘夷を条件に公武合体を認めた朝廷

日米修好通商条約、安政の大獄……行うこと全てが人々を不満にさせている幕府、信頼を失いつつある現状を打開するため、幕府は朝廷に協力して政治を行っていくことを考えます。その過程で尊王攘夷の思想を持つ者達を抑え、今一度信頼と力を取り戻そうとしたのです。

そんな幕府の本心はともかく、こうして朝廷と幕府が協力して政治を行うことを公武合体と呼び、尊王攘夷とは異なる新たな思想が生まれました。朝廷はこれに対して攘夷を進めることを条件として、孝明天皇の妹・和宮と将軍・徳川家茂の結婚を認めます。

孝明天皇は外国を嫌う攘夷派でしたから、公武合体の条件として攘夷を行うことは外せませんでした。しかし幕府の本心は攘夷を行うつもりはなく、なぜなら1862年の生麦事件などの経験から外国と戦っても勝ち目がないことが分かっていたからです。つまり、幕府は条件どおり攘夷を進めるつもりはなく、その約束は形式的なものでした。

攘夷決行に躊躇する幕府と諸藩

1863年3月、京都にやってきた将軍・徳川家茂に対して朝廷は政務委任を行うと同時に条件である攘夷を要求します。「攘夷をするつもりはない」と本心を明かすわけにもいかないため、幕府は5月10日に攘夷を行う旨を伝え、これを諸藩にも通達しました。

ただ、この通達には「攘夷を行うと勝ち目のない戦争をすることになる。その時の損害は計り知れない」という旨の言葉も含めておいたのです。そして攘夷決行の当日、幕府から諸藩に対して何の命令もなく、諸藩もまた幕府の通達を怖れて攘夷決行しようとしません。

幕府を含めてどの藩も外国の軍事力の高さを怖れて攘夷の決行に躊躇したのですが、ただ一つ怖れを知らない藩がありました。それが長州藩で、これまで積極的に攘夷運動を行ってきた長州藩は5月10日に待ってましたとばかりに攘夷を決行、次々と外国を攻撃したのです。

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信頼を回復するため朝廷と協力して公武合体を考えた幕府だが、そこで朝廷が突き付けた条件は攘夷決行だった。外国の強さを知る幕府はこれを了承するものの、本気で決行するつもりはなかった。しかし、長州藩だけは恐れずに攘夷決行したのだ。

下関戦争の勃発 1863年・下関事件

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長州藩が攘夷決行した下関事件

攘夷決行当日の5月10日、長州藩は1000人の兵と4隻の軍艦を準備して下関海峡を封鎖します。これは、下関海峡が交通の要所だったためです。まずアメリカ商船のペンブローク号を発見すると砲撃、想定外の攻撃を受けたことでペンブローク号は逃走していきました。

外国を追い払ったことで長州藩の士気は高まり、これに対して朝廷も褒勅を出します。今度は5月23日、フランスの通報艦キャンシャン号を発見するとこれも砲撃、船員は攘夷のことなど知らないため、交渉のためにボートで陸に向かった書記官達に対しても銃撃して殺傷しました。

さらに5月26日、今度は日本と貿易を行っていたオランダに対しても攻撃、オランダ外交代表・ポルスブルックを乗せたメデューサ号を発見すると砲撃します。これが下関戦争の始まりであり、2回にわたって起きた最初の戦いである1863年の下関事件です。

アメリカ・フランスによる下関事件の報復

5月は長州藩が攘夷を決行して次々と外国船を砲撃しましたが、翌6月になるとアメリカがこれに対する報復行動を起こします。6月1日にアメリカはワイオミング号を使い、下関の港に停泊する長州藩の軍艦・庚申丸、壬戌丸、癸亥丸を発見すると砲撃したのです

長州藩も反撃しますが、いずれの軍艦も返り討ちに遭ってしまい長州藩は敗北、そもそも長州藩の海軍はそれほど強くなかったため、この報復によって長州藩の海軍は壊滅状態になりました。さらに6月5日、今度はフランスも報復行動を起こします

長州藩の砲台に猛攻撃を浴びせたフランスは陸戦隊を突入させて砲台を占拠、砲台を破壊するだけでなく民家も焼き払っていきました。こうして長州藩は下関事件の報復を受けますが、それでも攘夷を諦めようとはせず、新たな部隊砲台を増強するなどして外国との戦いに備えたのです。

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1863年の5月に長州藩が攘夷活動として外国船を次々と砲撃したのが下関事件だ。下関戦争はこの下関事件と四国艦隊下関砲撃事件の総称だが、下関事件後のアメリカ・フランスの報復はあくまで報復であって四国艦隊下関砲撃事件とは違うぞ。

下関戦争の勃発 1864年・四国艦隊下関砲撃事件

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長州藩が惨敗した四国艦隊下関砲撃事件

下関事件の報復を受けてもなお攘夷を続ける長州藩、そのため外国も下関海峡をうかつに通ることができない状況でした。これは外国にとって深刻な問題であり、なぜなら日本との貿易ができなくなってしまっているからです。1864年、外国は武力行使によってこの状況の打破を考えます。

イギリスが中心となって、アメリカ・フランス・オランダの四か国の艦隊での長州藩攻撃を計画、イギリスの総司令官・キューパー中将のもと四国連合艦隊が横浜を出港しました。一方、長州藩は2000人ほどの兵と100以上の砲台で構えるものの、禁門の変が起こっていたことで主力部隊が不在の状態で戦わなければなりません。

この兵力の差は埋まらず、長州藩は砲台を占拠された上に破壊されて四か国の連合国に惨敗しました。この戦いが四国艦隊下関砲撃事件であり、1863年の下関事件とこの1864年の四国艦隊下関砲撃事件をまとめて下関戦争と呼んでいるのです

攘夷への諦めと思想の変化

下関戦争による敗北、そして同時期に起こっていた禁門の変でも敗北した長州藩は朝敵(天皇の敵)とみなされてしまいます。まさに滅亡の危機に陥った長州藩に対して、幕府は天皇の許可を得た上で長州征討を行って攻撃をしかけました。

行き過ぎた攘夷活動が外国を怒らせ、外国と戦争をした長州藩は幕府が怖れたとおり惨敗して大きな損害を出してしまいます。何より長州藩が思い知ったのは外国の軍事力の高さと強さであり、そのためこれまで思想としてきた攘夷が不可能ということが分かったのです。

つまり、下関戦争は長州藩のこれまでの考えを大きく変えるきっかけとなり、この考えを変えたことが近い将来倒幕の考えを生み、やがて日本で倒幕ムードが加速していきます。窮地に陥った長州藩でしたが、この後再び力を取り戻して倒幕の際にはその力と存在感を示すのでした。

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怖れを知らない長州藩だったが、四国艦隊下関砲撃事件で外国の軍事力の高さと強さを思い知った。ボロボロの状態になった長州藩は攘夷を諦めることになり、その思想の変化がやがては倒幕の考えを生むことになっていくのだ。

下関事件、四国艦隊下関砲撃事件、下関戦争の区別をしよう

下関戦争は戦争の内容そのものよりも、どの戦いをどう呼ぶのかが分かりづらいでしょう。まず、1863年に長州藩が外国船を次々を砲撃したのが下関事件であり、その後長州藩はアメリカとフランスに報復されています。

そして翌1864年にイギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合四か国と戦い、長州藩が惨敗したのが四国艦隊下関砲撃事件です。下関事件と四国艦隊下関砲撃事件、これらをまとめて下関戦争と呼びます。

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