
次第に勢力を弱めていく大友家
By 不明 – 毛利博物館所蔵, パブリック・ドメイン, Link
九州での勢力を拡大していた大友家でしたが、宗麟がキリストの布教を許したことで、キリストに反発する家臣との間で対立。正室であった奈多夫人(なだふじん)も八幡奈多宮の大宮司・奈多鑑基の娘。キリストを保護する宗麟とは、信仰を巡って度々争うようになっていきます。そして、1558年から続く毛利元就との合戦、門司城の戦いに敗戦したことにより出家し、永禄5年(1562年)自らを義鎮から休庵宗麟と称しました。永禄13年(1570年)、肥前の龍造寺隆信との今山の戦いにおいて弟、大友 親貞(おおとも ちかさだ)を失い大敗。肥前への侵攻も危うくなっていきます。
こうして、大友家は徐々にに勢力を弱めていきました。天正4年(1576年)宗麟は家督を嫡男である大友義統(おおともよしむね)に継承。二代政治を行うようになりますが、共同政治の確執もあり親子の仲はあまり良いものではありませんでした。義統自身もかなりの酒豪で、当主の器としての人望には乏しかったようです。しかし、大友家の家臣達は優秀な逸材が多く、雷神と呼ばれた立花道雪や名将と言われた高橋紹運・立花宗茂など、義に厚い家臣の活躍は有名ですね。
理想国家は実現せず、耳川の戦いで敗退
家督を義統に継承し、隠居生活に入った宗麟でしたが、大友家の実権は宗麟が握っていました。天正4年(1576年)には、ポルトガルの宣教師から日本初となる大砲、フランキ砲を輸入。これが敵の国をも崩す威力があるとし「国崩し」と命名されます。天正6年(1578年)7月、宣教師のフランシスコ・カブラルからから洗礼を受け「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式なキリスト教信者となりました。しかし、戦場でも陣中で礼拝するなど、軍の指揮は下がる一方だったのです。
宗麟はこの頃から無鹿(現在の宮崎県延岡市)にキリスト教の理想国家を作る夢を抱き始めていました。musikaとはラテン語で「音楽」を意味する言葉であり、全ての民がキリストを崇拝し、教会を建て、賛美歌やヴィオラの音色が流れる平和な都市。宗麟はそのためなら手段を選ばず、神社などの仏閣を焼き払うなどの残虐な行為を行います。宗麟のキリスト教信仰が影響し、離反していく家臣も多くいました。同年行われた耳川の戦いで大友軍は島津軍に大敗。元々義統率いる4万の軍勢の士気は乏しく、二万を超える大友軍の死者で耳川は溢れかえったと言われています。この大敗により宗麟は豊後に撤退。理想国家の夢が実現することはありませんでした。
大友家は衰退…宗麟の死

天正13年(1585年)立花道雪が病死。これを機に、九州で勢いを強めていた島津の軍勢が豊後に侵入を始めます。岩屋城の戦いで、高橋紹運も自刃するなど優秀な家臣を失い、もはや弱体化しつつある大友家の力では勝てる見込みがない…宗麟は意を決して大坂城の豊臣秀吉に謁見し助けを求めました。豊臣傘下となる条件で秀吉からの援護を約束された宗麟は、九州征伐の緒戦となる戸次川の戦いで豊臣軍として参戦。
ところが、総大将である讃岐国(現在の香川県)の仙石秀久の敗走により総崩れとなり敗退。臼杵城に籠城していた宗麟にも、島津の軍勢が押し寄せてきます。しかし、宗麟は国崩しを発射、さらには義統隊の救援も加わり臼杵城を守り抜きました。天正15年(1587年)、秀吉による九州征伐が開始されます。20万と言う大軍を迎え撃った島津軍でしたが、圧倒的な兵の数に敗北。豊臣軍の圧勝により、義統には豊後一国が安堵されます。秀吉は宗麟にも日向国を与えようとしますが、統治力をなくしていた宗麟がこれを辞退。この頃から病気を患っていた宗麟は、同年津久見城にて58歳で逝去。病名はチフス(細菌感染症)と言われています。
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宗麟亡き後の大友家
宗麟亡き後の大友家は、義統が文禄・慶長の役(平壌城の戦い)において、小西行長隊から応援要請があったにも関わらず、家臣からの誤報を信じ撤退したことで、秀吉の怒りを買い改易処分となってしまいます。秀吉が亡くなった後、豊臣秀頼によって処分をとかれ、関ケ原の戦いで西軍として復活。しかし、義統の嫡男、大友 義乗(おおとも よしのり)が義統改易後、加藤清正に預けられ、徳川秀忠の家臣となっていたことから、大友家の家臣であった吉弘統幸(よしひろむねゆき)は東軍に味方するべきと強く主張。しかし、義統はこれを却下し西軍に味方します。
結果、東軍勝利で関ケ原の戦いは幕を閉じ、義統は再び流罪となってしまいました。東軍に付いていた義乗はその後、常州筑波郡(現在の茨城県)に3300石の領地を与えられ、大身旗本となります。義乗死後は次男の大友義親が家督を継ぎますが23歳で逝去。跡継ぎがいないことで断絶となりますが、後に高家(こうけ/江戸時代の役職)として再興し、1500石の知行を与えられています。
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文化人としての活躍が目立った大友宗麟
大友宗麟は、キリスト教を信仰することで南蛮文化に興味を抱き、総合病院建設など、最先端技術を豊後に取り入れ、さらに演劇や西洋音楽の発祥地とも言われるほど豊後の発展に貢献しました。当時のヨーロッパでは王と称えられ、地図にはBUNGOとJAPAN二つの文字が刻まれるほどであり、織田信長より知名度が高かったと言われています。一時は島津と対抗する勢力を持っていた大友家は、宗麟がキリスト教を信仰することで、反信仰派との対立が悪化。九州6ヶ国を平定するまで勢力を拡大していましたが、島津に押され徐々に衰退の一途を辿るようになります。しかしそんな宗麟を救ったのは、優秀な家臣たちでした。豊州三労と呼ばれた立花道雪・高橋紹運・臼井鑑速(うすきあきはや)は有名ですね。
多くの戦いに参戦した宗麟は、「武士」と言うより文化人として活躍することが多く、茶器を好んで集めたり、さらには蹴鞠の名手とも言われ、その腕前はかなり優秀だったそうです。そんな顔とは裏腹に美貌を好み、家臣の妻でさえも奪う好色癖があったとか。そんな宗麟を義鑑が嫌い、塩市丸に家督を継承させたかったと言われています。キリストを崇拝することで優しい神のようなイメージの宗麟ですが、そんな激しい一面もあったとは驚きですね。理想のキリシタン国家を作る夢は実現しませんでしたが、キリシタン大名として、豊後の発展に貢献した宗麟の偉業は現在でも多くの人に語り継がれています。
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